第5話
フェルディナントは一週間後、駐屯地の騎士館を出てヴェネツィアの街に出た。
何か思うことがあるのか、フェリックスが入り口を塞ぐようにお座りをして、出掛けるのを妨害して来た。
本当に犬みたいなことをする竜である。
基本的には主であるフェルディナントの命令には絶対的に従うのだが、その時はそこをどきなさいと命じても首を地面に這わせて「今寝てますから」みたいな雰囲気を醸し出してどこうとしなかったので、仕方なく無理に隙間を通って出てきた。
明確に逆らうのではなくはぐらかそうとしたのが興味深い。
竜とは、本当に知能の高い生き物なのである。
古代種である彼らが、神聖ローマ帝国内だけだとしても、現在までほとんど姿を変えずそのままの姿で残っていることからも、どれだけ最初から完成された姿で生み出された生物なのかが分かる。
フェルディナントが街へ行くと補佐官のトロイ・クエンティンに告げている時、ゆっくりと後ろに歩いて来て、彼の外套の端をかぷ、と咥えた。
連れて行って欲しそうにしばらくついて来たが、「お前は明るい時間は街に連れて行けないんだよ」と言いながらフェルディナントが馬に跨ると、否定される空気を感じ取ったのか、ようやく諦めたようだった。フェリックスはいつもはこういうことをしない。恐らく、この前の敵を彼も目撃したので、主であるフェルディナントを護衛する意味でも連れて行って欲しいという主張を見せたのだと思う。
それは気遣いであって、命令違反や反抗的な態度とは異なることなので、竜の規律違反は厳格に問題視するフェルディナントも今回はそれを理解し、許した。
剣はまだ振ることを軍医に止められていた。
心配されなくてもまだ肩を上げることも痛くて出来ない。
負傷した右肩は動かさないようにしながら、馬を操り、朝の王都ヴェネツィアを歩いてみた。あの夜通った場所にも行った。血の海のようになっていた通路は、雨が流したのか、人が洗い清めたのか、綺麗になっていた。
ただ所々に剣で削ったりぶつかって破壊したあとが残っている。
壊れたままのランプを見上げた。
その側を、幼い子供が笑いながら駆けて行った。
朝の光の中では、ああいう景色もあるのだ。
ここは王都の中では普通の通りだ。特別治安の悪い歓楽街というわけではない。
尚更警邏隊の暴力的な態度は気になった。
フェルディナントは傷が癒えたら王都守備隊を率いることになる。
当然、警邏隊も彼の指揮下に入る。あんな、女をいたぶって遊んでいるような人間のクズが部下にいるなんて考えただけで反吐が出そうだ。
(俺が着任したら、一度警邏隊も解体し、編成し直した方が良さそうだな)
信用ならない人間は切らねばならない。
不穏分子を飼い続けると、そこから腐敗は更に広がっていくことを、軍に属するフェルディナントはよく理解していた。
前から酔っ払った二人組が歌いながら歩いて来る。また軍服だ。
フェルディナントは今日は軍服を着て来なかった。平服である。だから二人は近々上官になる男がこの場にいるなどと思いもよらない様子で、大声で笑いながら、よろけながら去って行った。
(軍の規律も厳しくしなければ)
真昼間どころか、朝から酒を煽るなど以ての外である。
溜息をつき、ふと側の壁を見ると、一週間前の出来事が描かれた張り紙があった。
ヴェネツィアの夜闇に現われる血に飢えた怪物! と大仰に書いてある。獣のような恐ろしい咆哮! とも書いてあるが、これは確実に竜の咆哮が尾ひれを付けてしまったものだろう。これは、しばらくは竜は街には近づけさせない方が賢明だ。恐ろしい魔物がいる、などと市民が王宮に言い立てただけで、ちょっと来いとフェルディナントは王宮に呼び出されて叱責されそうである。そんなことは避けねばならない。
ゴォン、鐘の音がした。
前方の教会から子供たちが駆け出してきて、「神父様早く早くー!」と向かいの食堂に神父を連れて行ったのが分かった。なんとなく、見上げてみる。
以前は聖堂など、どちらかというとフェルディナントは好きではなかった。
彼はあまり、信仰心はない。
信じるものは自分の中にあると思っているが、神に祈る気は、そんなになかった。
別に神を猛烈に毛嫌いしているわけではないが、日々救っていただいていると信頼しているわけでもない。
彼は幼い頃から、あまり幸運な目に遭ったことが無かった。そして困難は自らの努力でどうにか打破する生き方をしてきたから、どうも祈ったからなんだという気持ちが否定しきれないのだ。
