最後の命

和歌宮

最後の命

その世界を志すものはこう言った。

「あの人は冷徹で寂しい天才だ」と。

その世界を夢見るものはこう言った。

「この人は人間臭く温かい努力家だ」と。


 雑誌の記事の中のあの子はいつも空想で出来ていた。ちゃんと存在しているのに。

 何者にもあの子のことは描けやしまい。

そう思いながらコーヒーを啜った。砂糖と濃いミルクの匂いが鼻をくすぐる。

 この感覚を味わうついでのように私は目を閉じて、立てた肘の上に顔を乗せた。

 時計の針の音は静かに私を連れ出し、あの子のもとへ行かせてくれた。



「私は美術部に入ろうと思う。そして必ず日本一に輝くんだ」

 あの子の瞳は私に向かってそう言った。何者にも恐れることなく言い切った。

 私はあの子の古くからの友人として背を押してやることにした。

たった3年の高校生活だ。小学校より好き勝手やったって、他の者の記憶には残るまい。

 そう考えた。

 あの子はその日から毎日美術室に入り浸った。少ししかない昼休みでさえ足を運んだ。

 私はたまにあの子について行ってじっと見ていた。

 私の知る限りあの子は絵が上手くなく、センスも普通である。

 それでもキャンバスを睨み、乾き切っていない油絵具の上を筆やナイフで滑るあの子は間違いなく私を幸せにしてくれた。

 いつも描いている天使は、あの子の生き方を静かに見つめる唯一の観客仲間だった。

 少し空いた窓はサラサラとした風を残していき、いつも私たちを包み込んだ。


「君をモデルにして絵を描きたい」

 この生活ももう少しで3年経つ、少し肌寒い季節のことだった。

 どうやら部活最後の活動として作品を出品するらしい。

そのモデルとして私は選ばれたようだ。

「いいよ」

 迷うことなく私は言った。あの子が私を刻みつけてくれるのかと思うと嬉しくて、ほんの少し寂しかった。

 夕日が暖めた草の上で私は自然体で座った。

 あの子はその姿をキャンバスに刻み込んだ。

こちらからは光が強すぎて見えないが、あの子の顔は楽しげな雰囲気であった。

 木炭がキャンパス上をこする音、絵の具がベタっと踊る音、ペインティングナイフがガリガリと鼓動を刻む音。

 ゆったりとした時間は私たちを守り、2人だけの空間へ飛んでいっているようだった。


「私は芸術を学びに行く。そしてそこで世界一になるのだ」

 結局あの後、あの絵がどのような評価を受けたのかは私にははっきりと思い出せない。

 ただ、あの子が何か賞状を授与されていた気がするのだけはかすかながら覚えている。

 スートブが教室を少し暑すぎるくらいに暖めた空間で2人きりでいた。

 私は握っていたシャーペンを置き、少し汗ばんだ手をスカートで拭った。

 あの子は暑がりなはずなのに、寒そうに震えながら私に話していた。

 私は私の膝掛けをあの子の肩に掛けてやった。震えが少しおさまったように見えた。

 私はあの子の母親であるかのようにゆっくりと優しく、はっきりと尋ねた。

「いつも突拍子のないことばかりするけれど、なぜ私にだけはそれを教えてくれるの?」

 あの子は恥ずかしそうだった。

目は合わそうとしても一瞬だけしか合わず、すぐに逸らされる。

ジリジリと熱気が押し寄せる。

あの子はそっと乾いた唇を舐めて言った。

「君だからだよ」

 小さな声でそう言った。少し高い可愛らしい声。

私は「そっか。ありがとう」と返した。

教室にはチャイムが鳴り響いた。

もう各々の家に帰らないといけない。


 厳しい寒さであったが、私たちは無事に高校を卒業した。

 私は地方の大学へ、あの子は都会の芸術の大学へ。

 帰り道、公園へ入り、ベンチに2人で腰掛けた。

 そこであの子は驚くことを言った。

「私の命は3つあるんだ。この命の使命を果たし終わった時私は......。今はまだ分からない。

