マヤのカレンダー
山岸の研究室は、夕暮れの光に染まっていた。理子が入室すると、見知らぬ老人が古い石版を前に座っていた。銀髪を後ろで束ね、深いしわの刻まれた顔は、長年の野外調査で日焼けしていた。その瞳は、古の知恵を宿したように深い輝きを放っていた。
「アレハンドロ・ガルシアだ」
山岸が紹介する。マヤ文明研究の第一人者、その名を理子は論文で何度も目にしていた。
「君の発見を聞かせてもらった」
ガルシアの声は低く、その響きは研究室の空気を振るわせるようだった。
「エジプトの分数システムが量子情報を扱うためのものだったという仮説は、非常に興味深い。だが、それは氷山の一角に過ぎない」
彼はゆっくりとノートパソコンを開いた。画面には見覚えのある図形が表示されている。ツォルキン暦を構成する記号だった。
「なぜ260日なのか」ガルシアが静かに問いかける。「これまで多くの研究者が、この数字の意味を探ってきた」
「人間の妊娠期間との関連が指摘されていますが」山岸が口を挟む。
「それは表面的な解釈さ」ガルシアは首を振った。「真実は、量子の世界に隠されている」
理子は黙って画面を見つめていた。暦の記号の配置には、どこか見覚えのあるパターンがある。彼女は急いでタブレットを取り出し、量子位相推定アルゴリズムの式を呼び出した。
「これは...」
理子の指が画面上を滑る。マヤの暦に記された記号の配列を、量子力学の言葉に翻訳していく。20進数で表された数値の背後に、複素位相の周期的なパターンが浮かび上がった。
「260という数字」理子の声が震えた。「これは量子もつれの位相周期と完全に一致します」
「そう」ガルシアがゆっくりとうなずいた。「マヤの神官たちは、量子状態の周期的変化を暦という形で記録していた。だが、それだけではない」
彼は古びた革のバッグから、黄ばんだ羊皮紙の束を取り出した。
「これは代々、口承で伝えられてきた知識の一部だ。私の師から受け継いだもの」
紙には、見慣れない文字で何かが記されている。しかしその合間に、明らかな数式らしきものが混じっていた。理子の目が見開かれる。
「非可換幾何学...」彼女は息を呑んだ。「作用素環の記述です。しかも、現代の理論より洗練された形で」
「その通り」ガルシアの目が鋭く光った。「マヤの数学者たちは、時空の量子的性質を理解していた。彼らは神殿を建てる際、量子情報を石に封じ込める技術を持っていたんだ」
部屋に重い沈黙が落ちた。夕陽が研究室の窓を赤く染め、古い羊皮紙に不思議な影を投げかけていた。
「シュナイダーは、この文書の存在を知っていますか?」山岸が慎重に尋ねた。
「いいえ」ガルシアの表情が厳しくなる。「そして、決して知られてはいけない。彼は...守護者の教えを誤って解釈している」
「守護者?」理子が問いかける。
「私たちは代々、古の知識を守ってきた」ガルシアは羊皮紙に手を触れながら説明を始めた。「各文明に、それぞれの守り手がいた。エジプト、バビロニア、インド...そしてマヤ」
その時、廊下に足音が響いた。誰かが近づいてくる。ガルシアは素早く文書を片付けた。
ドアが開く直前、老研究者は小声で言った。
「明日の夜、チチェン・イッツァで会おう。すべてを話そう。そこには、現代の量子理論を遥かに超える知識が眠っている」
夕陽は完全に沈み、研究室は薄暗がりに包まれていた。理子は、自分たちがこれまでの科学の限界に触れようとしていることを、直感的に理解していた。
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