祈ることも努力ならば理解できるが、祈ってばかりで自らの努力を怠るような人間は、彼は最も憎んだ。だから全てがそうだとは言わないが、そういう人間も存在する聖堂は、あまり好きではない。
それでもその時、何故か小さな聖堂に入って行く気になって、祭壇の方へ歩んで行った。
聖母子像だ。
穏やかに眠っている赤子の表情を見て、何故か、死んだ妹の顔を思い出した。
【シビュラの塔】の一撃を受けた時、妹は何をしていただろうか……そんなことを考える。
彼女は何一つ罪など犯してないのに、命を奪われた。
そのことを思うと、ヴェネト王妃の人を見下した態度も、警邏隊の傲慢な素行も、母妃に言われるがままという感じの王子も、何もかもに怒りを覚えた。多くの命を奪っておきながら、まだ、情けも学び取らないなど、生まれながらの悪人なのではないかとすら思う。
(ああ……ここがもし戦場で、神聖ローマ帝国とヴェネトの戦いなら、俺は例え刺し違えてもいい、あの女の首を取りに行ったのに)
しかし今はそうではない。
主君である皇帝が、今はネヴェト王国と事を構えず、時機を窺うのだと命じるのだから、それに従うのみだ。だが、フェルディナント個人としての感情は、もっと怒り渦巻いている。軍人としての自我は逆に、冷え切った氷のように冷静だ。
元々必要に迫られて選んだ道ではあったが、皮肉にも国を失った今、自分が軍人であったことを一番良かったと思っている。
軍人は自分のどうにも押さえられない感情を、任務遂行への情熱に転じさせる手段を身に着けていく。
待つ、ということを覚えられるのだ。
【シビュラの塔】を破壊すること、もしくは永久的に止めることが出来たら、彼らの行いを正すことが出来る。
もう誰も、奪わせない。それは間違いなく願いだ。
目を閉じ、手を握り締めた時、かたん……と音がした。
ふと、祭壇の脇に、開いたままの扉があった。
物音のように聞こえたため、なんとなく、歩いて行って少し覗いて、フェルディナントは天青石の瞳を広げ、息を飲んだ。
思わず、数段だけ下がるその部屋に許可も無く入って行ってしまっていた。
他意はない。
条件反射だった。
―――― 一面の、光。
光のように見えたのは、朝日の中で色鮮やかなその花の色が輝いて見えたからだろう。
瑞々しい木々の緑。
光の中の海。
夜から朝に向かう、奇跡のように美しい干潟の景色も。
何枚も何枚も、一面に、絵画が広がっている。
(なんて美しいんだ)
驚いた。
フェルディナントは芸術を見る目がない。
自分で絵も描けないし、鑑賞も出来ない。楽器も演奏が出来ない。本を読むのは好きだから戯曲や聖典などの内容は知っていても、彼は絵にも彫刻にも無頓着だった。表現する才が、ないのである。しかし両親は芸術を見る目があり、エルスタル城は美意識の高い、美しい場所だった。
決して芸術を冷遇する家系に生まれたわけではなく、他の兄弟たちもそこそこに芸術を小さい頃から体現していたが、フェルディナントだけは昔からダメなのだ。そういえば父親に幼い頃目を掛けられなかったのも、そういう面があるかもしれない。
かといって芸術の才を欲するほど、物事に対して貪欲にもなれなかったのだが。
そういえば妹も芸術が好きなようだったので、最近お父様と見に行った舞台の絵をイメージして描くの、と恥ずかしそうに自分の描いた絵を見せてくれた。
勿論、芸術家などと大層なことが言えるような作品ではないが、感受性豊かな性格がよく出ていて、よく描けている、と兄の贔屓目かもしれないが、フェルディナントは思った。
何が好きか、いいと思ったのか、その気持ちがしっかり分かるのだ。
その気持ちを熱心に描き込んでいて、何かを好きでたまらない妹の気持ちがちゃんと伝わって来た。
フェルディナントはとてもではないが、そんな絵は描くことが出来ない。
だから「よく描けてる」と誉めてやると、嬉しそうに彼女は笑っていた。
そんな兄妹のやり取りを思い出した時――、
突然、溢れてきて、自分でも驚いた。
頬を押さえたが、押さえた手の平から零れて溢れていく。
絵を見て泣いたことなど、生まれて一度も無かったのに。
絵は見る目がなくとも好きか嫌いか、くらいは感情を持つ。
ここにある絵はどれも素晴らしかった。嫌だと思う絵が一つも無い。
多分それは、ここにある数多の絵の、数多の題材――多種多様なはずのそれでも、一つのものを結局、描き出しているからだ。
風景画。
心を惹かれる美しい景色、
優しい、光の描き方。
光とは――何色と表現するんだろうか?
