003.「没」
「英雄ヴァリク様、庭で語る安らぎ」
──ノクスリッジ山脈の地で数々の戦いを制した我らが英雄ヴァリク様。その剣に宿る力と、彼の背に輝く羽根は、まさに神の祝福を受けた証である。
しかし、戦場での凛々しい姿とは対照的に、ヴァリク様にはとても穏やかな一面もあることをご存知だろうか。
聖王国教会本部の敷地内にある邸宅を訪れた際、私たちが目にしたのは、花壇で静かに手入れをする彼の姿だった。ラヴェンダーやジャスミンの花が並ぶその庭は、まさに癒しの空間。
「戦いの後は、どうしても憂鬱になって眠れないことが多い。ここにいると、少しだけ落ち着ける」
そう語るヴァリク様の声は控えめだったが、その言葉には重みがあった。戦場での激しい日々が、英雄の心にも深い傷跡を残していることを感じさせる。だからこそ、花を育てる時間が、彼にとって貴重な癒しのひとときなのだ。
戦場から帰った英雄が、庭の静けさの中で安らぎを求める姿──その人間らしい一面は、きっと多くの国民に新たな親近感を与えることだろう。
◆
「没」
私が書き上げた原稿を読んで、トーマス編集長が言い放った。
「ええぇー!」
「えー、じゃない。ダメだろうこれは。ほれ」
トーマス編集長が、万年筆で私が書いた記事の上に校正用の赤いインクで印をつけた。
「戦いの後は、どうしても憂鬱になって眠れないことが多い」という言葉の上にシャッと取り消し線が引かれる。
「お気楽なところがあるお前のことだ。『救国の英雄は白熊ちゃん!』くらいの間抜けな原稿が出てきてもおかしくはないと思っていた。それを思えば、随分とまともな内容ではある。だがなぁ、『救国の英雄様』が『寝不足』はいかんだろう」
その指摘は、至極当然であった。
「ロベリア、確かに親近感を持たせるのが今回の記事の目的だが、弱さを過度に描いてしまえば英雄像に傷がつく。『庭で安らぎを求める』という穏やかな部分だけで十分だ。それが読者にとって受け入れやすい形なんだよ」
言葉に詰まる私を見て、編集長は肩を叩いてきた。
「焦らずにいい記事を書け。まだ駆け出しなんだから、あまり気負わずにな」
「うー……頑張ります」
その返事が面白かったのか、トーマス編集長はクツクツと喉を鳴らし笑い、手を下から上に払うようにして動かした。もう用はないから解散、の意味だ。
──戦いの後は、どうしても憂鬱になって眠れないことが多い。
ここにいると、少しだけ落ち着ける──
この発言を元に書いたこの原稿は、丸々没にするしかないか。
そう思ってゴミ箱の前で四つに破いてそのまま突っ込んだところで、後ろから声をかけられた。
「ねね、英雄様への取材って、昨日だったんでしょう? どうだった?」
振り返ると、先輩記者であるリリィが立っていた。
主に聖王国内の災害関係の担当であるリリィは、普段はあまり関わることがない。しかし、朗らかでお喋り好きのこの先輩は、入社初日の右も左も分からない状態の私を、意気揚々と建物内隅々まで案内してくれた──何故か男子トイレの中まで案内をするものだから、たまたま居合わせた男性社員が絹を裂くような悲鳴を上げることになったが──頼りやすい人物の一人なのである。
「いやぁ、なんというか、予想外な感じでしたねぇ」
「予想外……?」
訝しむような表情になったリリィに顔を寄せ、声のトーンを落として言う。
「なんかすっごい言葉も態度もふわふわで、素朴って感じの人でした!」
「そ、素朴!」
リリィがさらに顔を寄せて囁くように言う。
「……映写は?」
「ここに」
サッと手元から映写紙を取り出し、最後に引きで撮ったお姿を見せる。
話をしていた時には常に背中が丸まっていたが、最後の写真ではダリオンに言われて背筋を伸ばしていた。
腕を背中に回したことにより、実物より幾分か騎士然として見えるような気がしないでもない。
「こっ、これがっ!」
リリィがヒュッと息を吸い込んだ後、声を殺して囁くように言う。
「そ、素朴ッ……!」
「……そうなんです。お庭でお花を育てるのがご趣味とのことでした」
「お、お花ッ!」
リリィは私の口から出た単語を繰り返すだけのオウムか何かにでもなってしまったように、目をまん丸に見開き驚いていた。
気持ちはよく解かる。
人間なのかも怪しいとすら思っていた英雄が、お花好きである。
「あら、あらあら、それはなんとまぁ……!」
リリィがゴクンと生唾を飲み込んだ音が聞こえた。
「可愛らしい!」
「ですよね!」
仲の良い先輩から同じ感想が出てきて一安心し、間髪入れず同意する。
