のぞき女-2
チャイムが鳴る前に教授が早々に講義を切り上げて、学生たちもぞろぞろと席を立ち始めた。なおとはパソコンを閉じて「ラッキーじゃん」と振り向いて笑う。「いつまで高校生気分だよ」と小突きながら、俺も笑った。
なおとと別れて講義棟を出ると、早くも日が暮れ始めていた。最近はすっかり日没が早くなった。夜もかなり冷え込むので、寒がりな自分にとっては気が滅入る。ダウンジャケットが手放せないほどの寒さだ。末端が冷えないように両手をポケットに突っ込んで帰路を急いだ。入院生活が終わってしまえば、一人暮らしのだらだらとした日々に逆戻りだ。病院食は質素ではあったが、黙っていても食事が出てくるだけありがたかった。自炊も面倒だから、適当に袋麺でも食べよう。
空を見上げると、電柱の真っ黒なシルエットと薄ぼんやりとした三日月の光が浮かんでいる。今日の夕暮れはやけに鮮やかだ。閑静な住宅街に、自分の足音だけが響いている。車の音も、風の音すらなかった。
ふっと視線を戻す。
住宅街の、迷いようのないまっすぐな一本道。自分以外には誰も歩いていない。
右側の塀の向こうから見つめてくる影と目が合った。
ビクリと肩を震わせ、思わず足を止めた。とっさに視線を足元へと逸らす。風なんか吹いていないのに、カサカサと物音が遠くで聞こえる気がする。
今のは、なんだ。塀の向こうからのぞいていたもの。影だった。白黒の影だった。ぼんやりとした姿しか思い出せないのに、見間違いではないと断言できる。確かに目が合ったのだ。
恐怖のあまり顔を上げることができない。しかし静寂に耐え切れず、とうとう前に一歩踏み出した。靴底とアスファルトが擦れる音すら鮮明に聞こえる。一歩、一歩、砂利を踏みしめる音が、増えていやしないかと不穏な妄想が膨らんでいく。この道はこんなに長かっただろうか。この道はこんなに
前を向けばまたさっきの影と目が合うかもしれない。気のせいだと思いたいのに、恐怖に抗えない。しかし、俺はなぜか顔を上げてしまった。気が付くと道の突き当りまで進んでしまっていた。目の前には見慣れた家だけが並んでいる。なにかと目が合う感覚は、なかった。
俺は安堵からふうっと大きなため息をつく。やはりただの見間違いだったのだ。今度こそ俺は前を向いて次の角を曲がろうとした。
「ま、ぉ、あああ」
声は耳のすぐそばで聞こえた。音声を切って貼ったようなとぎれとぎれの不自然な声。声というより音が正しいかもしれない。
角を曲がった瞬間に顔があった。ぼんやりとして造作はよくわからないが、出目金のように膨らんだ二つの目がこちらを見つめている。首は長く細く、ゆらゆらと揺れている。白い服と長い黒髪が、風もないのになびいた。輪郭がぼやけているが、さっきよりもはっきりと見える、人のような何かだ。
「あ ぁも、つ」
影の口らしきものが動く。人間の口の形はしておらず、ぽっかりと空いた黒い穴が、笑みの形にたたえられている。心臓の音がバクバクとうるさいのに、それをかき消すように声がする。叫びだしたいのに、声が出ない。逃げることもできなければ、目を逸らすこともできない。
「───っ!!は、っはあ、はあっ」
ばちんと勢いよく目を開ける。目の前は真っ暗だった。口の中がカラカラに乾いている。バクバクと鳴っている心臓を落ち着かせようと大きく息を吸い込んだ。
暗闇の中でゆっくりと目が慣れていく。自分の体の感覚も徐々に鮮明になっていく。そしてようやく自分が横になっていることに気が付いた。
そうか、夢だったのか。今俺が寝ているのは紛れもなく自分の部屋で、今日は大学から何事もなく自宅に帰ってきて、いつも通りのルーティーンを過ごして眠りについたことを今はっきりと思い出した。
まだ感覚が過敏になっている。少し身をよじって布が擦れる、その小さな音ですら鼓膜が拾ってしまう。ゆっくりと体を起こして、ここが現実であることを実感しようとした。
悪夢なんて久々に見た。入院中ですらこんな恐ろしい夢は見なかったのだ。すっかり喉が渇いてしまって、水を飲もうとベッドから降りようとする。1LDKの狭い部屋は今までと変わらないはずなのに、なんだか不自然に広くなったように感じる。さっきの恐怖が尾を引いていて、少し迷ったが電気をつけた。部屋の電気と、台所の電気も。冷蔵庫を開けてペットボトルを取り出し、コップに水を注いだ。口をつけて一思いに飲み干してしまえば、ようやく安心することができた。
部屋に戻ってデジタル時計を確認すると、まだ二時だった。また悪夢を見たらどうしよう、なんて子供じみた不安が胸の中で膨らみ始める。ホラーやオカルトに関しては縁もないし興味もない。しかし恥ずかしながら、人一倍ビビりである自覚はあった。
幽霊が怖いなんて、大学生にもなって情けない。そんなこと自分でもわかっている。怖がりなのは子供のころからで、両親からの子供だましな脅かしも、学校の怪談も、ずっとずっと苦手だった。大人になったら克服できるかと思っていたが、そんなのはただの思い込みに過ぎなかった。
結局その日は再び眠ることができずに、スマホでネットサーフィンをし続けてなんとか夜を明かした。無心で画面を眺めていれば、嫌でも時間が過ぎていった。外が明るくなり始めたころには、悪夢を見たという記憶だけが残り、その内容はすっかり薄れてしまった。
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