女神の帰還 10
「…何かの冗談か?これっ、…――――。」
同じ頃、艦橋でジャクルは蒼醒めた顔色で声を発していた。思わず口許を手で覆い、そのシグナルを見詰めている。
「…―――ああ、非常事態だ。」
席を立ち、両手でコンソールを叩く。
無言で非常事態を宣言する、――コールをかけるキイを叩くのは何もいわず席に就いた艦長席からだった。
大柄な艦長からみれば、子供のような体格であるジャクルが、赤毛の頭を座席の背凭れに半ば埋れる形で座り、無言で呼び出した操作盤、――艦長が触れる配列のキイを叩く。
途端に、赤色警報が流れ、艦橋が、いや艦内が一時警報の赤に染まる。
アラートが流れる艦内で、ジャクルがキイに非常コードを叩き込む。非常時における管制コード、つまりは。臨時指揮権ではなく、一時的ながら、艦の制限を外し、ジャクル自身を、一位権限者、つまりは第一位指揮者と認めるコード。
左腕を差し出し、赤色警報が鳴る中、腕輪に天井から降りて来た配線と識別環が当てられ、資格を精査してジャクルの持つ身分と情報を読み取っていく。
「確認終了しました。唯今より、当艦は、第一位指揮者として、ジャクル・イファイ砲撃管制官主任少佐に、帝国旗艦藍氷艦長として権限の委譲を認めます。」
警報は止まない。赤の落ちる艦橋で、背の高い椅子に埋れるようにしながら、ジャクルは艦長として始めての命を発していた。
「これまでの作戦を撤退する。藍氷は直ちに地表を離脱。この辺境惑星域より撤収する。」
反問する声は無く、直ちにその作業が実行に移される。
シールド維持の為に繋がれていたエネルギーラインを打ち切る作業が急ピッチで進められていく。
赤い警報の降りたまま、艦はそれまでの停止から、急速な展開に動き始める。
離脱へと。
「はじまったか。」
満足そうに呟いて、リゲルは隣に立つ存在を見詰めていた。
「…艦長。――少将殿。」
リゲルの報せ、襟元に隠した緊急コードが発令されたことを確認し、眸を軽く伏せる。
「貴方は、唯今臨時指揮権の委譲を終え、現在藍氷の指揮権を喪失されました。唯今より、藍氷艦長としての貴方の発令は無効とされます。」
リゲルが宣告する言葉もしかし届いているとは思われない。無表情な藍の眸は、まるでこの場所に立ち止まってから一度も瞬いていないようだ。
「…また一時的に、貴方の帝国軍に対するアクセス権も封鎖されます。以上のことを副官としての権限で履行致しました。」
手首を握り、リゲルが表情の無い眸を見る。
動きを留めたのは円柱に四囲を囲まれた広場だった。氷の細工かと思わせる彫刻を施した円柱に囲まれたここは、恐らくこの星が帝国に支配されるまで執政の中心地にあったという神殿だろう。帝国神殿の形式と同じ、だが独自の形式も備えた様式は見慣れないものだ。辺境域に多い、同じ神々から独自の神話が造られていく過程で生じた様式だろう。
神の像は無い。けれど、円柱を這う生き物や何かは充分に伝説や神話の世界を想像させている。リゲル自身は、信仰に故郷土着の宗教を持っているから、刻まれた像が違っても、これらが彼らの神話や伝説を現したものだろうという見当だけはつくが。
歯がゆく感じるのは、異常をみせている艦長と、恐らくこの星の、この辺境惑星の持つ宗教や当時の状況が関係しているのだろうに、何も情報を持たない自身についてだった。操艦を預かるものとして当然に、リゲルは艦の向かう先である惑星を調べていた。だが、辺境基地が設けられていることや、惑星も基地も同じナンバーで呼ばれていること、何を産出し、軌道や惑星質量といった当然の現在形の情報以外。
歴史は、帝国の支配に落ちた後以外のものが存在しなかったのだ。
アクセス出来る範囲の情報に。
辺境惑星として宙域名の記号でしか呼ばれないこの星の、帝国に支配されるまでのデータが、リゲルのアクセス出来る範囲での軍資料にも、帝国史を刻む帝国史図書館にも、他の何処にも存在しなかったのだ。
通常、有り得ることでは無かった。帝国に支配されるまでの政権、文化、宗教の情報がまったくないということは。
リゲルが知るのは、通常アクセス出来る情報源から以外に知ることは、一つしか無かった。当人から聞いたことだ。わかっているのは、隣にいま在る人が、十年前、この惑星に居たということだけだ。そして、十年後のいま、この辺境惑星で生きてきた間の記憶を総て失って此処にいるということだ。
