狩猟者の窮追⑥
オートロックのエントランスを抜けた私たちは、現在、彼女の──カリスマキャバ嬢・
彼女は無事だったのだ。
霊の危険度を本気にしていない悠里にとって、突然の訪問は彼女を不審がらせるのに十分だったが、なじみのゲイバーのママという関係性からとりあえず招き入れてはくれたのだった。
ママは私の紹介をはじめ、ここに来るまでの一連の流れをざっと説明した。これから起こるであろう恐ろしい事態についても。
悠里さんは「そう…なの?」と曖昧に聞き返すに留まり、やはり信じきっている様子ではなかった。
私は、悠里さんの休日モードであろう素顔をバレない程度に何度か見やる。
確かにものすごく美人だ。すっぴんでこれほどのレベルなのだから、メイクを決めてイブニングドレスを纏えば、人生を賭してでも男が夢中になるのがわかる気がした。もちろん、人柄や喋りにも魅力があるのだろう。素性がはっきりしない女子大生の私を含む二人に、急な訪問にも関わらずハイビスカスティーを淹れてくれたことだけでもその優しさは窺い知れた。
「ユーリ、アナタに前渡したお札、まだ持ってる?」
ここ1時間足らずの中で初めて訪れた僅かな休息に身を預けつつ、ママが問いかける。
喉が肺のあたりまでヒリヒリして、全身汗だくになっていることにようやく気付いた。
「持ってるけど…。玄関の棚に置いてある。わたし、ナッちゃんのことは人としてすごく好きだけど、正直、幽霊云々はあんまり信じてないからね」
悠里さんは、常連のレミさんが言っていたところの「ママや店子の面白い人柄に惹かれて飲みに来る」半分の方の客なのだろう。
そういえば、今頃店ではみんなどうしているんだろうか?変わらず和気藹々と楽しんでいるのかな。ひとりゲイバーデビューが思いもよらぬ方向に波及してしまったことに、ようやく複雑な実感が湧いてきた。
「構わないわ。アナタの身を護れるんなら、そんなこっちゃどうだっていいの。ただ最低限、アナタ自身が霊障に取り込まれないように、強い意志と自我だけは持っていて頂戴ね」
感情を整理する私をよそに、二人は会話を続けている。
なんだか大変な一日だった。
彼氏にヤリ捨てされて、彼氏を振って、霊に声をかけられて、ゲイバーに入って、店子からたまに罵倒されて、呪われていると知って、その解決のために走って走ってここまで来て。
まだ解決したわけじゃない。だけど、とりあえず今日一日はこれにて終了でいいのではないだろうか。心身ともに疲れきった。今夜の経験が私にとっていいものなのか悪いものなのか、まだ判断はつかない。ゲイバーのママに愚痴を吐き出して帰って寝る、そんな一日の終わりを予想していたけれど。なんで100%嫌な感情になりきらないんだろう?私の好奇心が、深いところでこの流れの続きを望んでいる気がする。そして、最初は半信半疑だったママ達の幽霊話を、今ではすっかり真実として信じきっている。ああ、これが嘘の茶番なら、私は間違いなく詐欺や新興宗教のいいカモだなぁ…。
取り留めもない思考がつらつらと浮かんでは消えていく。そこから抜け出したのは、私の名を呼ぶ悠里さんの声が聞こえたときだった。
「ルナちゃんは」
「は、はい!」
「大学生なんだよね?何を専攻しているの?」
「え!?えっと、うぁ、て、哲学です」
慌てふためきしどろもどろになる私を笑いもせず、悠里さんはすごぉい、と驚嘆の声を上げた。
「なんだかとても難しそう。頭良いんだね」
「い、いえそんな、全然」
孔雀の雛鳥のような(どんなか知らないけれど)たおやかな声で、悠里さんは優しく含み笑いを漏らす。
この美貌と声。これはクラクラする。
「大学かー、懐かしいな。もう何年前だろう?」
「もう10年前でしょ」
ママがすかさず突っ込みを入れたので、さっきお店でしていたような毒舌の一種だと思った。
「うーん、そうだね。そんなになるかも」と悠里さんは泰然と肯定した。
「えぇっ!?」
てっきり24〜5歳だと思っていた私は思わず感嘆音を漏らす。
「そうなると、悠里さんって、いま、えっと」
「32だよ」
年齢の話は同性間でもしばしばNGとされるが、悠里さんはこともなげに教えてくれた。
「公表してるし。これからはオトナの魅力で勝負、って感じ?」
「アンタもうババアよ」
「じゃあママは、ひいおばあちゃん?」
「ヒィー!」
ママとの軽快なやりとりを飄々と為すユーモアさえ麗しい。
「もっと若いかと思ってた…」
「ふふ、ありがとう。男から言われるより、女の子から言われる方がよっぽど嬉しい。ああまた、こういう正直なこと言っちゃうから炎上しちゃうんだよね」
「アナタほど"口は災いのもと"を体現してる人間他にいないわよ」
「そうだよねぇ」
しみじみとした空気が、二人が出会って昵懇な関係を築いてきた長さを感じさせる。
「わたし、"媚びない、負けない、流されない"をモットーに生きてるから、ほんとはキャバ嬢とか向いてないの。ただお客にはこの姿勢がなぜだかやけに支持されてね。ありのままの素で働いてる感じが逆に清々しいんだって。まぁ、それでも『キャバ嬢はお金のための仕事でしかない』『客の男に恋なんてしない』とか色々言ってたら、その度に燃えちゃって」
「そりゃ燃えるわよ。燃えるゴミは木曜日!」
「そういうママは?」
「粗大ゴミ。…やめなさいよ!」
どうやらママと話すと、相手が誰でもどんな状況でも漫才が始まってしまうらしい。
そういえば、先ほどまでかなり緊迫した空気だったのに。私たち、そもそもなんでここにいるんだっけ…?
