少年と海

想田唯一

第1話 夜を逃げる少年

 11月、月変わればツキが変わるのか。 新宿の夜は少しずつ寒さを増している。 

 しかしまたそれに反発するように、このところの新宿ゴールデン街は人が盛っている。 

 外国人、観光客、そして大声を上げる酔客。 3年以上続いた街の委縮は影を潜め、新宿の片隅の喧噪は、祭のごとく跳ねている。 

 ソトケンは、バー・ビッグリバーの、いつもの席でため息をついている。舟券絡みで、先月は嫌な目に散々あったが、それを他の客が面白がる雰囲気も影を潜め、ここ1週間程は静かに飲むことができている。 常連が来ればその声に耳を傾け、客が少なければ店主の恵子と何でもないことを話す。ただこれだけのために、リバーに通っているのだが、リバーは欠かすことのできない日常だと改めて思う。 

 その日常の中でも特に、五番街二階に位置するビッグリバーの窓から月を見るのが、ソトケンは好きだった。 

 11月1日、火曜日、午後11時。その日、恵子が一人カウンターの中に入っており、止まり木にはソトケンとMJの二人。 MJ…自ら名乗るゴールデン街ネーム。50半ばの気のいい男で、映画に詳しく、柔和な顔をした男前である。 

 しかし、MJがどんな仕事をしているかは誰も知らない。本人は、どこに住んでいるのかも言わない。常連たちの話に合わせ、楽し気に話しているが、しかし目は笑っていない。 加えて、後輩と称する男を連れてくることもあるが、MJは基本として一人でやってきて、一人で帰っていく。ゴールデン街の他の店も寄っているようだが、いつも一人で、誰に対しても親しげでありながら、結局、誰もMJのことを知らない。 かつて話の流れで、MJって殺し屋が仕事?と笑って聞いた者がいたが、MJは苦笑するだけで、結局、仕事のことは何も話さなかった。 ソトケンとMJは、先週終わった野球日本シリーズを肴に静かに話し、恵子は小さなコンロで厚揚げを煮ることに気を取られていた。 その時、階下のリバーの店の扉を誰かが開ける気配がする。 

 さらに誰かがそっと扉を閉める気配もする。 しかし誰も階段を上がって来ない。 ソトケンとMJは不審に思い、顔を見合わせたが、煮炊きの音で恵子は気付かない。思い立ってソトケンが立ち上がり、階段を上から覗き込む。 すると扉を閉めた内側に男の気配がする。 「誰、上がってくれば」ソトケンが声を掛けるが、男はしゃがみこんで、こちらを見ない。 よく見ると、震えている… 季節外れの半そでの白いTシャツが小刻みに揺れているのが暗がりを通しても分かる。 

 ソトケンはしゃがみこむ男に触れるべく階段を一段一段降りると、男はその足音一つに脅えて体全体で反応する。 肩に手を乗せると男が振り向き、ソトケンは、その表情を見ることができた。 男ではあったが、少年だった。「どうしたんだ、とりあえず上に上がろう」 ソトケンがそう声をかけると、脅えた目のまま、少年は引き上げられるように階段を上がり、恵子とMJの前に姿を現した。 

 MJはMJで、何かを感じたのか背後の窓を開け、五番街の左右に目をやっている。 ソトケンが手前の止まり木に少年を座らせると、MJがソトケンに目で合図をする。

 ソトケンはMJの真顔で示すサインを受け取り、MJがしていたように、窓から顔を出し、五番街を見渡した。 

 五番街では、少なくとも五人の剣呑な男が、暴力の気配をまき散らしながら、必死に何かを、あるいは誰かを探していた。 昨今の歌舞伎町では見なくなった、見るからに反社の世界に身を置く者たちだった。 

 男たちは、手分けをして五番街の路面店を一軒一軒のぞき見をし、そこに目的の「物」がないことを確認している。閉め切った扉を持つ店にもためらうことなく入り込み、中をじろじろと見渡している。 それを確認すると、ソトケンはそっと窓を閉めた。 MJが少年に声をかけた。「追われているの?」 少年は、小さく首をたてにふった。「恵子さん、この子、上に上げた方がいい。いかつい連中が下で、この子を探してる」 ソトケンの言葉に、様子をうかがっていた恵子は、ソトケンに向けて顎をほんの少し上げて、少年を匿うよう促した。 

 ソトケンは少年の手を取って、三階の部屋へと導いた。 ゴールデン街はかつての青線地帯で、終戦後しばらく売春の根城であった。それであるがゆえに、二階の店には、さらに三階となる小さなスペースが、どの店にもある。昔、そのスペースこそが売春の現場で、下が受付、上がヤリ部屋という構造だったのだ。 

 ビッグリバーでは、この三階を宴会用のスペースとして活用してきたが、ご時世から宴会の需要がここ三年なく物置と化していた。 

 三階に上がるために履いているものを脱ぐように言うと、その段階で、少年の靴の異様さにソトケンは気付いた。 少年は全くサイズの合っていない、ピカピカに光る黒の革靴を履いていた。白いシャツは薄汚れ、黒いズボンもよく見るとシミだらけだった。そんな形で、黒革の靴はあまりにも不釣り合いだ。 

