狩猟者の窮追⑦

 朝の7時。

 それが、目を覚ました私に眼前の男性──ナツコママが告げた現在時刻だった。

 雨でもないのに、遠くからザーザーと水音のようなものが聞こえる。

「気持ちよさそうに寝てたわよぉ」

 いたずらっぽい笑みを顔いっぱいに伸ばしながら、ママは欠伸を噛み殺した。

 その声音には確かに、安堵の色が感じられた。

 昨日は私、確か…

 ぼやけた頭で記憶を手繰り寄せる。

 全部夢だったら、なんてお花畑なことは思わない。あれはダークファンタジーなどではなく、れっきとした一夜限りの実写ドキュメンタリーだった。

 いまだに残る臓腑の不快感と、腹部に細く走るヒリヒリとした痛痒が証拠という肩書きでそれを物語っている。服の裾を捲って目で確認する勇気は出ないが、摩ってみた限りひとまず出血はなさそうだ。

 私は、死んでない。

「大丈夫。全部済んだわよ。あの霊にも、お引き取り願ったわ」

 ママは今度は隠すことなく、思いっきり欠伸をした。夜が明けるまで、きっと一睡もせずにそばにいてくれたのだろう。

 昨日確かに感じた、脳が萎縮するほどの恐怖。そこから解放された僥倖と、生きている実感。ママへの感謝。脈絡なく流れた涙の訳は、それらで十分だろう。

 知らずのうちにブランケットが掛けられ、額にはコールドシートが貼られている。私が寝ていたいかにも高級そうな革張りのソファは、快適なベッドとしての役割を遺憾なく全うしてくれていた。

「ママ…」

 かろうじて声を絞り出した私に、ママは笑い声を上げる。

「ヤダ、アナタの声カッスカス!まるで朝帰りのオカマよ!ゲハハハハハ」

 掠れ具合では、ママには負けるけど。

 あの後どうなったの?どうやって霊を退治したの?女の人…悠里さんはどこに?

 聞きたいことは色々あったけど、慌てずとも順に説明してくれるだろう。

 まずは。

「ありがとう…」

 霊障と呼ばれる怪異を、私は確かに体験した。非現実的な恐怖を、この体で受け止めた。実際に見聞きしたものしか信じられない、そちら寄りのスタンスだった私が、いや、今でもそちら寄りのスタンスである私だからこそ、霊的な現象も、神田川ナツコという霊媒師の力も、翳りなく信じるに至っている。

「昨日今日の関係で涙流して感謝されちゃうと困るわね。一回ヤッただけですぐ付き合おうとする男みたいよ。ゲハハハ!」

 唐突な下ネタに、快復しきっていない私は疼くこめかみを押さえた。せっかくいい感じの一区切りを演出しようとしたのに…。


 すぐ付き合おうとする男…そういえば、朋紀はどうしているだろうか。牛丼屋の前でママに突撃インタビューされ、ニヤケ顔のまま去って行った朋紀。この様子だと霊障の根源は絶たれたみたいだし、なんとか無事だろう。どういう対策をしたのか知らないが、私に施したのと同じ要領で、ママがスーパーパワーでなんとかしてくれているはず。

 そこまでで私は彼に関する思考を都合よく放棄した。元からなかった執着が、水に浸した綿あめみたいに完全に溶けてなくなるのを体感で理解した。

 もうしばらく、恋愛はいいかな。


「ママ…あの後結局…どうなったの?詳しく…」

「アナタ寝てたんでしょ?あ、失神か。どっちにしても、見なくていいものは見ずにいるのが賢明よ。結果オーライ」

 私が意識を失って以降のことは、結局話してもらえなかった。思えば、私はそもそも男の霊の姿を一度も目視していない。声をかけられたタイミングでも、背後の人影をなんとなく把握していただけだ。きっとナツコにはハッキリ視えていたことだろう。実際の男はどんな姿をしていたのか?おそらくは、悍ましくて見るに耐えないような…

