子守唄を君に
ひんやりとしたシーツに、身体の熱が溶かされていく。
慣れない環境からくる疲労がどっと押し寄せ、この寝心地の良いベッドに体を投げ出していた。
ここは傘ザクラの客室。
……今朝方ぶりに、俺はこの部屋へ戻ってきていた。
会合の喧騒から解放され、今は一人きりの時間。
この静寂さに身を委ね、安堵の息を漏らす。
視線を時計に向けると、短針と長針は共に天辺を指している。
体感よりも時が経つのはずっと早く、会合から戻ると辺りはすっかり真っ暗。
その上、トオツグの言ってた『片道切符』の意味を身をもって体験してきた。
行きに使用した道はすでに閉じているとかで、結局第一茶室を経由して、傘ザクラへ帰る羽目になったのだ。
あれから終始無言なシュンセイと鳥居をくぐれば、何故だか第一茶室内にある手水舎の中に居た。
二人で仲良く湯船に浸かっているような構図だったが、シュンセイは慣れた様子で外に上がる。
その姿は不自然なことに、一滴も水に濡れていなかった。
慌てて手水舎の中身を確認すれば、一見透明な液体……水にも見えるが、張っていたのは湿り気のない膜のようなもので。
驚く俺をよそに、シュンセイは「まあ、頑張れよ」とだけ言い残し、室内へと消えた。
その後、第一茶室で留守番をしていたトキノコと合流し、傘ザクラまで送ってもらったのだ。
遠回りしたおかげで、夜は更に深まってしまい、ここへ到着したのもつい先程。
すっかり疲れ果ててはいたが、なんとか湯浴みを済ませて、今に至る。
まだ起きていたアリマが夕食を勧めてくれたが、丁重に断った。
……どうにも食欲が湧かないのだ。
それでも口の中は乾くから、水だけは定期的に摂取している。
――この身体、元からこんなだったか?
もし原因があるとすれば、心当たりはこの手くらいだが……。
月明かりに手をかざし、ぼんやりと眺めていると、帰り際にヨミトから受けた忠告が呼び起こされる。
『ああ、そうだ。言い忘れてたけどね、キクの手の使い所は見極めた方がいいかもよ』
『……どういう意味だ?』
『摘出後に動けなくなるんだろう? 力を使った代償だと思うよ。このまま使い続けると、手の侵食が進むのかも。だってユメビシの繋ぎ目、元は手首くらいにあったんだよ』
――聞きたくなかったな、そんなこと。
確かに今、繋ぎ目は手首と肘の丁度中間に位置する。
ヨミトの話が本当ならば、キクゴロウさんの手の面積は広がっていることになる。
しかし、呼び起こされるのは、トウノサイが発した言葉。
『ユメビシ君が居なければ、コエビ君は間違いなく誰かの手によって、始末されていましたよ』
現にトキノコも、崖で必死に助けようとしたコエビを、蟠華に苛まれてると分かった瞬間に対応を変えた。
『今この瞬間にも、地獄の様な痛みと苦痛に犯されてる……だからせめて、』
脇差を構え、唇を強く噛み締めながら立ち向かう、あの小さな背中が脳裏をよぎる。
彼女とて、本意ではなかったことくらい、理解している。
その上で今後、自分にしか助けられないと知っていながら……見殺しにも出来ないだろう。
例え、救う代償を……背負うとしても。
「……眠れ、ないの……?」
どこからか、聞き覚えのある声が囁く。
それは昨日よりもずっと鮮明に聞こえた。
存外近くにいるのかもしれないが、目視できる範囲には誰もいない。
不思議に思いこそすれ、薄気味悪さなんてものは感じなかった。
寧ろ、彼女の柔らかい声には、警戒心を解くような作用がある。
「眠りにつくのが、怖いのかもしれないな……」
……そのせいだろうか。
気づけば、口に出すつもりのなかった弱音を吐き出した。
眠ることも、夢を見ることも……最近は特に嫌な思い出しかない。
睡眠を拒絶してる上に、当主代理に対する不安等も尽きないのだ。
この状態で睡魔に襲われるほど、自分は図太い神経をしてなかったらしい。
「……提案、なんだけどね」
「提案?」
外では夜風に吹かれた木々が、サラサラと音を奏でている。
遠慮がちな彼女の声を聞き逃さないために、ベッドから体を起こした。
「ユメビシ、昨日も眠れてないでしょう……? あ、違うの、覗き見してた訳じゃないんだけどね……」
「うん、大丈夫。疑ってないよ」
「……その、眠れるまで側にいるし、陽が登ったら起こしてあげる。大丈夫、朝はすぐ来るから……少しでも休んで?」
実の母親にもされた事がない様な甘やかしを申し出され、返答に詰まってしまう。
この歳で『闇が怖いから、便所について来てくれ』と頼むに等しい気恥ずかしさがある。
そんなこちらの心情を見越してか、それこそ駄々を捏ねる子供をあやす様な口調で、彼女は続けた。
「あと明日……もう今日だけど、きちんとご飯を食べて。しっかり食べて寝て、お日様を浴びるとね、それだけで人はホッとするものよ」
「そう、なのかもな……分かったよ。お言葉に甘えて、眠ってみようかな。食事も摂ってみる」
「ユメビシ、いい子だね」
「……えっと、そう言えばまだ、名前を聞いてなかった」
あまりの親身さに絆され忘れかけていたが、俺はまだ彼女の名前すら知らないのだ。
名も知らない相手に世話を焼かせるのは、申し訳が立たない。
「そうだったね! ごめんなさい……私はヨン。この傘ザクラの番人……みたいな事をさせてもらってるの」
「ヨンが姿を見せないのは、何か理由が?」
「うん……私、とっても大きくて。きっとユメビシを怖がらせちゃう」
「ヨンが見せたくないなら、無理に見せてとは言わないよ。気遣ってくれてありがとう」
「ふふ、優しいのね。……さあユメビシ、そろそろ横になって」
言われるがまま、再びベッドへ身を沈めると、心地の良い気怠さが押し寄せてきた。
「私ね、ここの暮らしが好き。ユメビシも気に入ってくれたら嬉しいわ。傘ザクラの子達、みんないい子だから」
「あぁ。そんな気は、してるよ……」
ヨンの声がだんだんと遠のく。
返事をしながらも、意識がもうすぐで堕ちそうだと直感していた。
そんな曖昧な意識の中、視界が幻のような光景を捉える。
窓の向こう側には、少し早い、桜の花びらが舞っているのだ。
その中に、屋根ほどの背をもつ女性が、優しく微笑んでいるのを見た気がした。
「おやすみなさい、ユメビシ……どうか、心安らぐ夜になりますように」
彼女が歌う、どこか懐かしい子守唄を聞きながら、いつしか意識を手放して深い眠りに堕ちていた。
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