第31話  消えた指輪っておいくらよ?

「――っていうことがあったのよ」

「あぁ、あの事件でいますか」

 初江達と別れ、今度はその脚で『ろまねすく』に向かった。『羅刹』には様々な拠点があり、多くは偽装神社、或いは家屋、ビルヂング――と散在しているのだが、都市部には喫茶店という形態で運用しているものもあった。



 この『ろまねすく』も、一見はただの喫茶店だが、中に居る人間は全て――あの時ヒノエ達と初めて会つたも多分に漏れず、『羅刹』のともがらである。

 夜の帳がそろそろと降りる頃、ミエコはカウンターで作業しているマスターに報告した。白髪の老紳士は静かにコップにミルクを注ぎながら、微笑みを浮かべている。



「マスター、知ってるの?」

「勿論でございますよ、ミエコ様」

 東京支部所属、『ろまねすく』支店長、近堂きんどう知三郎ともさぶろう。ふっさりとした眉、蓄えた口髭を僅かに揺らして近堂は頷いた。

は遥か遠くまで聞こえますから。だからこそ、ほら――、もうすぐお着きになりますよ」

 ミエコの目の前にコップを置くのと同時に、近堂が視線を扉に向けた。釣られるように首を向けるとカランコロン――とドアベルが鳴り響いた。



「おや、ミエコさんじゃないですか」

 東京支部長である伊沢が、やや大仰に抑揚を含ませて声を上げた。彼の後ろには、これまたいつもの通りヒノエが仏頂面で立っている。

ようね、二人とも」

「アナタもね、ミエコ」



 何かの一件が終わったのだろうか、ヒノエと伊沢は慣れた様子でミエコを挟むようにカウンターに座った。「二人にも飲み物を出して、マスター」とお願いするまでもなく、近堂は準備してあったコーヒーと緑茶を伊沢、ヒノエの前に音もなく置いた。



「流石ね、近堂さん」

「お褒めにあずかり恐縮です、ヒノエ様。早速ではございますが、今し方ミエコ様がお話しをされた件についてお聞きなさいますか?」

「へぇ、何があったの?」



 近堂はスラスラとミエコの見聞きした不穏な変化を語った。些末な点は端的に、それでいて要点は的確に押さえた耳馴染みの良い声色である。ミエコがチラリと伊沢を見たが、それはそれは苦虫を噛み潰したような顔であった。



「ふーん、なるほどね」

 ヒノエが僅かに興味有り気に呟いた。

「その指輪って、時価幾らくらいかしらね」

「私の聞き及びます所、二千円現400万円ほどでございますな」



「……安いわね」

 思わず口から零れた言葉に、伊沢が目をヒン剥き、口を呆然と開けながらミエコを見た。

「いやー、金持ちですねぇ……」

 嫌味を通り越した呆れ顔に、思わずミエコは釈明した。

「美術館にある宝石としちゃ、――よ! 幾ら私でもそんなポンポンと買えないわよ、それくらいの指輪なんて」

「ポンポンじゃなきゃ買えちゃうって事ですか……、いやぁ――」

「伊沢、その辺にして」



 バッサリと。

 倦んだ声で緞帳を切り落とすのも、何も変わらない。



「指輪の値段なんて興味ないわ。高ければの可能性があるから聞いただけよ。それより、それ指輪が盗まれた事実の方が大事でしょ」

ようでございますな。金銭より価値ある物でございますからな」

 マスターの相槌に首を傾げた。

「……どういうこと? ただの指輪じゃないの、それ」



 問いに答えたのはヒノエだった。

「あれ、ことだまいしなのよ」



 言霊石。

 霊的物質マテリアル

 又の名を霊的分離不能石エンタングルメントストーン

 今もミエコの腕に通されている真田紐に組まれた秘蹟。念話で会話できる、余りに便利な人理ひとのことわりを越えた道具ツール



「いやはや、落ち着いて考えてみると、これ、とんでもない代物なんですよ」

 卒然、伊沢が胸から扇子を取り出し、パチリと音を鳴らした。語る――という合図なのだろうが、そうは問屋が卸さない。ヒノエの視線を受けたマスターが続けて語り出した。

「ミエコ様もお使いになられて驚かれたかと思いますが、この言霊石、有史以来、人を隔てた言語の壁を取り去るという、言わば『神の奇跡』の類いで御座います」



 言葉を訳するとは大変な仕事である。直訳・意訳という言葉の通り、現象を形式的に訳するのか、それとも当地人の生活・風土・歴史感覚に合わせた翻訳を行うのか――、翻訳家の腕の見せ所であると当時に、絶対的にという限界がには在る。



「感情、ニュアンスに至るまで的確に、しかも声色まで同じく伝えるなど、現代文明の利器を持ってしても不可能で御座います。我々『羅刹』は古来より細々と発掘された言霊石を使って参りましたが、昔は言葉ではなく感情や感覚を伝える程度だったようですね。しかし御一新明治維新の後にが加わった結果、地球の裏側まで届く傑出した通信媒体となったので御座います。――まぁ、いつからあるかは存じませんが、もしこれが上古よりあらば、しておりましたでしょうね」

「素晴らしい説明だったわ、マスター」



 ――どっかの誰かさんと違って。

 念話ではなく自分に言い聞かせるように心中低く呟いた。



「……素朴な疑問なのだけれど」

 緑茶を啜りながらヒノエが首を傾げた。

「言霊石って地面から発掘されて、緑色の宝石の形を取ってるのよね。何故世界中にあるのかしら?」

「確かにそうで御座いますね。各国で発掘されておりますが、通常は純自然科学的に生成された結晶と考えるべきと存じますが、で御座いますからねぇ」



「サンタクロースがばら撒いたんじゃない?」

「……プレゼントにしては太っ腹すぎですよ。挙げ句、高級指輪に加工されてしまってるんですからねぇ」

 ようやく、伊沢が倦んだようにミエコに合いの手を入れた。



「運悪く指輪に埋め込まれた言霊石が盗まれた……」

 他に盗まれた物は無く、指輪だけが盗まれた。どう考えても単なる窃盗じゃない。『羅刹』の範疇に属する事だ。しかもウチの生徒聖ウルスラ高等女学校が疑われている可能性が高い……。

 ミエコは出されたミルクを飲みながら往時の中宮、彼女の鋭い視線を思い出すのだった。

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