02_08_主人公、絞められる

 彼女の話は、断片的だけど端的だった。


「婚約してたの。あたし。でもって振られた。ていうより、捨てられた」


 強制的に決まった縁談と、その破談。

 そして、破談という結果がもたらした、自身の傷心、家族からのきつい叱責、周囲の風評と誹謗中傷……

 そんなことを、彼女はポツリポツリと、大筋をつまんで話した。


「最初はさ、諦めがついてたんだ。知らないの縁談相手も、あたしに自由意志がないことも、何もかも」


 子どものうちに、家の都合で決められた縁談。

 彼女本人には、一切の乗り気がなかったという。


「けど、断るなんて選択肢、それこそ最初から存在しないから」


 貴族間にも、やはり立場の上下があるのだろう。

 彼女は言葉を濁していたけど、家のために自分の人生を諦めたと、そういう意味が感じ取れた。

 色んなものをその肩に背負って、自己犠牲を受け入れた彼女は、将来結婚する相手を好こうと、そして好かれようと、相当な努力をしたそうだ。


「なのに、さ」


 だというのに、相手の男には歩み寄る気が一切なかった。

 それどころか、別の女に浮気し始め、体裁を取りつくろうことすらしなかったということである。


「堂々とあたし以外の女を連れ歩いて、反対にあたしはどんどん冷遇された。あたしの言葉に耳を貸さず、身内が窘めても聞き入れずに、あの男は別の女に入れ込んでった」


 その醜聞は火のように広まり、結局はそれが問題視され、婚約は解消。

 彼女は大いに打ちひしがれ、しかし、男の方は高笑いしていたという。

 『不釣り合いな女と別れられて、清々せいせいした』と。


「向こうは話を隠す気さらさらなし。おかげで噂は独り歩き。尾びれ背びれが山程ついてさ」


 その中には、彼女をおとしめるような虚偽の内容も、多分に含まれていたという。


 結局、彼女に残ったのは、傷ついた心と、謂れのない誹謗中傷。

 家に貢献できなかったという自責の念、それを汲んでくれない家族からの軽蔑や圧迫、周囲からの憐れみの視線。


 ひとりの少女を病ませるのに、これ以上ない環境だろう。

 心身ともに衰弱した彼女は、帝都にほど近い別荘で療養を始めた。

 けれど、1ヶ月以上が経っても、心の傷は癒えること無く、ついには頭の中にモヤがかかったように、考えることもしたくなくなっていたそうである。


「でさ、気がついたら、ひとりで屋敷を飛び出してた。帝都の中心を、アテもなくずうっと歩いてた」


 ・

 ・

 ・


(……いや、うん。重いな、重い)


 ここまでの彼女の独白を、俺はとにかく傾聴に努めていた。

 共感を示すべく、途中で何度も相槌を打ち、何度も深く頷いた。

 ……正直、それしかできなかった。


(内容があまりに重い。重すぎる……)


 一介の男子高校生が受け止めてあげるには、ちょっと荷が勝ちすぎてないかな? この子の境遇。


 そんな彼女の独白は、ついに佳境を迎えた。


 ・

 ・

 ・


「それでね、そのうちに、ふと思い出したんだ。前に鑑賞したオペラを」


 このオペラ劇場の前を通ったとき、とある情景が頭に浮かんだ。

 かつて観たオペラ歌劇、悲恋の物語のヒロインの境遇は、今の自分とやけにぴったり合致していた。

 それをぼんやり思い起こすと、ぼんやり胡乱うろんな意識のままに、講演前の劇場の中に忍び込み、衣装を拝借。

 まるで何かにいざなわれるようにして、人のいない屋上へと上がったのだという。


「ほんと、行き当たりばったりだよね。馬鹿みたい」

「……ああ、オペラって、そういう色恋沙汰の話が多いんだっけね」

「だからね、憧れてたって部分は嘘。むしろムカついてた。ムカつきついでにマネごとしてみたら……なんだろ、役に入り込んだみたいになっちゃって」


 彼女は遠い目をしながら、路地から覗く夜空を見上げた。


「何かさ、もう、このまま飛んじゃってもいいかなって」


(だからって、本当に飛ぶやつがあるか!)


 ――とは、さすがに言えなかった。


 彼女は今、精神も肉体も、明らかに尋常な状態じゃない。

 言動といい、目の隈といい、まるで……


(ああ、そうか、まるで、この目は……)


 俺も、ふと、思い出した。

 この子の目は、すさんでた頃の姉貴の様子にそっくりなんだ。

 元カレに行方をくらまされ、お腹の赤ちゃんを生むか、それとも堕ろすか、極限の選択を独り突きつけられていた頃の姉貴と。


(俺にできたのは、気を紛らわせてあげるくらいで……)


 姉貴の部屋を訪れて、ドア越しに姉貴の話を傾聴し、姉貴の心に共感を示し、とにかく会話と対話に努めた。


(……ああ、そうか。だからなのかな。屋上で彼女に、話をしたいだなんて言ったのは)


