第2話
「ケレス。今日の夜食は魚のハーブ焼きだよ」
客たちが帰り、後片付けをしているケレスに声をかけるのは、アルトの妻であるセディアだ。こどもを寝かしつけてきたのだろう。
ケレスは育児に忙しいセディアに代わり、住み込みで働かせてもらっている。
「わたしの好物!」
「そうだよ、いい魚が手に入ったからね。もう少しで焼けるからちょっと待ってて」
「はい。いつもありがとうございます」
「そりゃこっちの台詞だよ。本当に助かってんだ。ほら、うちの旦那って仕事に厳しいから、皆すぐに辞めていっちゃってね。ケレスが長く続けてくれて本当に感謝してんだよ。おかげで、わたしは落ち着いてこどもの面倒みれるし」
「お役に立てているなら良かったです」
「十分な働きだよ。本当、あんたみたいなお嬢さんに働いてもらって、罰が当たらないかねぇ」
「わたしはお嬢さんではないですよ。そんなもの名ばかりで、ただの居候が家を出ただけなんで」
ケレスは口端に苦笑を浮かべたところで、店の扉が開いた。真冬の寒風がするりと入り込んできて軽く身震いする。
(あ、しまった)
閉店の掛札を出していなかったと慌てて駆け寄る。
「あの、すみません。今日はもう閉店で――」
とそこでケレスは言葉を切った。そこにいた男は、極力会いたくない人物だったからだ。
「久しぶりだな、ケレス」
「……おじさま」
上質のコートに身を包み、冷めた青い目でケレスを見下ろすのはヘンリー・クラウン。ケレスのおじである。
「おまえに話がある」
「それは今、ここで話さなければならないことですか」
「そうだ」
ケレスは面倒事だな、と瞬時に判断して身を構えた。おじ自ら足を運ぶということは、おじにとって――クラウン家に関わる問題なのだろう。でなければ、誰か使いの者を寄越せば良いだけの話だ。逃げようかとも思うが、この店に害が及ぶことは避けたい。
この辺りにある店のひとつやふたつ、簡単に潰せるだけの力をこの男は持っている。
(仕方がないか)
ケレスは諦め、セディアに視線を向ける。
「あの、セディアさん。すみません、少し外でお話してきて良いですか」
「何言ってんだい、こんなに寒いのに。わたしが席を外すからここで話せばいいさ。旦那にも、しばらく降りてこないように言っておくよ」
セディアはそう言いながら、心配げにケレスとヘンリーを交互に見つめる。するとヘンリーはわざとらしく嘆息した。
「安心しろ、攫ったりしない。ただ、話があるだけだ」
ケレスもセディアを安心させるように目を見て頷くと、彼女は渋々その場を後にした。
「……久しぶりだな」
ヘンリーはケレスとは目を合わせず、店内を見渡しながら呟いた。
「そうですね」
「本当に生活できているとは驚いた」
「おばさまが仰っていた通り、わたしは下賎の子ですから。外で生活する方が性に合っているようです。空気も随分良いですし」
「はっ、厭味か。随分と生意気になったな」
「本当のことを申したまでです。……ただどんな状況であったにしろ、育てていただいたことには感謝しております」
ケレスは長い睫毛を伏せた。ケレスの本名はケレス・クラウン。名門貴族、クラウン家の血を引いている。ただ、ケレスの生い立ちは複雑だ。
今、目の前にいるヘンリーはクラウン家の現当主。彼には亡くなった姉がいる。名はステラ・クラウン、ケレスの母親である。つまりヘンリーとケレスはおじと姪の関係なわけだが、この通り友好な関係ではない。
というのも歴史学者だった姉は家の反対を押し切り、決められていた婚約も破棄して家を出た。何年も帰って来ず、生きているのか死んでいるのかさえ分からなかったが、ある日突然帰ってきた。――その身にケレスを宿して。誰の子かも決して明かそうとしなかった彼女は、ケレスを生み、その後すぐに亡くなった。血を失いすぎたそうだ。
父親が誰かも分からないケレスは、クラウン家の恥となった。特にヘンリーの妻、オリビアは世間体を気にして、ケレスを厭い、表に出そうとしなかった。ケレスを置く代わりに、使用人と同じ扱いをした。当然オリビアのこどもたちもケレスを使用人同然とみなし、蔑んだ。当主であるヘンリーもそれを止めることはなかった。だがどういう心境なのか、教育だけは受けさせてくれた。それ以外は使用人と同じ生活であったが。
そして二年前――。
オリビアのこども二人が、ケレスを冬の池に落とそうとした。普段なら素直に落ちてやっても良かったのだが、母を馬鹿にされたことが許せず、ケレスが反撃し二人を池に落としたのだ。勿論怒ったオリビアに折檻されたが、ケレスも今までの鬱憤が溜まっていたのであろう。オリビアに対して、手こそ出さなかったが口で論破して叩きのめしてしまった。要するにキレたわけである。あんな大声が出せたことに自分でも驚いた。
その結果出て行けと言われたので、元々考えていた脱出計画を早め、トランクケースを片手に家を出たのである。
それ以来屋敷に戻ることは一度もなく、またクラウン家の人間も誰一人としてケレスに会いに来なかった。
(なのに、今更何なのよ)
クラウン家にこれ以上悪評が立たないよう、出自を伏せてひっそりと。そして毎日仕事を掛け持ちしながら、すこぶる元気に暮らしていたのに。
「姉上によく似てきたな。気の強いところがよく似ている」
「それは良かったです」
気を強く持たなければ、あんな家で生活はできなかった。
「だが、容姿はちっとも似ていないな」
「では、誰とも分からない父親に似たのでしょう」
クラウン家の血筋は、白金の髪に青い目をした美形が多い。肖像画に描かれていた母もそうだった。しかしケレスの場合は、暗い栗色の髪に榛色の瞳。鼻は低く、面立ちは至って平凡だ。真ん丸とした大きな目のせいで、狸、と呼ばれることさえある。先程常連客のディクが揶揄ったように、本当に地味なのである。
「だろうな。父親について、知りたいと思うか」
「別に興味はありません」
と口にしたところで、ケレスは気づいた。視線を合わそうとしなかったヘンリーが、いつの間にかケレスを見つめていることに。
もしや、とケレスはヘンリーに尋ねる。
「……父親に関係することですか」
「さあ、分からん。父親かも知れんし、母親に関することかもしれん。――おまえに結婚の打診がきた」
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