狩猟者の窮追⑧

 一睡もできはしなかったが、正午近くまで横になって、ようやくフラつきが収まってきた私は、ママとともに悠里さん宅を後にすることにした。

 玄関に向かいながら、初めてまじまじと部屋の中を眺めると、かなり広くて豪華な部屋だったことに気付く。昨日からついさっきまで、穏やかな心持ちで周囲を観察する余裕などなかったのだ。

 なるほど。ここまでの家とあれば、簡単に手放すのも惜しかったのだろう。自分の中で答えは出しつつも、最後の質問を靴を履きながら何気なく投げかけた。

「悠里さんは、どうしてあんなことがあった後でもここを引っ越さなかったんですか?」

「え?」

 スムーズなやりとりを予期していた私は、悠里さんが一瞬戸惑ったことを不思議に思った。

「アンチの人が来たり、色々大変だって聞きました。それに、今回の件も大きかったし、今後引っ越さないんですか?」

「ええとね。…わたしの一存じゃ、決められないのよ。本当は、ここ自分の家じゃないから」

 悠里さんは気まずそうに若干口ごもる。

「どういうことですか?」

「恋人の名義で借りてる部屋なの。家賃は全部、向こうが出してくれてる。さっきも言った通り、家具に関しては、口出しされることなく好きなタイミングで欲しいから自分で買ってるけどね。それになかなか安くない部屋だし、正直ここよりもいい物件は、付近だとレトゥーラぐらいしか知らない。でもあっちは外装が好みじゃないのよね」

「そうなんだ…。彼氏さん、お金持ちなんですね。元々お客さんだったとか?」

「少なくとも私が今まで会ってきた中ではいちばんね。客ではないよ。出会いは…なんて言えばいいのかな、富裕層向けの秘密の社交クラブみたいな」

「すごい!将来は結婚とかも?」

「それはできないかな。あくまで現時点では。だって相手は…別名"年商50億の女傑"と呼ばれる女社長だもの」


 帰り道は、世界に対する自分の価値観の狭さと、先入観と偏見を通して作られた我が世界解釈の矮小さを反省する時間となった。

 いくら哲学を学んできたとはいえ、実際にさまざまな人間と触れ合わなければパラダイムシフトは簡単に起こり得ないのだと突きつけられた。

 実地調査、臨床試験、現場訪察。それらがなぜ重要視されているのかがなんとなく理解できた気がした。

 山の行より里の行。百聞は一見に如かず。机上の空論や思考実験をいくら振りかざそうとも、この目で、耳で、見聞きしたことには遠く及ばないのだ。


「世の中にはいろんな人がいるって、この二日間でわかったでしょ」

 昨夜は走り抜けただけだった歓楽街を、今はママと日の光を浴びながらゆっくり歩を進めている。昼間のネオン街は、夜半と比べてさながらゴーストタウンのように静まり返っているが、まばらに人は行き来している。