本来の目的を思い出して再び震え上がったのと、突如としてインターホンが鳴ったのはほぼ同時だった。
夜中の23時半。明らかに──少なくとも、先ほどの私たちの訪問以上には──不自然な来訪だ。
全員にピンと緊張が走る。3人とも無言だ。
一様に見やった先のモニターには、無人のエントランスの画面が映し出されている。
断続的に鳴り続けるインターホン。止まらない。
ここで私は、体の震えが単なる思巡からではないことに気付いた。止まらない。
インターホンは徐々に間隔を狭め、ほぼ連なるような奏での様相を呈した。
インターホンの音を縫うようにして、僅かな合間に何かが引き裂かれるような微かな響きが聞こえる。まるで衣擦れのような、いや、布を引き裂くような。
そうではない。紙が破られているのだ。玄関脇の護符が。
いつしかインターホンはエントランス仕様のメロディーから一転、異なる旋律を紡いだ。
部屋前のほうのインターホンだろう。
スピーカーから無機質な男の声だけが流れてくる。
「アルラウンという店の蓬莱マリンというキャバ嬢を知りませんか」
「蓬莱マリンというキャバ嬢の本名を知りませんか」
「深沢悠里という女の住所を知りませんか」
私の震えは芯から体表面の毛先にまで浮上し、「振動」と名付けられた物質的な衣が全身を覆っているかのような感覚に見舞われた。
「伎楽町4丁目の居住用の建物を知りませんか」
「4丁目3番地のマンションの名前を知りませんか」
とうに姿勢が崩壊した私は、仰臥しながらソファの上で為すすべなく痙攣していた。
周りを見渡す余裕などもはやない。
「タイガーズマンションはどちらですか」
「タイガーズマンションはどちらですか」
「タイガーズマンションはどちらですか」
「タイガーズマンションはどちらですか」
「タイガーズマンションはどちらですか」
「タイガーズマンションはどちらですか」
内側の意識だけははっきりしている。ああ、苦しい、口腔も鼻腔も目一杯広げているのに気管が内側に膨張して息が出来ない、筋肉が私の意思とは無関係に不随意で勝手に引き攣る、俎板の鯉、死を待つ人のいェ、私が震源チ、バいブレーショん、すマほ、MIす"ち、うロこなナまこ、ビャンビャンメンしゃーしゃーうノね、う"ァじe、がルgOマ、До сидия.
「アルラウンという店の蓬莱マリンというキャバ嬢本名深沢悠里という女の住所伎楽町4丁目3番地の居住用の建物タイガーズマンションの部屋番号を知りませんか」
自分の内臓が意思を持っているかのようにそれぞれ別方向に躍動しているのを感じる。お腹が引き裂かれそうに痛い。臍を起点として縦に破れ目が入っていきそうだ。そうか。彼はマンションを見つけたから。だから私はもう。
「ルナちゃん!死なせないように手は打ったから。気をしっかり持ってちょうだい。申し訳ないけど、ちょっと辛抱よ!」
「アルラウンという店の蓬莱マリンというキャバ嬢本名深沢悠里という女の住所伎楽町4丁目3番地の居住用の建物タイガーズマンションの部屋番号を知りませんか」
ドアガードがするりと外れる音がする。
「イヤッなんなのこれ、ナッちゃん、なんなのよこれぇ!」
「アルラウンという店の蓬莱マリンというキャバ嬢本名深沢悠里という女の住所伎楽町4丁目3番地の居住用の建物タイガーズマンションの部屋番号を知りませんか」
サムターンが赤子の手のように捻られる音がする。
「全くはた迷惑な男だこと。死んでもなお狼藉をはたらくイタ客にはお引き取り願うわ!」
「アルラウンという店の蓬莱マリンというキャバ嬢本名深沢悠里という女の住所伎楽町4丁目3番地の居住用の建物タイガーズマンションの部屋番号を知りませんか」
レバーが傾く音がする。
「アルラウン
ドアが隙間を産む音がする。
「うらいマ
外廊下の空気が流れてくる音がする。
「ざわゆ
"それ"が確かに滑り入る音がする。
「ぎが
そいつは今、部屋内にいる。
「ョン
再びドアが閉まる。
ガチャリ。
「わ か り ま し た」
そこで、私は意識を失った。
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