まず1つ目の命の使命は芸術で日本一に輝くことだった。

次に2つ目の命の使命は芸術で世界一になることだ」

 私は白い息を吐き出しながら尋ねた。

「3つ目の命の使命は何なの?」

 他のことは聞かなかった。聞いたところで私の脳はあの子のことを理解し切ってあげれないから。

 あの子は鞄から水筒を取り出して白い湯気の立つお茶を飲んだ。

 そしてこちらを見て笑った。

「秘密」

 あの子は満足して、けじめをつけたようだ。

 私はただ、昼下がりの寒空でただただ春が来るのを2人で待ちたくなった。

 雀はつぶらな瞳を黒々と光らせた。


 あれからどのくらいの時を使ったのだろうか。

 悲しいことに私たちはあの日以降連絡を取り合っていなかった。

 いや、正確には取り合えなくなったと言った方が正しい。

 あの子は急に跡形もなく消えるように連絡先を消した。私には為す術もなかった。

 暗くて苦しい気持ちを隠しながら大学を卒業した。

 不思議なことに4年間恋人を作らなかった。

機会はいくらでもあったのにも関わらず。

 ただただあの子の影を踏めでもしたらとしか考えられなかったからだ。

 打ち込んだ勉強やアルバイトは呆気なく終わりを迎えた。引き留めなどしなかった。


 会社に入り、ひたすら日々の仕事をこなすばかりだった。

 狭い世間ではすぐ耳に入ってくる。

 社内の人間の恋愛模様や結婚報告、妊娠報告。

 ひたすら祝い続けた。手は痺れを起こした。

 幸せそうな彼らの顔を見るたび胸の奥がズキズキとしてキュッと締め付けられた。

 私が白く染め上げたいのは何故かあの子以外有り得なかった。

 そんな自分に疑問が膨らみ続けて行った。


 自分の部屋へ続く階段を登って鍵を開ける。

 いつもは軽く感じる感覚が今日はやけに重い。

 短い廊下を早足で歩くと電気をつけ、荷物を床に放り投げた。

 私の視線を集めるのは手の中にある薄い紙切れ一枚。

 あの子に会えるかもしれないたった一つの希望。

 私は迷わず夢を見ることにした。


 ガヤガヤとした雰囲気に包まれながらポツンと佇んでいた。

 あちらこちらのグループで話に花が咲く。

 学生時代の私にはあの子しかいなかった。

だから話し相手はいるはずもなかった。

 グラスの中身が少しずつ減っていく。

 人の波に酔ってゆく。

 寂しさとポッカリ空いた心を持て余していた。

 1人の人が近寄ってきた。

 周りの皆は声を上げる。私も釣られて顔を上げた。

 あの子だった。


 あの子は変わった。学生時代はゆるゆるとしたファッションを好んでいたが、大人となった今、スッキリとし、洗練された装いだった。

「帰ろっか。一緒に。来てほしいところがあるんだ」

 酔いが覚めた。返事が遅れる。たったその数秒の間にあの子は人に囲まれた。

 断片的に聞こえる声から、あの子の今を知った。

 もうあの子と私は同じ次元にはいられないようだ。

 不思議で仕方なかった。何故私は一度でもあの子の行方を調べようともしなかったのか。

 生ぬるい考えだが、きっとあの子がこうして迎えにくるのを、来てくれるのを待っていたんだ。

 背筋が伸びて、震えた。

 あの子の手首を咄嗟に握った。それだけで十分だった。

 あの子は私の手を優しく包み、引いてくれた。

 喧騒が後ろ後ろに遠ざかる。

 心臓の鼓動が合わせようと早くなる。

 あの子の優しい香りがサッと私を掠める。

 タクシーに飛び乗って2人で肩を寄せ合いながら座る。

 人生で初めての2人だけの逃避行。

 喧騒の嫌らしさなど、捨ててしまおう。人目など自分で遮ってしまおう。

 だってあの子がいれば、なんだっていいのだから。


 タクシーはぐんぐんと進んでいく。

 やがて人気のない場所まで来た。あの子は不意に止めた。

 料金を払おうとしたが、やんわりと手で塞がれ、あの子が払った。

