第2話 雲ケ畑タイムワープ

 深泥池を出発したバスは鴨川沿いの雲ケ畑街道をひた走っていた。降りしきる雨が車体の泥を洗い流していく。運転するのはヒト型オオサンショウウオ。乗客は女一人。バスは京都盆地から山へ向かっている。対向車はほとんどない。


「このバスは、かつて出町柳駅と雲ケ畑岩屋橋を結んでいた京都バス三七系統をタイムマシンとして改造したものだ」

「かつて?」


 昭和四十四年現在において、京都バス雲ケ畑線は現役である。


「吾輩は二〇☓☓年の未来から、君を守るために派遣されたのだ」


 彼(女にオオサンショウウオの雌雄を判断する方法はわからなかったが、便宜上『彼』とする)のいた未来ではすでに廃線となっているのだろうか。これから人口は都市部に集中するだろう。充分考えられる話だ。


「君は、叡山電鉄鞍馬線に乗ったことがあるかね?」

「ええ」

「なぜ鞍馬には電車で行けるのに、北山三村には行けないのか。そう思ったことは?」

「別にないかなぁ」


 やがて谷が深くなり、家の灯りは完全になくなる。女の生返事を気にも留めず、オオサンショウウオは話し続ける。


「基本的に線路はこの雲ケ畑街道沿いに敷設するのがよろしい。列車はあまりジグザグ動けないから、ところどころ山を切り開く必要はあるだろうが」


 そういえばここに山岳鉄道を敷くという話であった。女はようやく、どうもこれは長すぎる走馬灯というわけではなさそうや、と思った。


「これでは目立ちすぎる。ライトを消すぞ」


 突然、運転手はバスのヘッドライトを消した。普通に考えて、夜の山道を灯りなしでドライブするのは自殺行為である。


「え、危なない?」

「大丈夫、もともと我々オオサンショウウオはほとんど視力がないに等しいのだ。初めから眼には頼っていない」


 何が大丈夫なのかさっぱりわからない説明に、女はなんとなく、シートベルトをしっかり締める。やがて暗闇の中に浮かぶ島のように、雲ケ畑の集落が見えてくる。


「ここが岩屋橋。右へ行くと中津川町。貴船や鞍馬へ抜ける登山道があるから、危険だ」


 鴨川にささやかな支流が交わるY字路。バスは道なりに左方向へ進む。


「危険って?」

「言っただろう。吾輩は君を守るために来た、と。北山三村を結ぶ山岳鉄道が開通すると、観光客をとられて困る者たちがいる……」

「それがさっき言うてた、鞍馬線っちゅうこと?」

「そう。君は鞍馬の刺客に狙われている」


 どうも現実味に欠ける話で、女は怖がってよいのか面白がってよいのかわからない。そもそもの話、底なし沼から現れたバスに乗って、オオサンショウウオの運転手とともにバスツアーに参加させられているこの状況も充分に現実味がない。


「『伊勢物語』は読んだことがあるかね?」と、運転手は唐突に話題を変える。雲ケ畑小中学校を左手に眺めつつ、持越峠への分岐も無視してバスは直進する。


「ええ、まぁ」


 在原業平ありわらのなりひらと思われる昔男が主人公の歌物語。女は入院中、他にすることも無いので本ばかり読んでいた。


「恋の歌も良いが、惟喬親王これたかしんのうとの友情も良い」


 惟喬親王は藤原氏に追いやられ皇位継承から外れてしまった悲しい親王である。


「『忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪踏みわけて君を見むとは』と業平が詠んだのは大原のあたりと言われているが、この雲ケ畑にも惟喬親王伝説がある……ここが惟喬神社。裏手にある山で、夏には世を儚む親王を慰める『松上げ』なる火祭りが行われる」


 雲ケ畑街道から岩屋山へ向かう分岐のあたりにその神社はひっそり佇んでいた。脇の山道から上がったところで、五山の送り火のごとくとは言わないまでも、夏の夜に火が灯されるのだ。


「ここから志明院しみょういんへ向かう」


 ほとんど舗装されていない道を行く。岩屋山志明院の噂は女も聞いたことがあった。空海の開創。鴨川水源地の一つ。


「このまま進んでも、行き止まりちゃうの?」


 雲ケ畑街道は、どこにもつながらない。この道だって、志明院へ向かうだけの道だ。土台、北山三村を環状に結ぶなど無理なのである。


「チェコのある作家が書いた『山椒魚戦争』では、人語を解するオオサンショウウオが発見され、安価な労働力として使われる。やがてサンショウウオは反旗を翻し、題名の通り戦争が始まるのだ……」


 サンショウウオの運転手は女の質問に答える気があるのかないのか、そんな話をはじめる。


「しかし安心するがいい。我らは、君と契約することを選んだ。君が道を過たない限り、戦争になることは無いだろう」


 バスは志明院に到着する前に停車する。あたりから「ツ、ツ、ツ」という不気味な鳴き声が聞こえてくる。


「ここ、鴨川の源流は我々オオサンショウウオの故郷である。我々はこの地で進化する。そして未来の君と契約し、ここにトンネルを開通するのだ」


 岩陰から、「ツ、ツ、ツ」の大合唱とともに大量のオオサンショウウオが現れる。運転手と違い、彼らはまだ四足歩行であり、人語を話さない。


「この時代にはまだ開通していないから、少しだけ時を飛ばそう。しっかりつかまっておくことだ」


 バスはオオサンショウウオの波に飲まれていく。泥の池に少しずつ沈殿していくように。ある深さまで達したところで、バスが再び息を吹き返してスピードを上げるのが分かる。窓の外を見れば、どうやらあるはずもないトンネルを走っているようだった。バスはいつの間にか薬師峠の下をくぐって、清滝川きよたきがわの起点に達していた。

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