 こんな時に、自分の行動原理がに落ちた。

 あれは結局、その場凌ぎの取り繕いだったのだとは思う。

 けれど、それでも……それでも彼女をなんとかしてあげたいっていう、そういう心が、俺には一応あったらしい。


 途端に、目の前が開けた気がした。

 次の瞬間。

 俺は、突拍子もない提案を、彼女に与えていた。


「思い切ってさ、髪でも染めてみるとか」

「……え?」


 うん。本当に突拍子もないなと、言った後でさえ思ってしまう。

 やはりというか、彼女もきょとんとした顔で、俺の顔を覗き込んでいた。


「全部が抵抗あるなら、メッシュ入れるだけにするとか、インナーカラーとか、部分的に――」

「メッシュ? インナーカラー?」


 あ、やべ。あっちの世界の染髪用語を、こっちの人が知ってるはずなかったわ。


「いや、染めるってのはひとつの例でさ。ほら、自分の見た目をガラッと変えてみたら、案外と気分転換になるかもしれないじゃん」


 無根拠ではない。

 これは、無責任な男に逃げられた身重の女性が、実際に立ち直るきっかけになった手法だったのだから。


「誰にだって、今の自分が気に入らないって心持ちになるときはあるし、かといって、自分の在り方をすぐに変えるのは難しい。けど、髪型とか髪色とか化粧だったら、簡単に手を出せるだろ?」


 少し早口だったけど、勢いで納得してもらえないものだろうか。

 俺に提示できる、唯一のアイデアがこれなんだ。


(あ、でも、無根拠じゃなくても少し無責任ではあったかな? この世界の化粧品の値段とか、俺、全然知らないわ)


 と。


「キミ、さ」


 彼女は、ゆっくりベッドから半身を起こした。

 細い両腕が、弱々しく俺へと伸ばされて、


「……ずいぶん、簡単に言うんだね」


 そのまま、俺の首は絞められていた


(あ、え……?)


「その見た目ってのが、人にどう見られるかが、どれだけあたしの――」


 彼女は、今までにない苦悶くもんの表情を浮かべていた。

 明確な敵意が、その瞳には宿っていた。

 男の俺ではわからない苦悩なのかもしれない。

 あるいは、高貴な身分の人間にしかわからない苦痛なのかもしれない。

 いずれにせよ、何も知らずに無責任に踏み込んだ俺は、彼女の地雷を踏み抜いてしまっていた。


「あたし、の……」


 彼女は今にも泣き出しそうに、俺の首を掴んだまま、体ごと、体重をかけて俺を押し倒した。


「ちょ!? うわっ」


 止めようとしたけど、柔らかいマットレスのせいで体制を崩してしまう。

 結果、もつれ合うようにして背中から倒れ、そのまま腹の上に乗られる格好に。

 格闘技でいうマウント・ポジション。

 首も絞められ、絶体絶命……


(あれ? でも、痛く……ない?)


 下はベッドのマットレス。

 だから背中にダメージが無いのはわかる。

 けれど、掴まれている首にも痛みらしい痛みはなく、さほど苦しいとさえ感じない。

 それも当然。

 彼女の手には、力らしい力が加えられていなかった。


(これが、全力……?)


 手加減でもなく、脅しでもない。

 彼女の苦悶の表情は、そんな余裕を示してはいない。

 筋力も含め、体が本当に弱りきっているのだ。


(この子は、こんなにも……)


 ただ、弱々しくとはいえ、首を絞め続けられているのは、やっぱり多少の苦しさはある。

 その彼女の手に、俺は、そっと自分の手を重ねた。


「俺の見てきた世界と、君の生きてきた世界は、全く違うんだと思う。けど……」


 けど、ひとつだけ、贈ってあげられる言葉がある。


「それでもやっぱり、自分自身のことだけは、好きでいてあげてほしいんだ」


 もしかしたら、この場に相応しい言葉ではないかもしれない。

 それでも。


「自分自身を受け入れられない人間を受け入れてくれるほど、他人ひとの心は広くないから」


 これは俺の言葉じゃない。

 姉貴の言葉だ。


 姉貴の妊娠が発覚したとき、周囲には優しさや同情から、温かい言葉で励ましてくれた人がたくさんいた。

 でも、その人たちが本当に親身になって寄り添ってくれるようになったのは、赤ちゃんを産むと決意してからだったと、そんなふうに、2児の母となった彼女は振り返っていた。


 自分を肯定してあげることは、人が人の間で生きていくうえで大切なことであるのだ、と。


「だからあたしも受け入れろって? 惨めな自分を、惨めなままに?」


 彼女の目はわっていた。

 生気の見えないくすんだ瞳が、俺を見下ろしていた。


(違う。そういう意味の言葉じゃ……いや、そもそも、これは……)


 まったく同じ言葉でも、〝誰〟が言っているかによって、文面以上の意味が生まれる。

 俺という代弁者では――彼女ほど窮迫した体験はなく、姉貴のような地獄も経験したことのない俺では、それをそもそも付加しきれなかった。


(姉貴のときも、そうだ。俺はただ、側に居ることしかできなくて)