 車から降りて私は半分払うと言った。

 あの子は首を振った。

「大丈夫。私が君を連れてきたかったんだから」

 いつのまにか大人の余裕を手に入れたあの子の背を追う。

 目の前に大きな洋風の家、館といっても差し支えない建物が現れた。

 おとぎ話の中にお邪魔しているようで、見惚れてしまう。月の光が幻想的だ。私の瞳には星の子が輝きを分けてくれている。

 あの子は私の反応を見て、少し笑った。

「こっちに来て」

 あの子に手を引かれ、私は月夜の道を進んだ。


 中に入るとお洒落な空間が私を包み込んだ。

 端々に少しヴィンテージさも感じるのに、その積もった結晶が真新しさを醸し出している。

「ここは私の知り合いの場所なんだ。頼み込んで借りている。もう何年も住んでいるから私のものに違いはないのだけれどね」

 グングンと進みながら時折説明をしてくれる。

「ここだよ」

 あの子は喜んだように言った。

「この先に何があるの」

 私は尋ねた。

「この先は私だけ、いや、これからは私たちだけの城だ」

 そう言って扉が開かれた。


 部屋の空気は鼻につく匂いだった。そこはあの子だけのアトリエだった。

 あの子は使命を果たしたのだと急に悟った。

 絵の後ろ側からでも、あの子の存在が感じられた。 

 それは空気だったり、床に置かれた服だったり、机に置かれたマグカップだったり。

 あの子が灯した薄暗いランプの光で、まだまだあの子を探したい。

「今日はもう遅いね。寝ようか」

 私が部屋に釘付けになって数分経った時、あの子はこう言った。

 夜の深さは私からしてはまだまだだと感じたが、この神聖な場ではあの子がすべて。

 隔離された外の世界に随分と毒されてしまったなと感じる。

 メイクを落としてあの子に借りた服に着替えて、少しサイズの大きいベットに2人で並んで寝転がった。

 私は壁側で壁に身を引っ付けて寝ている。

 ふと、隣のあの子に目を向ける。

 少し大人な顔つきになったあの子。

 こんなふうに誰かと一緒に夜更けを待ったことがあるのだろうか。ぼーっとした脳で考えた。

 あの子が目を開いてこちらを見た。薄い唇の隙間から寝言のように囁いた。

「明日、3つ目の命の使命を、君に見せてあげる」

 薄ピンクの唇から目が離せない。

 あの子は再び目を閉じて、深い呼吸を繰り返し始めた。

 ついにあの子の深淵に落ちてもいいのだ。

 なら私も、......どうしてしまうのが一番良いだろうか。


 気がついたら朝を迎えていて、あの子はすぐ側で相変わらず絵を描いていた。

 私が起きたのに気づくと優しく「おはよう」と言った。

 あの子は着替えを渡してくれた。君に似合うだろうと思っての服らしい。

 あの子のセンスは私には分からないものに変わっていた。

 朝食は私が作った。昨日からの礼を込めてのことだ。あの子のことだからまともにご飯を食べているか心配だったが、意外と冷蔵庫はカラフルだった。

「栄養は芸術に似ているからね」

 同じ食卓を囲むあの子はそう言って、口いっぱいに料理を詰め込んだ。

 久しぶりに美味しさに感謝したくなった。

「美味しい」

 そう言ってくれるあの子が愛おしかった。


 「ついてきてくれ」

 あの子は私にお願いをしてきた。

 朝食の片付けを終え、ゆっくりとお茶を飲みながら、本棚から引っ張り出した画集を見つめていた時だった。

 カラフルなそれに目がチカチカした。

 しかし、あの子を見るとあの子だけが持つ柔らかい色で目が落ち着いた。

 2人で席を立ち、向かう。

 何度か廊下を曲がり、幾つかの部屋の前を渡り歩いていく。

「この部屋は、たまに芸術を学ぶ人たちが来た時に泊めているんだ。それは学生だったり、尊敬する人であったり色々だけどね。これからは出来るだけ使わせないようにしようと思っている」

