エジプトの分数

マイナス269度。シュナイダー財団の量子コンピュータ施設で、超伝導量子ビットを維持するために必要な極低温。理子は、青く光る制御パネルに向かい、新たな解析プログラムを構築していた。


「2/5を1/3 + 1/15と表現する...」理子は古代エジプトの数学パピルスの画像を見つめる。「なぜ、彼らはこんな面倒な方法を選んだのか」


エジプトの数学者たちは、あらゆる分数を単位分数(分子が1の分数)の和として表現していた。一見すると非効率的なこの方法に、理子は重要な意味を見出しつつあった。


「面白いわ」美咲が隣の端末から声をかけた。「パピルスの画像をAIで解析したら、分数の分解パターンに規則性が見つかったわ」


画面に、パターン認識AIが生成した相関図が表示される。エジプトの数学者たちは、分数を分解する際に、ある種の暗号のような規則に従っていた。


「これって...」理子の指が光のキーボードを叩く。「量子エラー訂正コードと同じ構造?」


彼女は急いで量子回路のシミュレーションを開始した。単位分数への分解を量子状態の重ね合わせとして解釈してみる。すると...


「理子さん、見てください」


美咲の声が高まった。画面上で、古代の分数体系が現代の量子エラー訂正理論と完全な対応を示し始めていた。


「単位分数への分解は、情報の冗長化...」理子の声が震える。「彼らは、量子状態を保護するために、わざと複雑な表記を使っていたの」


情報理論では、大切なデータを保護するために、意図的に冗長性を持たせることがある。量子状態は非常に壊れやすく、外界からのノイズで簡単に失われてしまう。それを防ぐため、現代の量子コンピュータは複雑なエラー訂正機構を必要とする。


「古代エジプトの数学者たちは...」理子は画面に映る古代の数式を見つめた。「量子情報を数学的に符号化する方法を知っていた」


「でも、どうやってそんな知識を...」


その時、研究施設のドアが開き、シュナイダーが静かに入ってきた。彼の表情には、どこか予期していたような満足感が浮かんでいた。


「素晴らしい発見ですね」


シュナイダーは画面に映る解析結果を見つめながら言った。その声には、どこか過剰な期待が滲んでいた。


「次は、このコードが何を保護していたのかを解明しましょう」


彼は紙の束を差し出した。世界中の古代文明から収集された、類似のパターンを持つ数式の記録だった。それは明らかに、組織的に収集されたものだった。


「バビロニア、マヤ、インダス...」シュナイダーは一枚ずつ資料をめくっていく。「すべての古代文明が、同じ数学的言語を使っていた」


その時、理子のスマートフォンが突然振動した。山岸からのメッセージだった。


【緊急。重大な発見がある。一人で来てほしい】


「実は、エジプトは始まりに過ぎないんです」


シュナイダーの目が異様な輝きを帯びていた。施設の冷却システムが唸りを上げ、量子ビットの制御画面が不規則な波形を描き始める。


理子は直感的な危機感を覚えた。エジプトの数学者たちが残した暗号は、単なる学術的な発見以上の何かを示唆していた。そして山岸は、その「何か」について重要な情報を持っているようだった。


極低温で凍りつくような空気の中で、理子は次の行動を決断しなければならなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る