艦長は、十年以上前の記憶を持たない。
それでいて、帝国軍の将軍となり、一七八の戦場で勝利した。
それだけだ。
「――艦長、…しっかりしてください!」
両肩を掴み、眸を見据えて云うリゲルに、艦長の眉が微かに動いた。藍色に、揺れる炯が戻って来る。
額に細い指をあて、眸を閉じ、微かに首を振った。
「…シーマス?」
此処は、と見開いた眸に、いつもの炯が戻っている。安堵して思わず息を吐いて、それから真面目に正対していた。
「シーマス?」
見上げる艦長の眸を見据えるように、告げる。
「…貴方の持つ権限を封鎖しました。」
意味を理解した艦長が、――いや、既に艦長では無いが――藍を僅かにひらいてリゲルを見返した。
「そうか。艦の指揮は委譲したのだな。…私はどれだけ意識を失っていた?」
「壁に通路が開いて、それを此処まで歩いて来ました。其処までの間です。長い間ではありませんでしたが。」
「正しい処置だ。――そうか、私は私で無くなっていたか、…。予測されていたことだ。特に、此処は以前の私が居た惑星だからな。私が、此処に案内したのか。」
四囲を見渡す艦長に頷き、リゲルもまた目を配る。
「艦長は、以前此処に居られたのですか?」
「艦長は無いだろう、シーマス。私はいまその任を解かれているのだろう。」
「ですが、いまさら別の呼称で呼ぶのも面倒ですので。渾名ということで如何です?」
「……名前で呼べばいいだろうに。」
「リ・クィアですか?それともマクドカルと?いずれにしても艦長より発音が面倒何ですが。」
「そういう理由か?リゲル。…それで、昔の私に何の恨みがあるんだ?エンゲス。」
唐突に艦長が話し掛ける、氷の円柱が居並ぶ中の一群に向けての声に、良く反響する声が応じた。
既に幾度か接触し、見慣れた姿を現しながら。
「動じられませんな。―――リ・クィア・マクドカル様。勿論恨みはございます。貴女の裏切りで、我が軍は壊滅、この地に栄えていた皇国は、復活の日を夢見て地下に潜らざるを得なくなり、―――帝国に蹂躙された。総てが貴女の裏切りですよ、皇女。神殿の巫女にして皇家の血筋を引きながら、軍を帝国に売った上、帝国の手先となり、その先棒を担いでいる。」
恨みはございますとも、といいながら円柱の向こうから現れた人物が一礼して見せることに艦長、リ・クィア・マクドカルは微笑していっていた。
基地司令エンゲスとして先に彼らの前に姿を現していた人物に向けて。豊な体格の、髭に威厳もある基地司令の姿は、どうやら無味乾燥な辺境基地の設備より、氷柱に飾られた神秘を思わせる神殿の方が随分と似合いに見える。
「それは、帝国の手先となって先棒を担いでるってのは本当だが、悪いがその以前のことは憶えて無くてな。恨みを理解してやれなくてすまないな。」
辺境基地司令としての礼服を身に纏い、かれらの前に姿を現したエンゲスに、揶揄する如く続けていう。それにしても、宴会場で見た基地司令の礼服は、神殿を背景にしても随分映えるものだと思いながら。帝国軍の礼服は、華美に陥る事無く礼節を表現する際に非常に評判の良いものだが。制服姿が若い娘達に人気があるというのも納得できるな、と口にしかけて、隣に立つ副官から睨まれて口にするのを慎む艦長である。
「…艦長。」
睨まれて、いいじゃないか、と思うが。思い直して口にする。実際、堂々とした体躯の基地司令に、荘厳な神殿は良く似合っていた。
まるで誂えたように。
どこまでを誂える気かと思いながら、口にする。口調が厳しくなることを隣に副官も咎めなかった。
「しかし、おまえは自分の赴任した基地を壊して、それで私を此処へおびき寄せて何がしたいんだ?その過去の復讐か?ならば、基地でけりをつけておけばよかったろうに。それとな、エンゲス。手前のせいで、基地の人員はその生存を脅かされている。しかも、無駄と解っている攻撃で、二人を既に死なせている。」
激しい藍色の眸。
「―――おまえは何がしたい?私を此処へ誘き寄せて。死を生んで。」
激しく輝く瞳の炯に、エンゲスが嗤う。
「驚かれないのですな?私が現れて貴女に恨みを述べることに。」
艦長が首を振った。
「驚くわけないだろう。単純なことだ。」
正面から見据え、まだ距離のある位置に立つエンゲスと四囲を等分に眺める。似合いの衣装を着て、舞台に現れた俳優のような、そのさまを眸に。
艦長が、単純なことだ、ともう一度いって藍色を煌かせた。
「基地で行われている通信を傍受している。その方向性や指向を解析すれば簡単な結論だ。爆破の後、迅速に行われなければならない指揮権の委譲が行われた形跡が無い。通信は指向性を持たず、何処を中心としていいのか、わからずにあるさまが浮き彫りになってた。指揮系統がきちんとしてれば、嫌でも分析する通信記録は頻度とか、指向する先を辿れば中心となる箇所があるってわかるようになってるんだ。それが、いつまで経っても出来ていない。」
言葉を切り、エンゲスを見る。泰然と相手の台詞を待つ、出番を待っているような相手のさまを。実際この神殿に良く声は響く。演出には絶大な効果を持つだろう。現役で使われていた頃には、どういった政治的効果に使われていたものかと推測する。
こうした神殿を、神の存在を政治に利用する形式の国家が、いまだに辺境域には多く存在している。
「いくら間抜けが揃った処で、実際そこまで混乱するのは難しい。指揮権の順位は最後の一人まで厳密に定められているからな。」
「確かに。」
同意するエンゲスを艦長が睨む。何をこの基地司令が企んでいるのでも、猿芝居でも最後まで付き合うしかなかった。此処までかれらを呼び寄せた理由が、必ずかれらにも在る。
尤も、いまは順序を護るしかなかった。茶番だとわかっていても。
「だが、順位を下位に委譲するには、上位が存在しなくなることが必要だ。つまり、指揮権が移らなければならない状況なのに、そうなっていないとすれば。現場に指揮官がいなくて、けれど、死亡してもいないということだ。つまりおまえが姿を消したせいで、現場は混乱してるっていう訳だ。本来なら、其処で別の奴が指揮官の権限喪失を一時的にでも宣言して、次の奴を立てて指揮官にするんだがな。先の順位を持つ指揮官が、もし戻って来たら、後々厄介な事に成り得る。本来ならそんなこと考えてる場合じゃないんだが、残った連中に、その勇気が無いんだろうよ。」
「それでつまり、――私が居なくなっていることを推測された、――けれど何故、私が此処に居ることを推測されましたかな。」
「当り前だ。おまえは最初から少し遣り過ぎたんだよ。」
「遣り過ぎた、―――何をです?」
「決まっている。辺境基地への歓迎に艦長を招いた時点で、おまえは遣り過ぎたんだ。そうして犠牲者の持っていた招待状。基地からいなくなったのがおまえだと推測出来た時点で、おまえが此処へ呼んでいることはわかっていた。唯一つ、私一人が標的なのか、それとも艦まで狙っているのかは、わかっていなかったがな。」
「もうお解りになりましたか。」
深く神殿の奥にまで声が響く。
「―――標的は私だな、エンゲス。」
無言でエンゲスが艦長を見る。
「私一人を、殺すなら何故、唯私を呼ばなかった。―――基地を爆破し、二人からを犠牲になどしなくても、呼べば私は訪れた筈だ。エンゲス。」
艦長の藍に、炯が乗る。
「何故私一人にしなかった。…人を巻き添えにしたんだ。」
しずかに艦長が、いう。
「殺すなら、何故私一人にしなかった、エンゲス。」
苛烈な炯を宿す眸が、エンゲスを見据えていた。
厳しく糾弾する声に、エンゲスが微かに頭を伏せる。道化じみた仕草の基地司令に、艦長が眉を寄せる。
「懐かしいお言葉ですな、―――確かに貴女なら、殺されるとおわかりになっていても、一人で此処まで来てくださるだろう。確かに、貴女なら。」
「…――おまえはやはり、私を知っているんだな。以前の私を。」
皮肉に笑みをみせ、艦長が問う。
「私は裏切り者か。」
「仰せの通り。」
「…そうか。」
リゲルの隣で、艦長が眸を閉じる。
「私が裏切ったから、帝国に負けたか。」
眸を閉じたまま艦長が云い、そうして静かにあけてエンゲスを見据えた。
静かな声が神殿に響いた。
「だから私を殺したいか。」
それもいいかもしれないな、と。しずかに受け入れる艦長を、リゲルが見ている。
「…艦長。」
低く云うリゲルに、微かに笑む。視線はエンゲスに据えたままで。舞台の幕が、おそらく開く予感を感じながら。
