第30話 急に態度変わるのやめてくれない?

「ねー、ミエコ、最近どうなの?」

 余りにもざくばらざつくばらんな問いに、紅茶に手をかけた手がピタリと止まった。

「な、何もないわよ」

「ほんとぅー?」



 純喫茶『黒猫』は今日もいつも通りだ。晩夏に花咲く乙女達の雑談、奇跡的に取り締まりや自粛から逃れた洋楽の背景曲バツクミユージツクが、往時のモダン都市東京の残影を忍ばせる。戦時の影が覆う中、磯子、初江とミエコの3人も何時も変わらない。



 ――変わったのは私だけか。



「だって夏休み直前に寮を出てって、今は自宅からの通いでしょう?」

「そうそう、お家の御事情らしいけど……、寮じゃちょっとした噂よぅ」

 二人の顰めた眉に、申し訳ない気持ちと、事情が露呈していない安堵感が綯い交ぜに沸き起こった。「ごめんね。お父様が会社の都合に合わせて、私を手元に――」ともっともらしい嘘をそつなく吐きながら、紅茶のカップを音もなく置いた。



 ――いつからこんなスラスラと嘘をつけるようになったのかしら?



 自分でも全く見当が付かない程に、つつがなく嘘を垂れ流す。芽生えた罪悪感を振り払うように、ミエコは話題を別に振った。



「そう言えば、まだ夏休みだけど、寮や学校の方はどう? 何か変わった?」

「そうねぇ」

 たぷんと初江の頬が揺れた。

「学校も世の中も戦時で騒がしいのは何時ものこととして……、あれかしら? 中宮さんが、ちょっとね……」

「あー、そうね、彼女ね」



 視線を交わした二人の言葉の言い淀みに、思わず前のめりになって訊ねた。

「級長の中宮さん? どうしたの一体」

「あー、いや、ねぇ。学期末の成績とかは相変わらず上――、といってもミエコよりは下だけど、最近雰囲気がねぇ……」

「雰囲気?」



 脳裏を過ったのはしゆうとめの如く愚痴愚痴と小言を垂れる姿である。やれ上品に、やれ品行方正に、やれ女性の貞操をとまくてる言葉の波を、右から左に受け流した日々しか思い出されない。



「そう。――なんかね、余りにも暗いのよ。子犬みたいにキャンキャン騒いでたのが嘘みたいなの」

「そうそう。それに寮でも全然姿を見かけないっていうか……、影が薄くなったのよね」

「――あのムッツリツンツン眼鏡が?」

「ひっどい言い方ねぇ、ミエコ」



 磯子が乾いた笑いで辟易する程であったが、的を射ている蔑称なのだろう。初江も磯子も否定はしなかった。だがそれ故に――。



「なんで? おうちの事情? それとも具合が悪いとか?」

「うぅん……、そんな話も聞かないわねぇ」

ガッカリアイエン人何処かにお嫁に行くでもないわよねぇ」



 在学中にお嫁に出て行くなんてよくあること。世の親は娘の勉学よりも、婚姻による家の相続こそが重大関心事であり、乙女の気持ちなんてこれっぽっちも勘案しない。親は喜んでも当人、そして学友は胸を引き裂かれる思いである。

 だが、当の中宮はその事情に当たらないという――。



「どうしたのかしら……」

「あら、気にかけてるのミエコ。何かイミシン意味深?」

 重めの呟きに、初江が意外そうな声を上げた。

「いや、……何だかんだ言って、張り合いがなくなっちゃうってのも、寂しいかなって」

「散々いって言ってたのは、何処どこ何方どなたよ?」



 呆れた様子で磯子がコーヒーを啜った。

 日々の学校では喧騒、雑音のそれだったかも知れないが、無くなる可能性が高いとなると一抹の寂しさが胸を流れる。ミエコは首を竦ませて目を瞑った。



「それっていつ頃から?」

 万が万が一、怪異案件だった日には、『羅刹』の出番が回ってくるかも知れない。級友の心配も然る事ながら、脳髄は既に女学生の意識からに切り替わりつつあった。



「そうねぇ……」

 初江の頬が三度たぷたぷと揺れる。彼女が考える時の仕草に、内心静かに微笑んだ。

「ほら、初江、あれじゃない? 確か近くの美術館で……」

「あッ! そうそう! あれよ! あの窃盗事件!」

「窃盗?」

「ほら、ウチの近くにあるじゃない。結構でっかい美術館が」



 8月初旬のこと。

 学校近く、地方財閥の雄が設立した美術館がある。新聞報道は小さく耳目を集めることはなかったが、聖ウルスラ高等女学校の近くで起きた事件であったため、生徒達の耳には電光石火の如く噂が駆け抜けていた。



「どうやら盗まれたのは指輪らしいんだけどね、……噂じゃ、ウチの生徒が盗んだんじゃないかって持ちきりなのよぅ」

「盗まれたのは結構高額な指輪らしくてね。知り合いに警察がいるっていう生徒が聞いた話だと、犯人らしき目撃情報がね、……女学生らしいって話なのよ」

 磯子が片眉を釣り上げ、口角を下げながら呟いた。



「ウチの生徒が疑われてる……と?」

「わっかんないけどねぇ。ちょうどなのよ。中宮さんの元気がなくなったのって」



 ――そこから結論を導き出すのは乱暴だ。ミエコは静かに首を振った。

「まず目撃情報が正確じゃないわ。噂の出自も明確じゃない。新聞報道もそんなこと書いてないはず。中宮が事件に関与したなんて――、これらの情報からは導き出せないわ」



「わ、私達も疑ってる訳じゃないわ。だけど……」

「変な噂と変わった事が同時に起きたら、誰だって疑っちゃうわよぅ」



 正確には不確かな噂女学生犯行説と、確実な現象中宮の変調の組み合わせだ。ミエコは眉を潜ませながら、喫茶の大きな窓から角度高く差し込む晩夏の夕日に、視線と覚えた不穏を流すのだった。

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