リリィは他には情報はないのかと質問をしてきたが、他はワタワタして赤面していることが大半だったような気がして、口を噤んだ。
あがり症等とあずかり知らぬ場で吹聴されて良い気はしないだろう。
それに、寝不足の英雄と喧伝するような記事を書きかけた手前、本人に少しでも悪い印象を与えてしまうようなことを言うのは、さらに悪手を重ねる行為のような気もしたのだ。
「んー……まぁ、今日中には記事を書き終える予定なので、編集長の許可が出ましたらレビューお願いします!」
「え! 本当? 早いのね! ロベリアちゃんもすっかり大きくなっちゃって~」
「えへへぇ! って、まだ六ヶ月目ですってぇ!」
そう言って優しく頭を撫でてくるリリィと暫し世間話をした後、その場で解散した。
……さて、没を食らった原稿の書き直しをするか。
自分のデスクへと足を進めたが、ふと立ち止まり引き返して編集長デスク前に向かう。
私がデスク前に到着すると、他の原稿を読み込んでいたトーマス編集長が顔を上げた。
「……なんだ?」
「あの、一つ気になったのですが」
トーマス編集長が原稿をデスクに置いたのを見て言葉を続ける。
「先ほどの確認の際のお言葉……編集長には、ヴァリク様が『白熊ちゃん』のように見えた、ということになりますよね?」
トーマス編集長は、咳払いを一つすると、目を逸らして手を下から上に払うようにして動かした。
◆
「さぁ、ヴァリク様。そろそろ出立の準備を」
庭先に座り込むヴァリク様にお声をおかけすると、ゆっくりと顔をあげて「ヘンリー……」と弱々しく私の名前を呼んだ。
戦闘では勇猛果敢、猛々しいお姿だと聞くのに、どうしてか毎回戦地へ赴く前にはしょんぼりとされる。
「ヘンリー。少し早いが、あと一時間後にはここを出立する。遅れることのないように」
玄関から顔を出しダリオンが言う。
ヴァリク様は不安気にダリオンを見つめ、しばらく見つめ合った後に俯いた。
……ダリオンは何故こうも毎回、ヴァリク様に対して寄り添うことをしないのか。
普段抱えている不満が若干の怒りに変わり、私はダリオンに文句を言ってやろうと小走りで後を追いかけた。
「ダリオン殿ッ!」
戦闘用の若干装飾の少ない鎧に付け替えている真っ最中だったダリオンが、兜を脱いだままの格好で静止する。
「何故あんなにもヴァリク様に対して冷たい態度をされるんですか!」
ダリオンは兜を片手に持ったまま振り返り、じっと私を見据えた。その視線に一瞬たじろぎそうになるも、私は気を取り直して言葉を続ける。
「ヴァリク様がどれだけ戦地に向かうことを不安に思っているか、少しでも分かるなら、せめて声をかけるべきじゃありませんか! ダリオン殿がただの厳格さで接しているのだとしたら、それは間違っています!」
しばらくの間、ダリオンは何も言わずに私を見つめていた。その瞳は、ただ冷たいだけではなかった。言葉にできない重さを抱えたような、深く、仄暗い光を湛えている。その視線に、私の言葉が何か届いたのかさえ分からない。
やがて、彼はわずかに首を振り、静かに口を開いた。
「ヘンリー、お前は後方の任務を果たしていればそれでいい。余計なことに口を出すな」
「余計なこと……ですか?!」
私は息を詰め、怒りを抑えきれずに声を荒げる。
「ヴァリク様があんなにも不安げな表情をされているのに、それをただ無視するなんて、最前線の護衛としての在り方としてどうなんですか?!」
「……護衛の在り方か」
ダリオンはぼそりと呟き、静かに視線を外した。そして、淡々とした声で言葉を続ける。
「ヘンリー、お前が最前線に行くことはない」
「どうしてですか! 私はヴァリク様を守るために全力で──」
「お前にはその機会が訪れない。それだけだ」
ダリオンの声は低く、それ以上の感情を拒むようだった。
彼の顔はいつもと変わらない冷徹なものだが、その目の奥にある暗い光が、私を一瞬だけ怯ませる。
それでも、私は引き下がらない。
「何故そんなことを、あなたが断言できるんですか?!」
ダリオンは再び何も言わなかった。言葉ではなく、ただ静かに私を見据えるだけ。その沈黙が、何よりも強く胸に刺さる。
「……いつか、最前線でお会いしましょう」
そう言い残し、私は踵を返してその場を去った。ダリオンがどんな顔をしていたのか、振り返ることはしなかった。
しかし、去り際に僅かに目にした彼の横顔は、どこか苦しげで──何かを抱えているように見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます