第4話
扉が鳴ったことに気付いて、無心に描きつけていた筆を止めた。
「徹夜ですか?」
「神父様」
「一晩中明かりがついていましたね」
青年は慌てて立ち上がった。
「すみません、鐘……」
「ああ、いいのですよ。今日は私がやりましょう。顔を洗ってきなさい。絵の具がたくさんついているから」
笑いながら指摘されて、手を頬にやると、黄色がついた。
夢中で絵を描いていると、つい顔を色のついた手で触ってしまう。だから顔にいつも絵の具がつくのだ。
本当だ、と彼も笑ってしまった。
「すみません。朝食の支度を手伝います」
「いつもながら美しい絵ですね。――ネーリ」
絵の前で、じっとしている神父に優しい表情を向けてから、ネーリは部屋を出た。
ここは小さな教会の裏手にある物置き小屋である。アトリエ兼居住場所として、借りているのだ。教会もすでに朽ちてそこにあるだけで、人は訪れない。しかし今までの歴史では誰かが信仰していたものだから、捨て置くのは忍びなく、この教区担当の神父だけが、時々建物を確認しに来るという場所だった。今はその時期ではないが、冬など、隙間風で刷毛の毛も凍る。
それでも――。
扉を開くと、朝陽が射し込んだ。
眩しすぎて、思わず、目を細める。
風と波の音と共に、黄金色の干潟が目の前に広がった。
海鳥が飛び、波の音がする。
遠くに、美しい水上都市の姿がある。
ザザ……ン……。
朝の白い光の中、安堵したように静かに佇んでいた。
毎朝見ているはずの景色なのに、毎朝美しさに感動する。裸足のままネーリは歩いて行った。干潟の柔らかい砂を踏んでいくとすぐ波間に辿り着いた。
大きく伸びをした時、腕が痛む。何かなと思って見てみると、青く痣になっている。
……あれだけ打ち合って、仕留められなかった相手は初めてだった。
別に仕留めることが最大の目的ではないけれど、ああいう徒党を組む悪は、全員始末をしないと生き残りが逃げた女二人を追い、彼女達に更なる被害を与えることがあるのだ。
この世に悪があるのは別にいい。
夜や、闇だってこの世に存在するのだ。
悪だって存在するだろう。
だがあの連中は警邏隊の制服を着ていた。つまり街の守護職なのだ。その制服を纏いながら、どんな素性にしろ何故、街に住まう者を傷つけ、殺そうとするのだろう。
『待て! 俺は警邏隊じゃない!』
そういえば、一瞬あの男の軍服も見た。
胸に紋章があった気がする。刹那のことだったが、ネーリは一瞬見たものでも、恐るべき記憶力で脳に刻み、描き出すことが出来た。
「確か……こんな感じだったかな……」
柔らかい砂の上に指先で脳に浮かんだものを描いてみる。
双頭の鷲の紋章だ。
あれは――確か神聖ローマ帝国の紋章ではなかっただろうか?
それに、竜を見た。あれは神聖ローマ帝国にしかいない生き物だから、彼が神聖ローマ帝国の将校だということは、多分間違いはない。
しかし何故王都ヴェネツィアに神聖ローマ帝国の将校がいて、あんなならず者のような警邏隊と一緒にいたかは分からない。
「……最近、ヴェネツィアの街にも色んな国の人が増えたな……」
別にそれ自体が悪いわけではない。
色んな国の人が同じ国で仲良く暮らせたら、きっと素晴らしいことだ。
でも、最近確かに王都の治安が悪化しているのだ。
気になるのが、取り締まるべき守護部隊が機能してないことである。
守備部隊が機能してないということは――彼らを諫めるべき人間もまた、機能していないということなのではないだろうか?
ふと見ると、手首の裏に赤い色がついていて、絵具かと思うと、違った。
しゃがみ込んで、浅い海に手を浸し、軽く指で擦ると、赤色は滲んで水に溶けて消えた。
少し、ホッとする。
もう一度前方を見た。
美しい世界。
こんなに、美しい景色。
悪はきっとある。
悲しみも。
だがネーリは美しいものをどこまでも信じたいと願う青年だった。
『美しいだろう?
この街は。いずれお前が継ぐ国なのだよ。
だからこの街で善良に暮らす民は、みんなお前の子供だ。
お前がみんなを守ってやるんだ。
【水の王】の強い守りがあると、彼らが信じることが出来れば、きっとこれからも素晴らしい街になって行く』
「……おじいちゃん」
きっと、悲しみの真実も……この世にはある。
聞かなければよかったことも、
聞きたくなかったことも。
……でも……。
(ただ、この国が好きだ)
美しい景色に包まれたこの国が。
幸せに、例え千年先でも変わらずにここにあってほしい。
海鳥が鳴く。
ザザ……ン……。
「……綺麗だなぁ……」
ネーリは濡れるのも構わず、ゆっくりとその場に腰を下ろした。腰あたりまで、浅く海の中に包み込まれる。彼は両腕を伸ばして、後ろ手に手をつくと、ぼんやりと美しい朝の干潟の景色を見つめ続けた。
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