 何かを乗り越えた、あるいは乗り越えられなかった、そういう背景が致命的に足りていない。

 そんな薄っぺらい俺が、それでも話せることと言ったら――


「あたしが、学園でだって、どれだけ……」

「あ、やっぱり」


 ――うっかりと口を滑らせることくらい。


 刹那せつな、ぎゅうっと首の手に力が込もり、ジトッとした目で見下された。


「……キミ、『やっぱり』って、やっぱり知ってた?」

「いや、誤解誤解。マジで誤解」


 やっべ。

 マジやっべ。

 自分の予想が当たってたのが、思わず口を突いて……


「いやほら! 君ってたぶん、俺と同い歳くらいだろ? なら、あのエリエスワイズ学園に通ってるんだろうなーって、なんとなく思ってて」


 超早口である。


「だいたいさ、惨めって言うなら俺のほうだって。こっちに来たばかりで住む家も、飯を買う金すらないんだから。同じくらいの年頃の連中が、優雅に学園生活送ってるとかマジでうらやましい」

「……キミも行きたいの? エリエスワイズ」

「え? ああ、うん。そりゃあもう。叶うものなら、今すぐにでも入学したいくらいだよ」


 その途端、なぜだか彼女の手の力が、少しだけ緩まった。


「ねえ、キミ――」

「いらしたぞ! こっちだ!」


 ん? なんだ?

 通りのほうから叫び声と、たくさんの足音が……


「あれ、あたしの従者の声。探しに来たみたい」

「あ、君の家の?」


 裏路地の入口に現れたのは、ビシッとした執事服の男性が数人と、お仕着せ服姿の銀色の髪のメイドさんが1人。

 皆、般若のような形相でこちらに迫ってきてる。

 特に、先陣を切ってるメイドの女の子なんて、左手には短剣ナイフを携えてて、右手では魔法の発動体勢に入ってて……


(いやいや待て待て! この状況ってかなりまずくね!? のしかかられてるのは俺だけど――)


「貴様ぁ! 我があるじから離れろ!」

「やっぱりかよ!」


 直後、近くの壁がズガンと音を立てて弾けた。

 壁には穴ぼこ。

 メイドさん、ホントに魔法弾撃ってきたぁ!?


「撃つなお前たち! アメリスシア様に当たったらどうする!」

「生け捕りにしろ! 手足をへし折って身動きを封じてしまえ!」

「抵抗するなら喉首のどくびをかっ裂いても構わん! とにかく無力化してアメリスシア様をお救いしろ!」


 全員不穏なことしか言ってねえし!

 すっげえ剣幕で走ってくるし!


【バトルクエストが発生しました】


「なぬ!?」


【バトルクエスト「逃げ延びろ!」が進行中です】


「シンプルだなオイィィ!?」


 でもわかりやすい。

 逃げる!

 とにかく!

 全速力で!


「ごめん、ひとまずどいてくれ――」

「ねえ?」


 きゅっ。


「へ?」


 焦燥している俺の首を、彼女の手が再び掴み直す。

 そのままぐっと体重もかけて、俺の上に重なるように、しなだれかかって密着してきた。


「……もし、さ。キミが本当にエリエスワイズに入学できるとしたら……あたしと一緒に学園生活送ってくれる?」


 ちょ、待ってくれ。

 すまんが今は、ifの話とかしてる場合じゃないんだ!


「ああ、うん。楽しそうだな。それはとても楽しそうだ。俺、今どこにも居場所がないし」


 だから早くどいてくれっ!

 早口になって焦りつつ、俺は体の位置を少しずつ、どうにかこうにかずらしていって、のしかかる彼女の体を押し上げる。


「叶うことなら君と過ごしたいな。たぶん勉強はついていけないから、教えてくれると助かるよ……っと!」

「きゃっ!?」


 瞬間、俺は体勢を素早く元に戻して、上げていた場所からわずかに落ちた。

 衝撃はわずかなものだったけど、首を掴んでいた手が緩んで、彼女の重心も一瞬外れた。

 今だ!


「というわけで、じゃあなっ!」


 ひねるように体を動かし、マウント・ポジションから脱出。

 ベッドから飛び降りると、そのまま全力ダッシュでオペラ劇場から遠ざかった。


「キミ――」

「いいオペラだったよ! 機会があったらまた見せてくれ!」


 自分でも謎の別れの言葉である。


(たぶんあの子が、ネリィとマリィが言うナビゲート・キャラなんだろうけど……)


 まずは逃げろ。とにかく逃げろ。

 あの魔法弾がヤバいことは、姉貴のプレイで嫌ってほどに知っている。


「追え! いや、撃て!」

「アメリスシア様、お怪我は!?」


 幸い、彼らはあの子の保護を最優先にしたみたいで、深追いはしてこなかった。

 とはいえ、この付近からは離れたほうがよさそうだ。


「にしても、あの子……」


 婚約者がいたうえ、様付けで呼ばれていた以上、やはり身分の高い家の子なのは間違いない。


「そんな子が、あんなにも病んじゃうだなんて、なんて怖い世界なんだ……」



==============



 そう。

 世界は怖い怖ぁいだよ。





 怖い怖ぁいだよ。


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