死ぬ前にカレーを食べよう

伊藤乃蒼

死ぬ前にカレーを食べよう

 友達と喧嘩した。親と喧嘩した。何もかもがどうにでもよくなった。というわけで俺は死のうと思う。だがしかし、死ぬまでにやりたいことがある。大阪にある『自由軒』 のカレーを食べることだ。


 俺は文学少年というわけではないが織田作之助の『夫婦善哉』が好きだ。とある漫画のキャラクターとしての織田作之助が好きだし、夫婦善哉という作品自体も好きだった。あの女主人公の気の強さが俺にもう少しあれば死のうなんて思わないんだろうが、俺は小説の中に登場するカレーを食べて死ぬんだ。


 千円札をチャージして、電車に乗って、揺られて、あっという間に梅田に着く。特に山も谷もない梅田への旅路。味気ない。俺の人生並みに味気ない。夫婦善哉は読めば読むだけ女主人公の大阪の中の移動に感情移入出来たのに、俺の旅路は本当に味気ない。捨てる直前のガムみたいだ。


 梅田からブラブラと歩く。俺の地元では考えられないくらいの人ごみで、押しつぶされそうになりながら歩く。このまま押しつぶされて死んでもいいような気がしたが、その前にカレーが食べたい。ただのカレーじゃない。自由軒のカレーじゃないとダメだ。


 マックの横を通ると、マックの独特のにおいがした。食欲をそそる油のにおいで、友達と学校帰りにマックによってバーガーとポテトを食べたことを思い出す。あ、今度新作のバーガーが出るんだった。


 いやいや、俺は自由軒のカレーを食べて死ぬんだ。


 梅田の駅にある牛丼屋に人の列が並んでいる。あ、今日の晩御飯は牛丼だって言っていた気がする。俺は牛丼が好きだな。


 いやいや、俺は自由軒のカレーを食べて死ぬんだ。


 新喜劇の横を通って、金物が立ち並ぶ通りにでる。ここはなんていう通りだったっけ? 前に一回は来て新喜劇で馬鹿笑いしたはずなのに思い出せない。あ、今度の劇は誰が出るって書いてある。


 いやいや、俺は自由軒のカレーを食べて死ぬんだ。


 そんな誘惑を振り払いながら、俺はまたブラブラと通りを歩く。通りを歩くだけで今までのことが走馬灯のように思い出す。今まで走馬灯なんて見たことないけど。

 これが生への執着かなんて気取ってみて、ようやく自由軒の店が見えてきた。


 自由軒は商店街の一角にあり、昔ながらの洋食屋さんという外観で中も狭い。明るいおばちゃんが注文を取ってくれて、いろいろとカレーはあるが俺はたまご入りの混ぜカレーを頼んだ。


 俺はこの自由軒のカレーを食べたら死ぬんだ。


 そう思っていると、カレーが目の前に運ばれてくる。カレーが混ぜ込まれたライスの上に生卵が乗っていた。


「いただきます」


 このカレーを食べたら死ぬ。そう思ってカレーを一口食べた。

 辛い! とんでもなく辛い! 口の中がピリピリして辛い! 

 でも、美味い。

 夢中になってカレーを食べる。全体をたまごで混ぜるのではなく、端から混ぜていった。ついでにソースもかける。


「から、から、うま……」


 コップから水を飲む手は止まらない、カレーを口に入れる手も止まらない。俺は夢中になってカレーを食べた。

 さて、しばらくしてカレーを食べ終わった。自由軒のカレーを食べたのだから死のうか。


「どうやって死のうか」


 死に方を口に出してみようとして、特に思いつかない。 


「死ぬ前にカレーを食べよう」


 これだけは口に出せた。


「うん、死ぬ前に自由軒のカレーをまた食べたいから、今日はいいや」


 新喜劇に誰が出るか見て、牛丼屋の前を通って、マックのにおいに少しも食欲をそそられないまま通って、梅田から電車に乗って、それからまた友達や親と喧嘩したりして、死にたくて死にたくてたまらなくなったら死ぬことを考えよう。


 たぶん、俺はまた死ぬ前に自由軒のカレーを食べようと思うだろう。

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