全ての色に柔和に溶けて、その色も、その色でない部分も、光のように浮かび上がらせる。
(この庭園の緑も、水辺の花の色も)
この、空と海の狭間の色。
輝くようだ。
圧倒される。
カタン、と音がした。
無我夢中で見ていたので、一瞬遅れた。
振り返ると、さっき子供と出て行った神父が入って来るところだった。
彼はフェルディナントがそこにいたことに驚いたようだが、さすが聖職、目を瞬かせただけで、それ以上狼狽えるようなことはなかった。
「これは……失礼しました。部屋に鍵を掛けるのをつい忘れてしまって」
フェルディナントは慌てて顔を拭った。
「いや……こちらこそ勝手に申し訳ない、その、祭壇を見に入ったら物音がして、覗いてみたら……、驚いてしまって、」
神父は「ああ」と温和そうに微笑んだ。
「そうでしたか。子供たちに朝食に誘われたので。
構いませんよ。どうぞゆっくりご覧になって下さい」
「……あの、……」
その時フェルディナントは気付いた。
この教会は決して大きなものではない。敬虔な信者が決まった日に礼拝に訪れるというよりは、近所の人々の憩いの場というような教会だ。
丁寧に掃除をされてはいるが、建物は長い時に晒されて、壊れている所もある。
それを直す修繕費すら、無いような様子が少し見回しただけでも分かる。
ここにある絵画の価値など、鑑定できる目はフェルディナントには無かったが、それでも素晴らしい絵だと思った。きっと芸術にこんなに疎い自分がこれほど感動するのだから、多くの人が高値でも買いたいと思うに違いないと、彼は何の迷いもなく思い込んだ。
そんな素晴らしい絵が、何故、こんな小さな教会の片隅に集まっているのか?
嘆かわしいと思うべきだが、一瞬フェルディナントは犯罪すら疑った。
それくらい、この絵の素晴らしさに驚いたからである。
よもや盗品の倉庫ではあるまいかと思い掛けて、青年の顔に何とも言えない戸惑いの色を見つけた神父は、「ああ、違います」と笑って手を振った。
「盗品ではありません。アトリエとして、場所を貸し出しているのです。元々私の休憩室だったのですが、聖堂の方にほとんどいますから」
「これは、大変失礼いたしました。聖職の方に疑いをかけるなど、自分を恥じます」
フェルディナントは深く頭を下げ、謝罪した。
神父は驚いたように目を丸くして、笑った。
「これはご丁寧に。しかし構いませんよ。確かにこんな素晴らしい絵がよもや、こんな小さな教会にあるとは盗人様でも思わないでしょうし」
「いや……、その……」
何と言えばいいのか、という表情の青年を、神父は温かな眼差しで見遣ると、側にやって来た。
「この絵がお気に召しましたか? どれも素晴らしいでしょう」
「はい。」
この時は少しの偽りも無く、フェルディナントは頷けた。
「彼はまだ若いですが、いずれ彼の絵をヴェネツィアの貴族たちだけではなく、欧州の国々の人々が欲しがるようになるでしょう」
若い青年がこれを描いたのか、と聞いて更に驚いた。
