第6話



 フェルディナントはようやく負傷した右の肩でも剣が振るえるようになった。

 補佐官に、毎日の礼拝のお陰ですねと言われた時は若干閉口したが、言いふらす性格をしてはいなかったので「ああ……」とだけ頷いておいた。それはあれだけ毎日通い詰めてれば、フェルディナントが街で何をしているかなど、この補佐官の耳には入る。好奇心ではなく、優秀な補佐官であるが故だ。

 しばらくは駐屯地を見回り兵の様子や調練に集中し、少しの間剣を振れなかったため、自分の剣の狂いなどを修正することに時間を使った。

 二週間ほどして、明日、フランス海軍が港に到着するという報せが来て、朝方、入港の様子を確認しに行く、と夜通し起きて待っていると、不意に絵が見たくなった。

 街を見ながら軍港に向かうとトロイに告げ、フェリックスを呼ぶ。

 まだ十一人殺しの【怪物】は捕まってないのですから、どうかお気をつけて、と心配そうにトロイは言った。

「【怪物】?」

「街で噂になっているのです。警邏隊十一人を短時間で八つ裂きにした化け物が、夜の街を徘徊してると」

 そうだった。

 信じられないくらい、忘れていた。

「無論、将軍が二度会いまみえた相手を無傷で逃がすとは思っておりませんが。しかし敵は奇妙な武器も扱いますので、どうかお気をつけて」

 妙な罪悪感が胸に滲んだ。例の警邏隊のことは、事あるごとに思い出していたのだが、すっかり襲撃犯の方を忘れていた。というのも、女二人を助けるために介入したのが発端だったからだ。だが、よく考えてみれば、あれだけの短時間であの人数を殺すことができ、制止の声にも耳を貸さない人物というのは十分危険人物だ。素性も詳細も分からない以上、彼が再び誰かを襲わないと言い切れない。

 何故これほど忘れていたのだろうかと思ったが、きっと、刃を交わし合ったからだと思う。

 フェルディナントは感じたのだ。

 あの襲撃者が使っていた、身のこなし、戦闘術。任務を遂行し、撤退する時機を読む力。

 目的は分からなかったが、無分別な殺人者ではないと、直感が言っている。無分別な殺人者は、あんな整然とした戦い方は出来ないはずだった。

 だが尚更、何者かは気になる。

 躊躇いなく十一人も殺したのは事実だ。

(フランス海軍が駐屯地に入ったら必ずヤツは見つけ出す)

 そう強く誓ってから、フェルディナントは夜空に向かって竜を飛ばした。

 一度、高く飛翔した。

 王宮の周辺の煌びやかさが、外周に向かって密かになって行く。

 王都ヴェネツィアの夜景。

 このどこかに、あの不思議な襲撃犯も潜んでいるのだろうか?

 軍港の明かりがいつもより明るい。

 単眼鏡を取り出して、夜にも霧を纏う【シビュラの塔】の方を見遣った。

 霧の向こうに時折、チカ、と明かりが見える。やはりまだ起動しているのだ。

 また何の前触れもなく、殺戮を行うことがあるのだろうか?

 フェルディナントは厳しい表情を浮かべた。そんなことがあれば、フェルディナントは竜騎士団に招集をかけ、【シビュラの塔】に強襲を掛けてみたい、という願望があった。

だがあくまでも願望だ。実際の軍の作戦となると、もっと色々な情報が必要になる。自分たちが仕掛けることで、もし今度は神聖ローマ帝国が攻撃を受けるようなことがあってはいけない。

 あれはまだ、未知なる怪物だ。

 星を降らすようなあの砲撃を、どれだけの正確さで行えるものなのかも分からない。そもそも、ヴェネト王国はあの砲撃が自らの行ったことだということを公に認めていない。しかし、その威光を笠に着て、欧州の覇者のように振る舞い始めている。卑怯な暗黙の意志が、そこにあった。

 煌びやかな王宮、

 怪物の膝元で、甘やかされた――あれも悪しき魂の巣窟だ。

(ジィナイース・テラとか言ったか)

 あの母親を諫めようともしない王太子が王位を引き継いだところで、実権はあの傲慢な母妃が握り、政をするはずだ。

 だが、世界をあの怪物がもたらす恐怖から救う道はきっとある。

 鐙の僅かな動きを察知して、竜は迂回するような動きで街へと降りていく。

 あの教会はもう覚えてしまった。元々街のはずれにあるから分かりやすくもあったが。

 いつものように、今宵も聖堂の入り口は開いたまま、人々の拠り所となっているのが遠目に分かった。

 妹にもあの絵を、見せてやりたかったなと思った。美しいものが大好きだった彼女は、どんなに目を輝かせただろうか?

