狩猟者の窮追②

「いらっしゃぁ〜い」

 開いたドアに気付いた店の人が、すっかり酒で焼けきったカスカスのダミ声を上げた。

 聞き覚えがあった。あのママだ。

 ゲイバーとしてカテゴライズされる店のいくつかには、ゲイの人しか入れない所もあると聞く。そういった店はドアに「会員制」と書かれたプレートが貼ってあるが、ここはゲイバーの中でも「観光バー」ないしは「ミックスバー」というジャンルに該当するらしく、店員は皆ゲイだけれど客は性別やセクシャリティ問わず歓迎、というお店だった。


 店内にはすでに女性を含む3組の先客がおり、ボックス席2つとカウンター6席の店内は半分ほど埋まってそこそこ賑わっていた。

 スタッフはカウンターに2人とボックスに1人。ちょうどカウンターで接客していた方の、この店最年長と思われる男性。

 その人こそ、私が前回強い衝撃を受けた、「Lic Dic」を切り盛りするママ、神田川かんだがわナツコだった。

「あら、森ぴょんの生徒のお嬢ちゃんじゃない!今日は一人なの?」

 驚いたことに、ママは私の顔を覚えていたようだった。連日たくさんのお客さんが来るであろう中で、1ヶ月以上も前に、それも連れられてきてほとんど黙っていただけの私を覚えてくれていたなんて。

 権威ある森野教授を「森ぴょん」呼びできる度胸といい、侮れないママだ。

 前回いつ、誰に連れられてきたか説明しようとしていた私は、多少面食らいながら曖昧にはい、と答える。

「嬉しいわぁ〜。また来てくれるなんて。ささ、カウンター座ってちょうだい。マルコ、そこの荷物どけて」

 マルコと呼ばれた中年男性が空けてくれた端の席に、私は会釈しながらおずおずと腰をかけた。

「前回は森ぴょんの奢りだったから、ここのシステム、知らないわよね?

 チャージが、女性とノンケ男性は3,000円。ゲイは2,500円なんだけど、ほら、一応ここゲイバーだから。ごめんなさいね。

 それでショットだったら1杯800円から、ボトルは1本5,000円からって感じね」

「シャンパンは1万4,000円からよ〜」

 ママの隣に立っていた若い店子が横槍のように補足を加えた。

「りょった!こんなか弱そうな女の子ノッケからビビらすんじゃないの。それにシャンパンは8,000円からです〜!」

 りょったと呼ばれたスタッフは、意地悪そうに口を歪めた。

「それはスパークリングワインでしょ。モエ、ヴーヴより下はシャンパンとは見做さないわ!

 それに、メスは金ヅルとしての自覚持ってくれなきゃ困るわよ」

 メス…金ヅル……。

 言葉の強さにすでに緊張していた私はさらにたじろいだ。

 りょったは20代前半と思しき、前髪にメッシュが入った正統派のイケメンだ。正直顔は私のタイプど真ん中だった。だが彼はかなりキツめのオネエらしい。

「ごめんねぇ。お嬢ちゃん、この街になんてほとんど来たことないのよね?今の洗礼は厳しすぎたわよねぇ?」

 対照的にとても優しいナツコママは、見たところ40代半ば。肩近くまで伸びたミディアムヘアは金髪に近い茶髪だ。肌は浅黒く、どことなくサーファーを彷彿とさせる。

「飲み方、どうしよっか?」

 明日の予定は別段ないものの、かといって一晩通して長居するつもりもないし、とりあえずショットで、と言おうとした私を、ママが何か思い出したような声で遮った。

「前回森ぴょんが入れてったボトル、まだ結構中身残ってない?それ飲んじゃえば?そしたらチャージだけで済むわよ」

 唐突な提案に私はまたしても狼狽える。

「え…でもあれって私が勝手に飲んじゃったら…」

「大丈夫大丈夫!森ぴょん、そこまで心の狭い男じゃないでしょう。ていうか本人、学生が来たら自由に飲んでもらって構わないって言ってたわよ。こっちとしても早めにボトル空けてもらったほうが助かるのよ。ゲハハハハハ!」