「すまないな。出来ればちゃんと逃げてくれ。これは私の過去からの招待のようだ。どうしようもないことでな。…―――呼ばれたからには、行かねばなるまいよ。」
「―――死にもですか。」
激しい口調で云うリゲルを、艦長が振り仰いだ。氷の神殿も、この禿頭の副官を前にはリアリティを失うような気がするなと思いながら。神殿の無意味な荘厳ではない、現実にある艦の硬質さを思い出させる副官の顔に微笑みかける。
「なあ、シーマス。」
「はい。」
リゲルの腕に触れて、艦長が云う。気楽に口にしていた。思っていることを。
「人間、いつかは死ぬんだ。」
「だからといって、命をくれてやるつもりですか。」
厳しい口調に微笑んで、いう。
「――今の私には記憶が無い。実際十年前の事で恨みつらみといわれても、正直困ったことに実感が無い。…―――無いんだ、シーマス。」
腕を掴み、云う艦長にリゲルが眸を開く。
「艦長?」
「酷い裏切りだと思わないか。…シーマス。いまの私には、艦や皆の方がリアルだ。実感を伴う現実は此処にある。―――けれど、」
訊ねる氷青の眸に口にしていた。四囲を見渡す。氷の神殿を。
「美しい神殿だな、―――本当は、私が裏切ったというのなら。」
腕を握り締める艦長の手。
「わたしは、憶えていなくてはならないんだ。―――わたしに罪があるのなら。」
「艦長、――。」
指が、服の上に引き攣り拳を握る。その面は、あくまで静かに優雅だが。激しさを呑み、藍が煌いている。けして激情を乗せずに声が綴られる。
「其処から逃げることは赦されない。――確かに私は記憶を持たないが、リゲル。」
見あげてくる藍の清冽さに、リゲルが言葉を失って見返していた。
「リゲル、―――。やったことならば、責任がある。逃げるわけにはいかないんだよ。」
「…艦長、―――。」
眉を寄せ、困惑して見返す腕を叩き、艦長がエンゲスに向き直った。
「それで、私を如何したいんだ?すぐに殺すか?此処で。」
微笑する艦長に、リゲルが慌てて云う。いまにも撃てと云い出しそうな艦長のようすに。
「艦長!…確かに、――そうでしょうが、けれど、あなたは一方的に相手の言い分を信じるおつもりですか!事実を、―――。」
「シーマス。」
腕に触れ、視線をエンゲスから逸らさないまま艦長が云う。神殿の静寂が、一言も逃さずに聞いているように思いながら。
「帝国軍に恨みを持つものが襲ってきたら、おまえは言訳するのか?」
「…―――いえ。」
眉を寄せるリゲルに、艦長が重ねて問う。
「事実を計ってから、それが正しいと解ってから恨みを受けると、そういうのか?」
眸を伏せ、リゲルが云う。答えは、謹厳な重さを伴っていた。普段信じているだけのことを、口にするときの副官の口調だ。
「いえ、恨みを持つというのなら、それが相手にとっての事実でしょう。恨んでいるというのなら、それが正しいのです。」
「…―――だろう。艦を操る軍人である以上、恨みは買って当然だ。相手の恨みは常に正当なものだ。こちらが言訳る必要も、その事実を計る必要も無論ない。」
「ですが、それは、――相手が、嘘をいっている可能性もこの場合はあるのですぞ?」
「リゲル?」
咎める副官の響きに見返して問い掛ける。対して、熱心にリゲルが詐略を指摘する。
「違いますか。軍人としてなら確かにそうでしょう。ですが、これは違います。あなたは過去には、軍人で無かった。違いますか。」
わかっていることだった。それは知らされていた、だが。
「それでも、リゲル。…私は、記憶していないんだ。」
「艦長、…?」
「記憶が無い。だから、誰に如何聞いた処で、そしてどれだけ調べた処で、私にとってはどれもが同じ事実なんだ。私に恨みを持つものがいるというのなら、それも事実なんだ、リゲル。」
微笑に呑まれたように見返して立ち尽くす。その腕に軽くふれて、艦長はゆっくりと一歩エンゲスに向けて歩を踏み出した。氷の神殿に、整えられた舞台に登る為に。
ゆっくりと問う。
「如何したい、おまえは。」
リゲルを残し、進んで行く。
「…――艦長!」
叫ぶリゲルの声を背に。もう声は、届かないように。
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