神田川ナツコの霊障
有馬千年
狩猟者の窮追①
顔に垂れてくる汗が鬱陶しい。
下腹部に鈍い衝撃が伝わるたびにお愛想で漏れ出るような声を発してやっているが、相手は私の演技に、いや声そのものにすら気付いていない。
私に気持ちいいかどうかなど一度も聞かず、ただひたすら自分の気持ちよさを言葉にしているだけだ。
そんな表明、もううんざりするほどわかったったら。
要するに、私と同じく彼も、相手がどう感じているかなんてハナから興味がないのだ。
一人で勝手に果てた彼は、一人で勝手に這入っていたものを引き抜き、一人で勝手にシーツに潜り込んだ。
気遣われなかった私はそのままバスルームへ向かい、愛おしくもない穢れた残滓を洗い流す。
初めての出会いはマッチングアプリ。会って1回目でベッドインし、会って2回目で告白されて付き合って、会って3回目にはあれっと思った。
実を言えば、私は最初に会ったときから彼に惚れてもいなければ、好きになる要素も見つけられないでいた。
付き合ったのだって、ただ彼氏がいない事実が恥ずかしいという卑しさこの上ない見栄と、好きだよ、可愛いね、と囁いてくれる存在の所有願望からでしかない。
ノリで告白されてノリで付き合った。それだけだった。
彼の顔は私のタイプにかすりもしない。どういう人がタイプ、と聞かれると難しくて、「好きになった人」というありきたりな返答に終始してしまうが、世間一般で持て囃されるイケメン俳優は普通に好きだ。
その点朋紀は、アゴが長くてエラが張ってて無精髭で、バラエティグッズの下半分だけのお面にも似たゴリラ顔。私の艶情を1ミリも刺激してこない。
そもそも、マッチングアプリで私は詐欺に遭ったのだ。
確かに写真の彼は私の好みだった。口元をスタンプで隠していたから。涼やかな二重の目に私の期待は高まった。それが蓋を開けていざ会ってみたらこうだ。一瞬人違いかと思った。だが悲しいことに彼だった。何となく断りづらくて、とりあえずお茶して、そのまま流されてホテルへと連れて行かれたのが私のミスだったのだ。
602号室。安い価格帯ではここしか空いてなかったという理由だけで選んだ本日の部屋の中、過去のコマンド選択を後悔しながらシャワーを終えた私がベッドに戻ると、朋紀は気だるそうに枕を引き寄せた。
「オレ、今日はちょっともう疲れたんだよね」
意図するところがわからずタオルを巻いたまま立ち尽くす私。
「疲れたんだよね」と彼が繰り返す。
それでも返事に窮していると、声のトーンはそのままに、「一人にしてほしい、ってこと」といらだたしげに言われた。
感じたのは驚きや悲しみじゃなかった。そっくりそのまま彼が感じているであろういらだちを私も抱きながら、散らばっていた服を集めて着込んだ。
要するに、終わったんだからさっさと帰れ、と言っているのだ。こういう男がいるのは知っている。箱入りのお嬢様じゃあるまいし、全ての男に希望的観測を持つほど私は俗世離れしていない。それでも、自分がいざやられてみると何とも言えぬ怒りが込み上げた。私は、処理穴として雑に扱われたのだ。
しかし、その怒りは長続きしなかった。仮にも付き合っているのだからピロートークでもしながらアフターケアをしてくれるのが彼氏だろうなどと考えてすぐ、朋紀の腕枕など要らないし願い下げだと思い出せた。縁がなかったと、我ながら驚くほどすんなり割り切りができた。
日本でも有数の歓楽街の端くれに位置するホテルを出て、閑散とした夜の路地を歩きながら、私は朋紀のLINEをブロックした。なんの未練もない。
向こうからの連絡手段は完全に断った。マッチングアプリのマッチ画面はLINE交換時に削除したし、彼とはLINE以外何も交換していないからだ。さよなら、二週間だけのインスタント彼氏。
それでも、この鬱屈した感情が完全に晴れたわけではなくて、私はホテル街から駅とは逆の方面に足を向けていた。
道すがら、「すみません」後ろから呼び止められる。
「タイガーズマンションはどちらですか」