 教授がそんなことを言っていたのもつゆ知らず、豪快に笑うママに気勢を削がれたのもあって私は従うことにした。

 高級とはいかないまでも、そこそこのウイスキー。ウイスキーは詳しくないし慣れてもいないが、全く飲めないものでもないだろう。


「ところでお嬢ちゃん、お名前は?」

 ハイボールを2杯──私の分とママの分──を作りながらママが問う。

「えっと…瑠奈です。一ノ瀬瑠奈」

「ヤダ、本名?」

 隣で別の客を接客しながらも会話をつまみ聞きしていたりょったがまたしても割って入る。

「バカね。こういう飲みの場では適当なあだ名かニックネームでいいのよ。ホントになんにも知らないのね、このメス」

「メ、メスって!」

 思わず言い返そうとした私と口を挟んできたりょったの両方をいなす格好で、ママが仲裁に入った。

「まぁまぁ。りょった、初心者のお客さんを脅かしちゃダメよ!どーすんのよ、それでお客さん来なくなってこの店潰れたら。アンタに責任とってもらうわよ〜」

「潰すなら給料満額払ってからにしてよね!」

 いつもの冗談、みたいな調子でママもりょったも、他のお客さんも笑っている。

 おそらくこういう会話が日常なのであり、りょったも別に、私に特別厳しいというわけではないみたいだ。

 そしてこの遠慮のない物言いの雰囲気が、森野教授がこの店を気に入っている所以なのだと思う。

「ルナ、いい名前じゃない!漫画の主人公みたいで。ルナちゃんは、どうしてまたウチに来てくれたの?」

 乾杯を終えた後、そう尋ねてきたママに、私は若干窮した。先ほどまであれだけ聞いてもらおうと息巻いていた事件を、店に入ってからすっかり忘れていたからだ。

 ハイボールの炭酸のパチパチした刺激が私の舌と喉を痛めつけた。

「そのー…えっとですね、」

 本来の目的を思い出すやいなや、心に躊躇いが生まれた。ほぼ初めて来たような店で、いきなりさっきあった愛憎劇(というほどのものでもないけど)を話していいものかどうか。発生直後はアドレナリンで気が立っていて、とにかく誰かに聞いてほしい、という思考のみが脳内を支配していたけれど、少し冷静になった途端、常識とは、みたいな規範が頭をもたげた。

「前回、楽しかったので。またいろいろお話したくなって」

 私は若干濁した。けれど嘘は言っていない。酒が進んで緊張も解けてきた頃に、さっきの話をする余裕も生まれるはずだ。我ながらこれ以上ない返答だと思った。

「やーん、ナツコカンゲキー!」

 ムンクの叫びみたいなポーズを取って、ママがおどける。つい笑ってしまい、私の心も幾分か和んだ。


「じゃあ改めて、こっちから自己紹介するわね。アタイがナツコ。永遠の二十歳でぇーす」

「ママ何年二十歳やってんの」

「成人式4度目のくせに」

 方々からツッコミが飛ぶ。

「4度も迎えてないわよ!せいぜい2回…って何言わせんのよ。それで、こっちが亮汰りょうた。まぁ、ほとんどみんなりょったって呼んでるわ」

「りょったでーす」

 りょったが指を二本、前髪の辺りに立てながら、「ちぃーっす」のポーズでさらりと挨拶した。

「それであそこのが、ブス」

「誰がブスよ!」

 背を向けてボックス席で接客していた黒髪短髪のスタッフがくるりと振り返り叫んだ。

「じゃあ、イモ」

「イモでもないっつの!」

「じゃあ、サツマイモ」

「甘けりゃいいってもんでもないわよ!」

 軽い漫才を繰り広げた末に、ママはようやくふざけるのをやめて彼の源氏名を教えてくれた。

 と言っても、紹介された彼の名前は、「たけのこ」だったんだけど。

「た、たけのこさん、ですか?」

「そう。アタイが名付けたの。この子が店に入った時、立派な竹みたいに伸びて伸びて成長していってほしいってね。今となっては青竹になる前に腐ったメンマになっちまったわ」

「腐ってないわよ!」

 たけのこさんは20代後半ぐらい、肌が白くて目が細い。全体的には爽やかな印象で、「塩系男子」という感じだ。

「ほんとはまだいるんだけど、とりあえず今日出勤してるのはこの3人よ。別の子も気になるようなら、ぜひまた飲みに来てちょうだいな」

「ママ、手」

 りょったから突っ込まれたママは、OKのポーズを横倒しにした、お金のハンドサインを作っていた。

 私は笑いながら、もちろん、と返した。

 よっ、商売上手っ。誰かが合いの手を挟む。

 ゲイバーに通いつめる女の人がいるらしい、というのは知っていたが、彼女らの気持ちがなんとなくわかる気がした。


 笑いの絶えない店子同士の応酬や常連客たちの話を聞いているうちに、ついにいよいよ私もさっきのことを話してみよう、という気になった。

 正直、聞き慣れていない下世話な話や下ネタもバンバン話題に出てきたので、この件を口にするハードルもかなり下がっていたのだ。

「聞いてくださいよ、さっきね、会って4回目だった彼氏とお別れしたんです。別れた、っていうか一方的に振ってきたんですけど」

 打ち解けた心と酔いがやはり手伝って、私はすっかり饒舌に語り始めた。みんな口々に、ウソー!?とか、信じらんないその男ー、とか囃し立てたが、やがて意図せぬところでそれは打ち切られた。

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