 怪物が徘徊しているなどと噂が流れてる街で竜を待たせていると騒動になりそうなので、飛来すると、一度フェリックスは飛ばした。こういう時、彼はフェルディナントの意図することが分かるようで、人の目につかない高さまで移動し、空に身を隠す。そして呼べば、すぐ滑降して来るのだ。竜の音を感じ取る力は凄まじい。怒号が飛び交う戦場の先にいても、主の呼び声を聞き分けることが出来る。

 飛び去った竜を見送り、フェルディナントは教会の中に入って行く。

 さすがにこの夜中に神父の姿は無かったが、自分の中のけじめとして、まず祭壇に歩み寄り、膝をついて祈りを捧げた。

 しばらく目を閉じ祈っていると。

 にゃーん……。

 微かに声がして、彼は瞳を開いた。

 ふと見ると、奥の間への扉が半分開き、中から光が零れていた。

 ゆっくりと立ち上がり、天啓を受けた人のように、そっと光に導かれて扉に歩いて行く。

 覗き込んで、もしや彼が絵を描いているのだろうかなどと、柄にもなくドキドキしてしまう。

 キャンバスの前には誰もいなかった。いや、正確には猫がいた。

 キャンバスの前に置かれた簡易的な椅子の上に、どっかりと主のようにとぐろを巻いて寝ている。

 その奥に、人の足が見えた。

 ぎょっとする。

 寝そべっている。

 寝ているのだ。

 あまりに美しい女の足に、そうだ何故この絵を描く人に、そんな可能性があると考えもしなかったのだろうと自分に愕然とする。

 同じ男として、当たり前のことなのにフェルディナントはあんなに美しい絵を描く人が、描くことより性欲に没頭するなどあるはずないと子供のように思い込んでいた。

 たかが女の足くらいで、赤面してしまった自分が愚か者に思えた。

 帰ろう。

 自分は無粋な闖入者だ。

 せめて彼とは、女がいない時に落ち着いて話したいのだ。

 そう思って振り返った時、いつの間にか足元にいた猫に躓いてしまった。

 そんなつもりはなかったのに、半分蹴りかけて、驚いたらしい白い猫がフニャー! と部屋を駆け回り、バタン、バタンと幾つもの絵が倒れた。

 思わずフェルディナントは両肩を竦めた。



「……ん……」



 ギョッとする。

「す、すまない。そういうつもりじゃないんだ。これはその、……、邪魔をした! すぐに出ていくから!」

 若干十代で神聖ローマ帝国の将軍職に着いた自分がなんという狼狽ぶりか、というほどで、辛うじてまた椅子に戻った白い猫を、お前も来い! とばかりに乱暴に連れ出そうとしたら、猫はじたばたと嫌がりフェルディナントの腕を引っ掻いて、ぽーんと飛び出すと部屋から逃げ出して行った。

「っ、!」

 一瞬走った痛みに腕を押さえた時、ぱたん……とまた絵が倒れる音がした。

「……誰かいるの……?」

 柔らかな声がして、ゆっくりと身を起こす気配がした。

 あの美しい楽園を描く青年に、強盗だなどと思われるのは嫌だったから、ちゃんとここに来た事情を説明しようと振り返って、フェルディナントは息を飲んだ。

 水辺に浮かぶ花の絵の側に、乳白色の肢体が見えた。

 女の足だと思っていた、美しい伸びやかな足は彼の足で、眠そうに手の甲で目を擦る姿はあどけない。

 何より、こちらを見上げた瞳。

 黄金色……、いやそれよりももっと透明感があり、透き通っている。

 ヘリオドールのような色の双眸だ。

 それが、中性的な、線の細い美しい造作に埋め込まれている。

 楽園の作者というより、その楽園の住人のようだ。

 フェルディナントはその時、そう思った。

 確かに、もう寝苦しい夏のような夜になって来ているのは認める。

 認めるが……。

「その、……あの、……決して怪しいもの、というわけではないのだが、……」

 こんなにしどろもどろになったことは多分人生で一度もない。

 きっとこれからだってないだろう。

 彼が身を起こそうとした時、辛うじて肩に掛かっていた毛布が柔らかい曲線を無情にも滑り落ちた。

 しかも立てかけてあった閉じたイーゼルの足に引っ掛かっていた毛布が引っ張られ、イーゼルが彼の後頭部に襲い掛かったため、あっ! と咄嗟に飛び出し、倒れかけたイーゼルを寸前のところで押さえ込む。

 間に合って、ホッとした。

 深く溜息をついて目を開くと、何も身に纏っていない美しい青年が驚いた顔でこっちを見上げてきている。

「あ、の……、その、これは、」

 顔が燃えるように赤くなった。

「すまない、安眠を妨げるつもりはなかったんだ、貴方の、絵を見たくて、いつもここに来ていたから、」

 青年がフェルディナントの顔を何故かじっと見ていて、彼は堪らなくなった。皇帝の直視ですら平然と受け止める彼が、何か神かそれ以上の何かの存在に、自分が正しいものか悪しきものか、審判を受けているのではないか……そんな気持ちにすらなった。