こんな状況の時にまで。
私はやたら道を聞かれる。声をかけやすいオーラでも発しているのだろうか。
庭というほどではなくともある程度この一帯になんとなく土地勘のついた私は、それどころじゃないのに今回も例によって尋ね人に方向を指し示す。
時刻はまだ夜の9時。それでも一刻も早く辿り着きたくて、そのままもう一つの夜街へと急いだ。
目的地は、世界でも指折りと言われるほどの「ゲイタウン」だった。
それだけで私の肩書きは済んでしまう。
息を呑むような美人ではない。とりわけブスでもない。
人並みにトリートメントしたストレートの黒髪を肩の少し下まで伸ばし、人を不快にさせない程度のナチュラルメイクで世間に溶け込んでいる。
友達は多くも少なくもない。明るすぎもしないし暗くもない。
何もかもが普通の女子大生。それが私だ。
強いてもう少し語るなら、私は現在就職活動中だ。単位は3年のうちにほとんど取ってしまって、残すは卒業論文だけだ。6月も半ばになるというのにテーマはまだ決まっていない。
そんなわけで、週1回のゼミを除いた、本来は暇すぎるほどに空いた時間を就活と卒論執筆に費やさなければならないのだけど、モラトリアム的な倦怠感からどちらも手をつけられずにいた。
実家がそこそこ裕福なせいもあって、親からは就職に関してとやかく言われていないので、このまま就活浪人でもいいかなぁ、などと呑気に考えている。
大切な時期に、よく知りもしない男とうつつを抜かしていられたのはこのためだ。
哲学科では、3年まで主に宗教学と文化人類学を専攻していた。
現在は、日本におけるウィトゲンシュタイン研究の権威、森野教授のゼミに入っている。
このゼミを選択したことに高尚な理由など特になく、ただ教授の飄々とした人柄に興味を唆られたからだった。
「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」と、形而上学領域への無作為な侵犯に警鐘を鳴らした哲学者のウィトゲンシュタインに反して、その研究者である
私が卒論のテーマを決めかねていると相談した際も、「リラックスして、頭の中を真っ白にした時にこそ、霊界からのインスピレーションとも言える直感が降ってくるんだよ」などと、学者らしからぬおかしなことを言っていた。哲学科の教授の中でも輪をかけて変人なのは一年のときから知っていたが、私は嫌いではなかった。
森野ゼミではしばしば飲み会が行われ、ある時二次会的に教授に連れて行かれた場所がある。それが私がこれから向かおうとしている夜城だ。
その街へ行くのもそういうお店に入るのももちろん当時初めてだったから、こんな世界もあるのかとカルチャーショックとともに強く興味を刺激された。
教授はどうやらそのバーに年に数回ほど通っており、ママ(と言っても男性)とも親しい仲のようだった。教授自身は妻帯者でありその街を象徴する属性の人間ではないのだけれど、彼らの軽妙な切り返しや幅広い知見を含んだ笑いが気に入っているのだと言う。
なぜ私が突如その店のことを思い出し、足を急がせているのか。
私自身も世間では一般的とされるセクシャリティだし、当事者として救いめいたものを求めに行ったわけではない。
それはもう、ヤケというもの以外の何物でもなかった。
失恋、というより今しがた起きた信じられないような出来事へのモヤモヤを誰かに吐露したかった。あのママなら豪快に笑い飛ばしてくれるだろうと思った。そして都合のいいことに、そこはホテル街からは歩いて15分程度の近場にあった。
記憶を頼りにメインの通りへと入り、しばらくすると店の入っている建物は難なく見つけられた。
白壁が煤汚れ、少し老朽化したビルの4階。板チョコみたいな木製のドアに掲げられた看板の文字。ここで間違いない。
私は、ゲイバー「Lic Dic」の扉を緊張とともに押し開けた。
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