 あの部屋に泊まった者たちはあの子に惹かれたのだろう。なんだか嫌だ。

 離れていた時を見せつけられたようだった。


「ついたよ」

 一番端にある部屋。庭が見える場所だった。

 あの子は重厚な扉を両手で開けた。

 そこは、美しい世界だった。

 ステンドグラスは朝の光を吸い込み、キラキラと輝かせている。

 その下の壁には絵がたくさん飾ってあった。

 すべてあの子のものだった。

 絵は私の知らない天使たちがいた。

 顔が少し似通っている以外は、髪型や体型、服装など異なっていた。

 彼らはずっとあの子を見守ったのだろうか。

 1枚1枚からの目線をくぐり抜ける。

 部屋の一番奥にたどり着く。そこには一番大きな絵が堂々と飾ってあった。

 その絵は、......在りし日の私だった。

「これが私の3つ目の命の使命」

 静かに語った。これが3つ目。

「何故こんなに大きく描き直したの?」

 あの子の少し高い目線に焦点を定める。

 あの子は黙って後ろに下がり、カーテンを思いっきり引いた。

 暖かい日差しは額の中の私を照らした。

「君は神様なんだ。私にとっての永遠の。

だから、どうしても、どうしてもっ、君と結ばれたかった。この絵はただの私の祈りだよ。ずっとこの命をすべて君だけに捧げてきた」

 私は静かに涙した。分かってしまった。

 互いの心に触れなくともわかると思っていたが、まさか互いにとんだ鈍感だったとは。

 天晴れ。完敗だ。

「私にあなたの命をすべてをくれてありがとう」

 額の中の私は2人を静かに見守った。

 あの子も頬に一筋静かに溢した。

「そんなのお安い御用さ。この先の全て全部君に捧げてもいいかな?」

 声の代わりに、私はあの子の頬に愛を刻んだ。


「あのたくさんの天使は全部君への想いだよ。君がどんな姿であっても、どんな立場であっても、見つけられるように願ってね。

そして一番大きなあの絵は、私の祈りを守るもの。朝に光が入ると額の中の君を照らす。

君は毎朝ヴェールを纏う。一瞬のことだけど、それが幸せだった」

 告白の内容に驚きはしたけれど、ずっと忘れていないでくれて嬉しかった。

 こんなことは本物の愛でしかないと思った。

 やがて一つの考えに行き着く。

「この服はもしかして」

「そう、素敵なドレスのつもりさ。君がベールをつけるのを見て嬉しかった。君にはやっぱり白が似合うね」

 気恥ずかしいけれど、あなたにもねとからしたら、あの子は穏やかに言った。

「これで最後を迎えたよ」

 

 

 今でも思い出す甘酸っぱい言葉。

 時計の針の音が私を現実に連れ戻す。

 いつの間にかコーヒーも冷めている。部屋は徐々に赤みを増してゆく。


 あの後私は仕事を辞めてあの子を支えていくことに決めた。

 あの子は泣いて喜んだ。その後少し心配そうに伺ってきたが、私は言った。

「私はあなただけの神様よ。そばにいるのは当然よ」

 そっと柔らかい髪を撫でる。

 あの子は満足そうに頷いた。


「懐かしいものを見ているね」

 あの子が後ろから雑誌を覗き込んだ。

あの子と私の顔には線が増えてきた。それと同時に雑誌にも細やかな線が増えていた。


「ねぇ、なんで3つ目が最後の命だったの?」

 唐突に問いかけてきた私にびっくりとした顔をしていたが、あの子は変わらない薄ピンクの唇で言った。


「君は私の神様。神様の心の内を知ったのなら、私はそれを叶えないといけない。

私は私が得たすべての上り詰めた先で、私は神様にそれでも心変わりしていないと伝えたかった。だから最後。

この後も先もない最後の命。それが3つだったのさ。

その3つは君のおかげで今を楽しんでるよ」

 思わず顔に熱が灯る。

 今しかない。

 とびきりの笑顔で見つめる。

「この先、たとえ来世でも、私はあなたにしか願いを叶えてもらわないわ」

 あの子も私にだけのとびきりの笑顔で見つめた。

「もちろんさ。君のためにすべてを捧げるよ。もちろん、君が心変わりしたら、死んでその命の使命を強制的に終わらせる。そして、来世でまた君を待ってるよ。永遠に」


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