 ソトケンは少年を三階の奥に座らせ、ここで静かにして待つように、と小さく声をかけた。 少年は静かにうなずき、傍らにあった毛布を引き寄せ、それをぎゅっと握りしめたまま、うつむいて顔を伏せた。 疲れているようだった。 年齢は十二歳前後に見える。 痩せているというよりは、鉛筆のような体型で、ろくに食事も摂ってないように見える。 しかしそれよりも、五番街の様子が気になる。 少年のうつむいた姿を見て、ソトケンは二階に戻り、MJにどう?という表情を向ける。 

 MJは窓を少しだけ開け、外の様子をうかがっている。 「多分この店にも来る、一階の店も二階の店も、向こうの端から順に除いて回ってる」 MJがそう言うと、恵子がすばやく反応した。「ソトケン、すぐにもう一度、あの子、下に連れて来て、早く!」どういうこと、と聞く間もなく、動いたのはMJだった。 MJは、靴を脱ぎ、上に上がり、音もなく少年を導いた。 急ぐ恵子は、少年に手招きをし、カウンターの中に入るよう促した。少年は言われるままに、カウンターの中に入ったが、その頭を恵子は抑え込み、少年をカウンターの内側に姿を消した。 

 カウンターの下でしゃがみこむ少年に恵子が、小声で、そこでしばらくじっとしていなさい、と言った。 その時、階下の扉が開いた。程なく殺気を帯びた男が顔だけを出し、店を覗き込む。スキンヘッド、薄いサテンの入ったスーツ、チンピラ反社という形の男が、30前後か。 恵子は、いらっしゃい、と素っ気なく声をかけると、男は、ここに男の子が入って来なかったか、といきなり尋ねた。 口調がいかにもという調子だったが、恵子は臆することなく、いや、ここにいる客だけしか入って来てないね、と答える。 MJとソトケンは、並んで座り、その男を見つめた。 

 男は、そうか、ならいいが、と一人語りをしながら、階段を上がり切り、店内をぐるりと見渡す。 狭い店の中で、いい歳のママ一人と二人の中年男性客、典型的な火曜日の典型的なBARにしか見えない。 が、男は三階への階段に目を止め、この上は、と恵子に尋ねる。「物置だね」「ちょっと見てみたいんだが」「客でもない奴はお断りだよ、帰ってくれる」「分かった、じゃあハイボールをくれ」恵子が黙ってうなずくと、男はそれを合図に三階への段に足を乗せた。「靴脱いで上がって」そういう恵子の言葉を聞かず、男は土足のまま三階に上がる。 階上で部屋を覗き込む気配がする。 

 その時、ソトケンは上り口の下に脱いだままの革靴があることに心を奪われていた。少年の履いていた靴である。見咎められれば、男はさらに執拗にこの店を嗅ぎまわるだろう。 少年はカウンターの下で息を潜めている。MJは知らぬ顔で、いいちこの水割りを飲んでいる。恵子は、上の様子をうかがっている。 ソトケンは静かに黒革の靴を手に取り、恵子にそっと差し出した。恵子も察しよくそれを受け取り、カウンターの中に靴を置く。 階段を降りる男の足音がすると、恵子は、ハイボールのグラスをカウンター真ん中の止まり木の前に置いた。 男は、改めて店を見渡すと、立ったままハイボールのグラスを傾け、グラスの酒を一口に飲み切った。飲み切ると同時に、いくら、と恵子に尋ねた。 「1800円だね」 「釣りはいいよ、商売の邪魔して申し訳なかった」 男が二枚の紙幣をカウンターに置くと、同じ速さで二枚のコインを恵子はカウンターに置いた。 「あんた、名前は」 「俺か、俺は外山というが」 「じゃあ、外山さん、これ受け取ってこの店出たら、その瞬間から出禁だから。靴を脱がずに上に上がったら、そうするルール、分かった」 男は、にやりと笑い、二枚のコインを丁寧に拾い上ると、さっと片手を上げて、階段を降りていった。 MJが窓を少し開け、五番街の様子をうかがうと、恵子に向けて首を縦にふった。 恵子は、少年にカウンターから出て、止まり木にすわるように促した。「お腹、空いてる」 少年はうなずく。「君、いくつなの」「多分15」「ふーん、焼きうどん食べる」 少年は再びうなずく。 恵子は厚揚げの煮つけを皿に移し、刻んであったピーマンと人参とハムを小さな冷蔵庫から取り出し、フライパンに投げ入れる。しばらく炒めると、うどんを冷蔵庫から取り出し、封を開けフライパンの中に投げ入れた。 醤油の焼ける匂い、皿の上で踊る鰹節、湯気を湛える焼うどんが前に置かれると、少年は、一気にそれに食いついた。「美味いかい」 恵子がそう言うと、少年はただうなずくだけだった。「食べたら、上で寝たらいい。行くとこないんだろ」 少年は、口を拭いながら焼うどんを平らげると、すぐに体を揺らし始めた。 「余程、疲れていたんだ」 MJはそう言うと、少年の体を支え、階段を上がった。 

 階上で、MJが少年に毛布をかける気配がする。 MJが戻ると、恵子とソトケンとMJは、顔を見合わせる。 誰も言葉がないまま、ソトケンはいいちこを飲み、恵子はハイボールを自ら作り飲む。 MJは何事か考え事をしている。 時刻は午前0時を回り、誰もが終電のことを忘れていた。 「とりあえず、提灯消してくる、今日も閉店だけど、MJ、ソトケン、もう少し付き合って」 ソトケンはうなずき、MJは手を上げた。


 夜はまだ終わらない。

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