「胡散臭い霊能オカマ、口の悪いバカなホモ、顔の悪いブスなホモ」

「ちょっと、私そんなこと思ってませんよ!自虐も含めて言い過ぎです」

「そして…金と引き換えに愛を売った冷徹な女」

 まだ認めきれていない中で、それでも私はちょっぴり切ない気分を感じ入っていた。


 悠里さんの家を出る直前。

 きっかけは私の何気ない一言だった。

「彼氏さ…いえ、彼女さんとお幸せに!悠里さんの、恋人への愛がたっぷり伝わってきました」

 後半はおべっかで、とりあえずの根拠なき社交辞令だった。

 その瞬間、悠里さんの笑顔が消えた。

「愛?」

 お世辞が悟られたのか、それとも学生ごときが愛を語るな、という意味だろうか?なんとか次の言葉を紡ごうと、これまたその場しのぎの質問を繰り出した。

「彼女さんのこと、愛してますよね…?」

 答えなかった。

「いい加減、早く帰りなさい」

 先ほどとは別人のように冷たくなった悠里さんは、そのまま私たちを締め出すと、サッと施錠してしまった。

 嘘でも「もちろんよ」なんて、誤魔化さなかった。誤魔化せなかったのだろう。

 その正直さこそ悠里さんの、もとい蓬莱マリンの邪悪なカリスマ性の所以たるところなのではないか。

「死んだ霊より生きてる人間の方がよっぽど怖いから」それは、彼女自身を飾り立てるのにこの上なく相応しい言葉に相違なかった。


「彼女はああいう人よ」

 駅に入ったママは、静かに言った。

「だけど、良いも悪いもない。ああいう生き方だってあるし、己の信念に従って生きているユーリは、アタイ立派だと思ってるのよ」

「そうですね」

 私も同感だった。彼女の天性とも言える誘引力が、そう思わせているだけかもしれないけれど。

「まぁ、大概ルナちゃんも空気の読めないノンデリカシー女だってことがわかったわ。アタイは好きだけど、アナタ、同性から嫌われるタイプよ〜。ゲハハハ!」


「それじゃ」

 わざわざ私の路線の改札前までついて来てくれたママが、心配そうに私を見やった。

「帰れる?一応ちゃんと病院行くのよ」

「大丈夫です。帰れます。今回は本当に、どう感謝したらいいか…あ!」

 私は、無作法にも記憶の彼方に飛ばしてしまっていた事柄を思い出した。

「昨日のお店のチャージ、まだ払ってませんでした。えーと、さんぜん…?」

 ママは顔を顰めながら手をブンブンと払った。

「ロクにお酒のお相手もできなかったから。昨日の酒席は無かったことにしましょ。ちょっと減った分のウイスキーは、森ぴょんにナイショね」

「いやでも…その分以外にもお礼しなきゃいけないのに」

「そーお?じゃ、次また来た時にシャンパン入れてちょうだい。8,000円の。…冗談よ」

「いえ、入れます。最低でも1万4,000円の。モエとヴーヴより下は、シャンパンとは見做されないんですよね?」

 私たちは笑い合った。

 私は清々しく感じているけれど、ママはきっとそんな単純な心持ちではないだろう。事態が解決を見せたとはいえ、既に何人もの知人の命が失われているのだ。終わったからといってそれらが戻ってくることはない。でも、このママならきっと心の中で折り合いをつけていくのだろう。私なんかには想像もつかない方法で。


 ママに見送られ、私は電車に乗った。午前中のラッシュをとうに終え、車内はほぼ無人だった。

 朝まで少し寝たとはいえ、疲労は体のいたるところに滞留している。所詮あれは寝たのではなく、気絶だったのだ。

 早く帰って本当の眠りに就きたい。そして疎かにしていた、就活と卒論に関しても、知見と価値観が広がった今なら張り切れそうな気がした。いずれにせよ、休息をとって起きてから、だ。

 一夜の目まぐるしい出来事。不可解で衝撃的な経験は、私の中の人生観に、確かに新たな変化を齎したのだった。

 卒業論文のタイトルを脳内の鉤括弧にあれこれ当てはめる。これじゃない。あれも違う。

 悩ましいはずなのに、もう少しでカチリとはまりそうな完璧なピースを探す作業はいつになく楽しかった。


 そんな一人思案を繰り返しつつ、私がうとうとし始めた頃だった。

『会ったんですか』

 俯いて目を閉じかけた私は、耳元で聞こえた声に顔を上げた。

『会ったんですね』

 隣に、青白い顔の頬がこけた男が座っていた。初夏の季節に合わない黒のトレンチコートを着ている。

『神田川ナツコに、あなたは会ったんですね』

 昨夜から恐怖続きだったというのに、またしても私は苦しくなるほどの戦慄と嫌悪感を味わっていた。誰なのだろう、この男は。

『あの人には、気を付けなさい』

 言っている意味がわからなかった。そもそもなぜ私とママが会ったのを知っているんだろう。ひょっとして改札前の時点から見ていたのかもしれない。

「ど…どうしてですか」

 無視して寝てしまおうかとも考えたが、彼はすでに隣にいる。何か手を出される方がよっぽど恐ろしくて、私は応えてしまった。

『あの人は、愛に溢れた正義の霊媒師なんかではありません。あなたも、あの一件の中でおかしいとは思わなかったのですか。すでに何人もの人が彼のもとへ相談に来ていたのに、そのいずれも救うことはなかった。見殺しにしたのです』

