北山環状線オオサンショウウオ奇譚

美崎あらた

第1話 深泥池プロローグ

 一九六九年の京都。雨の降りしきる夜だった。京大病院前で女が傘もささずに立っている。スッと白い手が上がるので、タクシーは仕方なしに停車する。


深泥池みどろがいけまで」


 運転手は寡黙に車を走らせる。「こんな夜ふけに、何の用やろか」と思うけれども口には出さない。女も黙ったまま窓の外を見つめている。雨粒がひっきりなしに窓を叩くので、見つめたってなにも見えやしないのだが。


「そろそろ着きますよ」


 バックミラー越し、後部座席に目をやり、運転手は息をのむ。そこに女の姿はなかった。慌てて道路脇に車を止め、回り込んで確認する。たしかに誰もいない。しかしシートはぐっしょりと濡れていて、何かがそこに存在していたことを物語っていた。


   ※


 一方その頃、女は落ち込んでいた。信号待ちの瞬間を狙ってそっと下車してみたのだが、まったく気づかれなかった。あの運転手、よほど大事な考え事でもしていたのかしら。それにしたって、ウチの存在感薄すぎへん?


「やっぱりウチは、おってもおらんでもいっしょなんや……」


 誰が聞いているわけでもないのに、女は口に出して言う。雨の中、水かさの増した深泥池に足をひたす。生ぬるい感覚。底なし沼という噂は本当だろうか。


「やれやれ、勝手なことをされると困るんだよなぁ」


 その時だった。泥の中から声が響く。


「だれ?」


 女の質問に答える代わり、水中で二つの巨大な目玉が見開かれる。轟音とともに深泥池から現れたのは、古びたマイクロバスだった。目玉だと思ったものはヘッドライトである。それだけでも異様な光景だが、そのバスの運転席に座った人物を見ると、女はもはや己が目を疑うしかない。それは正確に言うと『人物』ではなかった。そこにちょこんと座ってその身に余る巨大なハンドルを握っているのは巨大なトカゲ……否、鱗のないぬめぬめと光る肌、岩のような模様、顔の半分が裂けたかのように大きい口、よく探さないと見当たらないつぶらな瞳。それは、ヒト型のオオサンショウウオだった。


「君は将来、雲ケ畑・小野郷・中川すなわち北山三村を結ぶ山岳鉄道『北山環状線』を造る中心人物となるのだ。だからここで死なれては困るのだよ」


 プシューという音とともにバスの乗車口が自動で開く。地獄行きの乗り物にしては、随分と京都バスに似とるなぁなんて思いながら、女はうっかりそれに乗り込む。


「さぁ、『北山環状線』の下見へ行こうではないか」

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