「…………会ってみたくて」

 フェルディナントはそれどころではなかったが、青年は息を飲んだ。

「あんな絵を描く人がどんな人なのか、会ってみたくて、」

 青年が身じろいだ。すっと、毛布で体を隠すような仕草に見え、庇うためとはいえ、まるで彼に覆い被さるようにしていた自分に気付き、フェルディナントは慌ててイーゼルを倒れて来ないように向こうに立てかけて、背を向け彼から離れた。

 衣擦れの音が聞こえる。

「いつも、こんな時間にここに来ているわけじゃないんだ。今日はたまたま……、通りかかって、……こんな時間に来たのは初めてだから。貴方が嫌ならこんな遅くにはもう来ないよ」


「あなたが神父様が昨日言ってた、絵のとても好きな人なんだね」


 フェルディナントは聖職が着る白い薄布の夜着を一枚身にまとった彼を振り返った。

 その薄布を羽織るだけでも、印象が全く変わった。

 一糸まとわぬ彼の裸体は危うさすら感じさせたが、あの長い両脚が覆われるだけでも、なまめかしい雰囲気が薄れ、聖職の質素な纏いはむしろ、彼の美しい造作を際立たせていた。

 危ないじゃないかいくら教会だって入り口が開いてる聖堂の奥で寝泊まりなんかして。

 彼の絵も、彼も、こんな美しいのに、

 自分が言うことではないかもしれないが、こんな誰も気安く、気軽に手に触れられる所にあるなんて自分は反対だ、とそのことだけは思う。

 今日からでいいから、是非ともきちんと部屋には鍵をかけて欲しい。

「……好きじゃない……」

「え?」

「……絵が、好きなわけじゃない。………あなたの絵が、特別好きなんだ」

 沈黙が落ち、

 くす……。

 心惹かれるような優しい音が零れ、驚いて振り返ると、キャンバスに寄り掛かって、青年が柔らかい表情で微笑んでいた。


「そんな風に言ってもらったのは初めて」


 にゃーん、と戻って来た猫が青年の足に甘えてすり寄る。

「嬉しいね」

 足元の猫に、笑いかけている。ランプの明かりの側に浮かんだ美しい微笑みから、フェルディナントは目を離せなくなった。

「……あなたの、……名前を教えてくれないか。会えたら、聞こうと思ってたんだ」

 神父に聞けばいいのにと思ったのだろう、またくす、と青年は笑った。

 それはフェルディナントも分かっている。

 だが、聞きたかったのだ。

 知りたかったのではなく、彼の口から教えてほしかった。


「ネーリ・バルネチア」


 フェルディナントは、彼の方を見た。

 彼の優しい声で言うと、尚更その名が美しく響く。

「あなたは?」

「私は、……」

 思わず身を正していた。

「フェルディナント・アーク」

「……フェルディナント」

 ネーリは一瞬、目を伏せた。

「もしかして、あなた軍のひと?」

 フェルディナントは瞬きをした。

「どうしてわかったか? 今、名乗る時に一瞬背を正したから。軍人さんがよくする仕草だなあと思って」

 さすがの観察眼だ。

「実は、そうなんだ……」

「言葉も少しヴェネト王国の人と発音が違う気がする。他の国のひと?」

「うん……。貴方は、ここで生まれ育ったのか?」

「うん」

そうか、本当にこの国の住人なんだなと理解する。

「……こんな夜遅く来たりしないから、……また……君の絵を見に来てもいいか?」

「うん……」

 フェルディナントは目を瞬かせる。

「創作の、邪魔かな?」

 何か自分が警戒させたようだ、と感じた。しかし彼はフェルディナントがそんな風に言うと、小さく笑った。

「ああ、違うんだ。ここ、非合法で手に入れた画材とかもあるから、軍人さんはマズいかなあ……と思っちゃって。勿論そんな悪いルートから手に入れてるわけじゃないけど。僕筆が早いからかなり大量に絵具とか砕いて使う宝石とか必要なんだー。だから特別に、昔から親しくしてる商人さんにお願いしたりしてるから」