「え?…そ、そんなことは。ママはママなりに一生懸命」

『霊に質問を受けた者は、数日以内に必ず死ぬ。初めの時点でその法則には気付いていたはずです。にも関わらず、それ以降相談に来た人たちに彼は何も施さず、みすみす死なせてしまった』

「それは、冷静にしっかり真相を解明してから動こうとしていたからで」

 目の前の男が何者なのか、なぜ事の概要を掌握しているのか、それらを差し置いて、私はママの擁護に躍起になった。命を助けてくれた人を、悪く言われたくはない。

『結局それで何人の命が失われたと思いますか』

「それは残念ですけど…少なくとも私は救ってもらいました」

『なぜ、助かったと思いますか。彼があなたに講じた対策は、どのようなものだったと』

 それは、本人から聞いてはいなかった。「死なせないように手は打ったから」、文字通り身悶えるほどの苦痛の中で、朧げに覚えているのはその言葉だけだ。

「知りません。でも、現にこうして私は生きています。この結果が私にとって全てです」

『では、何人もの犠牲者が出てしまった。その結果に関してはどう思われますか。その人たちにとってその結果とは。あなたを助けたように、彼の力を以てすれば、死者はもっとずっと少なくて済んだのです。確かに彼の力は絶大だ。簡単なことだったはずです。だがそうしなかった』

「あの…さっきから何が言いたいんですか?さすがに不愉快です」

『あの人にはね、邪悪な展望があるのですよ。とても人類には想像も及ばない種類のね』

「は?」

『あなた、テスカトリポカの生贄の儀式はご存知ですか』

 唐突な話題に私はまたしても閉口する。きっと頭がおかしい人なのだ。ターゲットにされた私は不運だ。私は男から目を背け、向かいの窓の景色に集中した。

『ええ、アステカの祭祀です。夜の番人である軍神テスカトリポカの生贄には、若い男が選ばれました。人身御供までの間、生贄は若い4人の妻と優雅な食事を与えられ、この上なく豪奢な生活が保障されていたのです』

 テスカトリポカの人身御供の話なら私も知っている。3年の頃授業の中で、岡本太郎の論評か何かに目を通した際に出てきた。だがそれが何だというのだ。

『同じです。ナツコがあなたを選んで助けたのには、裏があります。これから先、ナツコはあなたを喜ばせるようなことをいくつもするでしょう。最終的な、とてつもなく大きな代償の要求をひた隠しながら。それでも、あなたは神田川ナツコを信じますか』

「はい」

 男を見ずに私は即答する。やりとりが面倒になったのももちろんある。しかし、短い時間だったけれど、私は近くでママの動向を見ていた。ママが本心から人を助けたいと願い、奔走していたのは間違いないはずだ。少なくとも私はそう信じることを選びたい。男の方が何かを誤解している、あるいは意味のない惑わせごとを言っている。それにどのような裏の目的があるにせよ、今取り殺されるよりよっぽどましだ。

『そうですか』

 その言葉が終わるか終わらないかのうち、男はいつの間にか姿を消していた。確かに隣にいたはずなのに、一瞬のうちに世界線自体が移動したかのようだった。なんとも言い難い奇妙な出来事は、一度は凪いだ私の心を再び鈍色の沼に染め上げる。

 そんな内側の機微をいかにも知らないふうに、準特急の列車は枕木の上を滑り続けた。

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