 知らぬが仏。今回に関しては、まさにママの言う通り、そういうことなのかな。


「悠里さんは…」

「ユーリならそろそろ…ほら」

 示し合わせたようなタイミングで、悠里さんが入ってきた。バスタオルで髪を拭いている。シャワーを浴びていたらしい。ブローは済んでいて、水滴の残りを仕上げとして拭い去っているようだ。いつの間にか止まっていた先ほどの水音と照らし合わせて納得できた。だが。

「わっ」

 突如訪れた展開に、私は赤面して目を逸らす。

 悠里さんは、一糸纏わぬままタオルだけを片手に現れたのだ。

「何照れてんのよ」

 ママが心底白けた顔で私を一瞥した。

「だだだって、いきなり起きがけにこんなきれいな人の裸見せられてっ。ていうかママもいるのに。恥ずかしくはないんですか?あ、おはようございます」

 感情が錯綜して、私は支離滅裂になった。

 悠里さんは女神のような微笑みで、朝日に照らされた陶器肌を煌めかせた。朝からこんな眼福を拝んでいいのだろうか。

「ふふ、おはよう。ママに?うーん、別に恥ずかしくはないかな。ママってオネエだし。第一わたしの体に全く興味ないだろうから」

「うん、ホントに興味ない」

 無遠慮なママの顔色を窺う限り、紛うことなき事実なのだろう。

 私に気を遣ってかやっとタオルを巻きつけた悠里さんの、黄金比に近いであろうプロポーションと堂々たる立ち姿は、昨晩のホテルでの私とはえらい違いだろう。神経が一本、ちりちりと焦げ落ちた気がした。


「あのお客さん、本当に死んでからも現れるとはね」

 ボディクリームのローズ香を漂わせつつ、向かいのソファに腰掛けた悠里さんが呟く。

「アナタが思わせぶりな態度とったからでしょ」

「だから、違うわよナッちゃん。わたしは初めから、色恋営業はしませんよって言ってあるの。どのお客さんにも満遍なくね」

「だったらどうしてあんな勘違い男が爆誕するのよ。シャンパンねだる時なんて言ってたの?」

「別に普通だけど。『入れたシャンパンは、ベッドに変わりまーす』とか」

「えっ?」

「ぬぁによそれ!」

 私とママは同時に声を上げた。全くハモりはしなかったけど。

「当時、新しくベッドを買い替えたいと思ってて。シャンパンの売上バックで、スイス製のけっこう高いやつ買おうとしてたのよ。やっぱり正直すぎた?ちょっとゲスかったかなぁ」

「そーゆー問題じゃない!そんな言い回ししたら男なんて勘違いするに決まってるぢゃないッ!全く…何考えてんのよアナタ」

 それでもなお、悠里さんはピンと来ていないようだった。ああ、彼女の魅力の真髄はもしかしたら、この途方もない天然ぶりにあるのではないだろうか。私は僅かばかり、心の中で男の霊に同情した。

「アナタやっぱり夜の仕事絶望的に向いてないわよ。全く向いてない。今はまだ数字獲れてるかもしれないけど、いずれ身を滅ぼす決定的な何かが起きるわよ。ていうか今回、最悪の事態になる寸前だったんだから。もうやめちまいなさい!アナタに夜の蝶なんか務まらないわ!昼間の蛾よ!」

「やだ、ナッちゃんひどーい」

 ママとしては、身を案ずるからこそ、彼女の朴鈍さに警鐘を鳴らして危険を回避させたいのだろう。あえて憎まれ口みたいな言い方になるのは、照れ臭さ故だと部外者の私でもわかる。

 だけど、それはそれとして、私はどうしても伝えておきたかった。

「私は…悠里さんのスタンス、なんと言うか、かっこいいと思います。"媚びない、負けない、流されない"。同じ女性として、ううん、女性の大先輩として、私の憧れになりました。悠里さんみたいな生き方を、目標にさせてもらってもいいですか?」

 二人とも目を剥いて私の方を見た。

 ママは嘆息しながら「ちょっと。まさかアナタまでキャバ嬢目指すとか言わないでしょうね」と呆れ、私はまさか、と首を振った。

 一方悠里さんは、数秒固まった後ニッコリして「わたしなんかでよければ」とだけ言った。

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