 フェルディナントは慌てて首を振った。

「俺は仕事で来てるわけじゃない。絵を見に来てるんだ。

 悪い取引じゃないなら口出しはしない。値段のことなら商人の話だ。俺は関わらないよ」

「それなら平気だね」

 よかった、と微笑んでいる。

「前に警邏隊の人がここへきて、なんでこんなに宝石があるんだとか僕、疑い掛けられちゃったことあるんだよ」

 警邏隊⁉ と思わずフェルディナントは険しい顔をしていた。

 あんな粗暴な連中がここに立ち入ったと思うだけで、腹が立つ。まるで聖域に対して、賊に入り込まれたような強い不快感だ。

「何か乱暴な真似はされなかっただろうな」

 ネーリが何か訴えたら、このまま駐屯地に戻って即警邏隊を解散させてやろうかと本気で考えかけたが、彼はううん、と首を振り笑った。

「あのひとたち、宝石を砕いて顔料にすることあるって本当に知らなかったみたいなんだよ。だから実際に砕くとこ見せてあげて、どんな色が出るのか教えてあげたら、すごく驚いて、感心してくれたんだ。悪い人たちじゃなかったよ」

 彼がそう言ったので、フェルディナントはとりあえず即日解散はやめておくことにした。

「……そう……か。穏便に済んだのならそれでいいんだが……」

「フレディ、今一瞬怖い表情したね。今の顔は軍人さんらしかったなあ」

「フレ……、怖いって……、……別に、元々俺はこういう顔なんだ」

 頬を軽くほぐすように摩る。

「……なんだ?」

「え?」

「じっと見てるから」

「あ……ううん。フレディの瞳って不思議な色してるなぁと思って」

 ネーリは側の箱を手に取った。色とりどりの宝石の欠片が入っている中から、幾つか手に取って、フェルディナントの瞳越しに合わせている。

「天青石が一番近いのかな? どんな色を使えば貴方の瞳を表現できるのかなあと思って」

 そんなことを言われたのは初めてだ。

 くす、と笑ってしまう。

「画家ならではの考え方だな」

「あ、やっと微笑ってくれた」

 キャンバスに凭れて、ネーリは優しい表情を浮かべる。

 自分の瞳の色なんて、大したこと無い。ただの薄い水色だ。

 ネーリ・バルネチアの瞳の方がずっと印象的だ。宝石のようじゃないか、と思った。

「そういうわけじゃ……そうだ、このあと用事があったんだ」

 本当にすっかり忘れそうになっていて、フェルディナントは額を押さえて苦い顔をした。

 別にフランス海軍の到着を見届けるだけなのだが、彼は長くフランス軍の戦線と戦って来たため、上官の顔を見れば、軍のどこの師団が派遣されているのか分かると思ったのだ。

 いずれ宮廷で相まみえるし、すぐ分かることなんだが……と、まだこのままネーリと話していたい、などと何とか思おうとしている自分を自覚した時、フェルディナントは亡き【エルスタル】の後継者としての矜持と克己心を思い出した。

「すまない! もっと話したいが今日は帰る! 邪魔をした!」

 決意したように勢いよく言って、足早に出て行ったフェルディナントに、ネーリは目を瞬かせた。

 かまってーとすりすりしている足元の猫を撫でようとしたら、フェルディナントが戻って来た。

「……夜くらい、聖堂も鍵を閉めたらどうだ? ……その、誰でも入れるようにするのはいいことだと思うが……聞いてないか? 街で事件もあったから、少し心配で。いや……別に口うるさく言うつもりはないんだ」

 青年は猫を抱き上げたまま、きょとんとしている。

「でも……ここの聖堂いつも開いてるから、聖堂閉めると逆に中で悪い人が立てこもってるんじゃないかって思われちゃうんじゃないかな? 逆に平気ですかーって街のみんながドンドン扉叩くと思う……」

 フェルディナントは苦い顔をした。

 説得失敗である。

「そうか、いや……昔からそうなら……いいか……」

 彼はまた出ていこうとして、すぐまた戻って来た。

「ネーリ。聖堂の扉はともかく、寝泊まりしてるこの部屋にはちゃんと鍵を掛けなさい!」

 軍人の顔をして、これはビシッと言うと、フェルディナントは今度こそ、聖堂を出て行った。

 大きく目を瞬かせてからネーリはくすくす、と笑ってしまった。

「面白い人だな」

 楽しそうに数秒笑ってから、ふ、と唇に笑みの余韻を残す。

 目元に掛かる髪をゆっくり指先で掻き上げた。

「……困ったなぁ……」

 小さく息をつく。

「彼は、あの時の軍人さんだったのか……」

 奥に立てかけて乾かしてあった絵を取り上げる。

 夜空を駆る竜の絵。もう随分出来てしまった。あの人がまた見に来るなら捨てた方がいいのかなと思ったが、別に竜をモチーフに描くなど古代から使い古された題材だ。構わないだろう、とネーリはキャンバスを棚の上に立てかけた。

 初めて見た竜が印象深くて、ついあの後描きたくなって描き始めてしまった絵なのだ。


「神聖ローマ帝国に、竜に乗る騎士がいるっておじいちゃんが言ってたけど、本当だったんだな」


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