ここにある絵には見た瞬間に思わず心を開かせるような明るい力が満ち溢れている、と思ったのだ。それこそまるで、老練の聖職者の紡ぐ言葉のように、安定し、豊かで、落ち着いた空気を感じた。さぞや名のある、自分の世界観を持った何千何万枚も描き重ねてきた画家なのだろうと思い込んでいた。
一体どんな青年なのだろうと、興味が湧いてしまう。
「……不思議です」
神父は青年を見た。
「私は芸術を見る目など無いはずなのに、今までも絵画などは、宮廷に飾られるような立派なものまで、見て来たこともあるのに、それがいいものか悪いかも分からなかった。好きか嫌いかなどと考えることもなかった。
絵を見て、どんな人間がこれを描いたのだろうなんて、考えたことも無かった……。
でもそうか。
絵には、全ての絵には…………描いた人間というものが存在するのか……」
変わったことを言う青年だな、と神父は思ったが、あまりにも想いを込めてそんな風に彼が言ったので、鍵を差し出す。
「私はこれから向かいの食堂で街の皆さんや子供たちと食事をするので……よろしければゆっくり見ていって下さい。そのあとも教区の見回りがありますし……もしお帰りになられるようならば施錠をして、鍵は聖堂の入り口の取っ手に引っかけておいてください」
神父は明るく笑った。
「元よりこの教会には盗まれる価値のあるような立派な装飾や貴金属類などはありませんし。この部屋に施錠するのは、貴方を驚かせたこの子が入って、絵で爪とぎをしないようになのです」
ニャーと白い猫が絵の間から現われて、聖堂の方に逃げていった。
「鍵が掛かっていないと、あの子は扉を開けられるんですよ」
「そうでしたか、でも……」
「これを描いてる彼は、例え誰かに黙って持って行かれたとしても、自分の絵を見てもらえることが嬉しくてたまらないと思う子なのですよ」
神父はそう言って、鍵をフェルディナントに預けると、本当にのんびりとした足取りで出て行ってしまった。
彼は鍵をイーゼルに置くと、奥にも歩いて行った。
部屋自体はそんなに広くはないが、教会に併設されてるために、天井だけは高い。だからその天井に向かって、絵が飾られている。明らかに最初は下から飾っていたが、置き場所がなくどんどん上に向かって掛けていかなくてはならなくなったという、必要に迫られた様子が伝わってくる。色んなキャンバスの大きさがある。小さいものも、大きなものも。
そこに描かれている全てが美しい景色だ。同じモチーフで何度も描いてるものもあるが、それぞれが違う魅力に溢れているように見えた。
短い梯子を注意深く繋いで、高く立てかけてある。
ギシ、と揺れたのでダメかなと思ったが、恐る恐る登ってみると、大丈夫だった。
窓を覆う、カーテンのように大きな絵が一つあった。
宮廷のホールに飾るような、巨大なものだ。
「すごい……」
美しい、庭園の絵だ。
モチーフとしては珍しくもないが、巨大な絵を間近で見ると、いかに精巧に描き詰められているか分かる。まるで六枚の大きな絵画の集合体だ。これを一枚絵として描くなんて一体、頭の中はどうなっているのか。
(どのくらいでこんな絵を、完成させるんだ?)
