北斎と千里①

 古保北斎こほ ほくさい

 日本の高層民に顔が広い古保師宣こほ もろのぶを祖父にもつ現在十五歳の高校一年生。彼女の半生は恵まれたものではなかった。

 まず、母親と父親が身分の違いから駆け落ち。僅かな収入で爪に火を点すを地で行く生活を強いられる。

 そんな貧乏生活も慣れたころ、三年前に父親が流行り病で死去。母親だけの稼ぎでは生活できずに母親の親戚に預けられた。子供のいなかった親戚は彼女を可愛がったが、どこか家族ではない疎外感を拭いきれずにここに至り、今、偉大な祖父の死に直面した。


 祖父から彼女に残された遺書にはざっくりとこう書かれていた。

 一つ、生前に森谷へ株式を売却し、現金は残っているがその他の財産はほとんどないこと。

 二つ、唯一の孫娘である北斎には遺産の半分を譲り渡すことと遺言状には記載されているが、その条件として森谷の運営する私立高校へ入学して卒業をすること。

 三つ、高校生活の間に森谷に師事し、腐ることなく本物の人間となること。


 その三つの約束を守れば、北斎には一生働かずとも遊んで暮らせる金が懐に入ってくるのだ。





「というわけで、本物って条件について聞きたいんですけど!」


 ふんすふんすと鼻息荒く、北斎は遺書に記されていた森谷の仕事場に突撃していた。当然、アポイントを取っていないため受付で通行止めにされたのは御愛嬌である。

 足止めを食らった北斎を救ったのは、北斎の目の前にいる瀬場蘭せば らん。森谷の秘書兼ボディガードの二十六歳女性である。独り身という言葉は彼女の前では禁句だ。


「私にはわかりかねます」


 ぺこりと腰を折って会釈をした瀬場は、北斎を案内した応接室に置いたまま退室する。

 出鼻をくじかれた北斎は、体が沈む革張りの一人掛けソファに身を預ける。そして、そのままゆっくりと意識が遠のいていき……。



「ハッ!」


 次に覚醒したときには、応接室の中連窓から見える空が茜色に染まっていた。北斎がやってきたのは十四時過ぎであり、直感的に三時間以上眠っていたのは間違いがないと北斎は確信した。

 そして、それを裏付けるようにローテーブルを挟んだ対面からからかう声が届く。


「起きたようだね、寝坊助」


 インバネスコートこそ羽織っていないが、先日見たばかりの森谷千里もりや せんりだ。慌てたように北斎は居住まいを正す。


「こんにちは!」

「はい、こんにちは」


 手元の資料を確認し、整理をしながら森谷は挨拶を返す。その顔には少しばかり苦笑が混じっている。


「森谷さん、本物ってなんですか」


 前置きなど一切ないダイレクトな問いに、森谷は資料を置いて真剣な眼差しで北斎を見つめる。


「師宣さんの遺書に書かれていたから直接聞きに来たのかい? 電話ではなく」

「携帯持ってないです。うち貧乏なので」

「オゥ……」


 詰めの甘い年の離れた友人に心の中で森谷は恨み言を送る。もっとも、本人は涅槃で悪い悪いとヘラヘラ笑って両手を合わせているに違いないと森谷は確信しているが。


「それは悪いことをしたね。スマートフォンを用意させよう」

「いえ、料金払えないのでいりません」

「そうはいかない。君の養育費は師宣さんから預かっている。スマートフォンなどの通信費はそれに含まれているよ」

「そもそもお爺ちゃんの遺産をもらえる立場ではないので、諸々含めてお断りするためにここに来たんです」


 北斎の衝撃的な発言に、思わず森谷は目頭を揉んだ。


「正気かい?」

「お爺ちゃんとは死ぬ間際に数回会っただけですし、他にもらうべき人がいると思うんです。でも、遺書に書かれていた本物の人間って言葉が理解できなかったので辞退するついでに聞こうと思ってここに来ました」


 森谷は曇りなき瞳で告げる北斎をどう説得したものかと、ひとまず腕を組んで隣室で控えている瀬場にコーヒーを頼むのであった。


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