天女が棄てた羽衣⑪
興行四日目の朝のことだった。
日も昇りきっていないネイビーグレーの空の下、始発で劇場に到着した常男は、物音を立てないよう静かに従業員専用の裏口ドアを開錠した。
中では夢香とアイラがまだ就寝中であろう、閑散とした静けさが場内を覆っていた。
通常、泊まり込みの踊り子たちは8時か9時ごろに起床して、開演に向けた朝の支度を整え始める。そうでなくとも、この公演期間中、踊り子同士の間で何やら小さな悶着が起きていたらしいから、殊更に疲れているのだろう。稀に早朝から練習に励んでいるパターンもあるにはあるのだが、この時間、彼女らが睡眠の最中であるのはごく当たり前のことだ。
常男は極力足音を立てないよう気を配りながら、楽屋を除く会場の電気を一つずつ灯していった。
まずは給湯室で湯を沸かし、引き出し二段目に入ったドリップバッグのインスタントコーヒーを開けてマグカップに掛けた。細めに湯を落とすと、中深煎りの香ばしい匂いが立ち上ってくる。数秒蒸らした後、残りの湯を五百円玉サイズに回し注ぎ、そのままカップごと携えて照明席へと向かった。常男の計算では、給湯室から二階への移動時間がちょうど、よき塩梅でドリップが完了するタイミングなのである。
ドリップバッグをデスク脇のゴミ箱に捨て、身辺を整えてから、常男は早速作業に入る。
普段から、このような早い時間に劇場に入っているわけではない。照明や音響のパターンを再考する必要がある日だけ、こうして通常出勤時刻の三時間も前から熟慮に耽るのだ。
しんと静まり返った劇場独特の空気感が、常男は昔から好きだった。この時間に孤独に仕事をすることで、また今日一日開催される祭りの仕掛けを担えるのだという特別感を齎してくれる。
朝の始まりを告げる一口のブラックコーヒーを合図に、常男は昨日までの演出と今日からのそれを比較してみる。どの踊り子のショーも、照明はまずまずだった。それでも、たんぽぽの暗転のタイミングや、ルビーのシャチホコポーズ時の光色は、改善の余地がある。
そういえば、凛音が自吊りをしようと脚立に上がった際、一瞬硬直したかと思うとすぐさま床に降り立ってフロア技に変更していたが、彼女の気まぐれだろうか?踊り子は時々気分で動くこともあるから、技師にはプリセットを完璧に遂行する着実さと臨機応変に対応する技術の双方が求められる。常男は、ネオアートで何十年とやってきた中で、当然その部分はカバーできていると自負している。この劇場で、この仕事ができるのは自分しかいない。
たった一人、誰にも邪魔されずに演出計画に浸れるこの時間はまさに至福だ。ヘッドホンを装着し、一人20分強の演目曲を聴き込みながら、様々なアイデアを採用したり没にしたりする。ヘッドホンをするのは、自身が集中するためでもあるが、寝ている踊り子を起こしてはまずいからだ。暗幕で仕切られた楽屋の中に客席の電灯光は入らない。常男が音を漏らさないよう気を付けるだけでいい。
作業も中盤に差し掛かり、一旦コーヒーを
誰かが何かをぼそぼそと呟いている。踊り子たちが、もう起床したのだろうか?あまりに薄弱な音量だったから、聞き間違いかもしくは、彼女らの寝言であるかとも思えた。
再度耳を澄ませる。
聞こえる。
確かにこの空間内の遠いところから、女性の忍び声が断続的にしている。
様々な憶測とともに低い可能性を潰しながら、常男は声の発生源を探った。
方向の目星はついた。しかしその先は、常男はもとより、従業員誰しもが滅多に立ち入らない場所である。
誰にともなく心の中で陳謝しつつ、その扉を開けた常男の耳に、確かにその音が飛び込んできた。
「どろろろろおおしてええええ」
助けを求めるようでいて、恨みがましい声色。
だが肝心な言葉の内容は、常男には全く理解できなかった。
「どろろろろおおしてええええ」
声だけが聞こえている。明らかにそこから鳴っているのに、誰の姿も見当たらない。
「どろろろろおおしてええええ」
どうして。
繰り返し聞き取っているうちに、この言葉はそれを意味することが読めた。
何が、どうして、なのか。
台詞は、まるで唇か喉が崩れ落ちたかのように空気を混ぜ込んで余計な響きを与えていたのだ。
常男の背筋に冷たい震えが走った。
「…みじ……さん」
正体不明の
言葉自体は揺らめいていたものの、脳に直接訴えかけてくるような不気味さを纏った声は、常男に一つの心当たりを閃かせた。
「×××、お前…なのか?」
緊張と恐怖、そしてそんなはずはないという驚きが一体となって皮膚からぶわりと溢れ出る。
もしそうだとしたら。お前なのだとしたら。
なぜだ。なぜ今になって。だって、お前は……。
「…た………んだ、…み………さ…が………た」
「どろろろろおおしてええええ」
「……め…わ………し……」
「どろろろろおおしてええええ」
「すまなかった」
混乱の中、硬直した常男の口をついて出たのは、依然姿を現さない声の主への謝罪だった。
あのとき自分が、しっかりしていたら。違った態度を取っていたなら。
不甲斐なさに悔やんだ夜は数えきれないのだ。それでも、当時の常男にはどうしようもできなかった。仕方ないではないか。
どうしてあいつが何十年もの時を経て出てきたのか。それも、他の誰でもない常男の前に。定かではない。だって俺は
………いや、自分を誤魔化すのはよそう。原因はあれだ。確実に"あの時"のことだ。
「どうして」。常男のかつての許されざる行動を、
それは、常男自身、何度も悪夢として再現されるほど脳梁にくっきりと現像されている事柄だった。悔める夜はまだ良い。全身が引き攣り、
あいつに最後、仕打ってしまった大罪。人としての倫理と、技師としての執念。あのときどちらが勝ったのかを忘れる術はない。
とぐろ巻く怨嗟。冥界から蘇ったかの如く、こうして常男の前に奴が現れたのは、動かし難い事実だ。
今は何よりも、鎮めないと、とんでもないことになるとの絶対的直感が常男にはあった。
「すまなかった。許してくれ…悪かった…」
念を押すように謝罪の言葉を繰り返すと、やがて気配が薄らぎ、静寂が訪れた。
ぱちん。
直後、全ての照明が消えた。
突如漆黒となった劇場の中で、常男の両耳にぴったりと口を押し当てたかのような近さで強烈な旋律が流れ込んできた。
「どろろろろろろろろろろおおおしてええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ
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