模写でいいし時間は問わないから貴方も同じものを描いてみなさいと言われたって、自分では一生かかってもこんな絵は描けないだろうと思った。
「美しい場所だな……」
思わず口にしていた。
宝石のような緑に、彩りの花々。
水面を揺らす魚、
空で遊ぶ鳥、
昼寝をする馬、葉先で羽を休める蝶、猫、栗鼠、犬、蛇、
色んな動物が安心したように寛いでいるのが分かる。
これは彼の頭の中にある景色なのだ。
実在する場所なのか、幻想か、それは分からない。
だが、確かに彼の頭の中にはこの場所がある。
◇ ◇ ◇
夕べの礼拝の時刻になり、戻って来た神父は奥の間に入って、驚いた。
黄金色に染まる光の中で、昼間の青年がまだ、絵を見ていたのだ。
一体何時間見ていたのだろうか。
神父が入って来た時彼は高い所にいて、エデンの園の絵を見ていた。
神父に気付き、青年は下りて来る。
「驚きました。まだいらっしゃったとは」
「すみません……、時間を忘れました」
「ああ、あのエデンの園の絵は……大作でしょう」
フェルディナントが頷く。
「ここの部屋は光が入るから、少しずつ時間帯で見える色が変わるんです。
あと十分でやめようと思って見るのに、その頃にはまた違う雰囲気に見えてきて」
「あの子もよく、そう言っていますよ」
干潟の小さな絵を手に取った。
「この干潟は彼の住まいから見える景色なのです。見るべきものが見たら、いつもと同じ、退屈な景色でしょう。でも時折あの子は水辺に座って、時間も忘れて何時間もこの景色を眺めているんです」
神父の手が、絵全体を示した。
「そしてまた干潟の絵を描く。同じ場所なのに、あの子の絵はどれも、新しくこんな美しい景色を見つけられたというような瑞々しい感動が溢れてる。喜びが満ちているのです。驚きます。何というのか……光の見つけ出し方がすごい」
フェルディナントには、神父のように的確な批評は出来なかったが、光の描き方が印象的だと思ったことは同じだったので、それには深く頷いた。
「貴方の言葉を聞いていると、青年といってもまだ若いように聞こえます。……彼は一体何歳なのですか?」
「確か十五歳だったはず」
フェルディナントは衝撃を受けた。
彼は十八歳だ。ほぼ同じ年齢の青年がまさかこんな絵を描くとは。
猛烈に、その若者に会ってみたくなった。
どんな人だろうか?
どんな表情で人と話し、
どんな表情でこれらの絵を描くのだろう?
危うく、このヴェネツィアに来た任務を忘れ、本国に引き返し、皇帝陛下素晴らしい画家を見つけました王宮に招くべきですなどと、報告しそうになった。敬うべき皇帝陛下はフェルディナントが軍才以外の才能には見放されていることを知っているから、画家など勧めたら目を丸くするだろう。
(でも……知れて良かった)
望む望まないに関わらず、フェルディナントはこの地に着任したのだ。
あの虚飾の王宮の者たちがこの地での上司となり、あのならず者のような警邏が徘徊するこの街を、守る任を負わなくてはならない。
彼は軍人だから、皇帝に命じられればどんなやりたくない任務でも遂行する覚悟は出来ている。
ただ、そんな中でこの街に、こんな美しい絵があり、それを描く画家がいると分かっただけで、心持ちが全く変わった。
まるで心の支えのように、その人がいるならば、と情熱を傾けられる。
「彼は色んな場所で絵を描いています。ここには毎日通い詰めることもあれば、何か月も現われないこともある。でも、今はいずれ、近いうちにやって来るでしょう」
フェルディナントの心を見透かすように、優しい声で彼は言った。
一枚のイーゼルを指し示す。
下絵が描かれていた。
「途中の絵がありますからね」
◇ ◇ ◇
フェルディナントはそれから、時間が許すならば、たとえ十五分の為にでもその教会に通い詰めた。しかし、件の画家はなかなか現われなかった。
多分どこかで集中して絵を仕上げているのでしょうと、あまりに彼が通い詰めるので、神父は気にしたようにそう声を掛けたが、フェルディナントは「別に会えなくても構わない」と白状した。
勿論会ってみたい。どんな人があの絵を描くのだと興味は尽きない。
それでも会えないことが不思議と失望にならないのだ。
彼の絵を一日の終わり、夕刻に見に来ると、心が休まる。
「礼拝のようですね」
神父が笑うと、フェルディナントはそうだここは教会だったと、一度も祈りを捧げないままになっていた自分を恥じて赤面した。
なんとなく、聞かないままになってしまっていたのだが、同時になんとなく、青年が身分を名乗らないことを望んでここに来ているような気がして、神父は名も素性も聞かないままにした。何故なら、そんなに作者に会いたいのならば自分の名を名乗り、住所を述べれば、彼が来た時に連絡をすることが出来るのだから。それをしないということは、今はそうしたくないのだろう、とそう思って自分からは尋ねなかった。
しかし、それ以来きちんとやって来ると、祭壇の前で数分間祈りを捧げてから奥の間に入るようになった青年の生真面目を優しい表情で眺め、ここは夜でも扉は開けている場所だから、貴方ならばいつ来ても構いませんよ、と声を掛けてやった。
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