新米作家ミス・グラマース(※派生作品)
いぬのいびき
新米作家ミス・グラマース
レニーはペンを手にして、もう3時間も白紙を前に固まっていた。
彼女の頭の中では『ああでもない、こうでもない』と思考が濁流のように流れていて、その中から理想の一文を掴み取ることができずにいるのだ。
「レニー、そろそろ休憩しなさいな」
コトリ、と熱い紅茶がレニーの机に置かれた。作家仲間のアリアである。今日ここにいるのは二人だが、彼女たちは全員で5人いる新米作家集団ミス・グラマースの一員だ。
彼女たちの信条は『美しい文章は美しい肉体から』。活動ジャンルは【カズマリ】一本である。カズマリというのは、ムギーラ国王の相談役たるカズマと、その妻マリリンの恋愛小説を専門に扱う、いま最もアツい業界なのだ、が……。
「まだ一行も書けておりませんので……」
「そう肩肘張るから何も書けなくなるのよ。一度原稿から離れてみなさい、案外スルッと良い書き出しが浮かぶかもしれないわよ」
「そういうアリアはどこまで書けまして?」
「うっ……まだ、一行も……」
彼女たちには、どうしても上手く書けない理由があった。原因といえば、小説家にはありがちなことだろう。ミセス・マッチョスへの憧れが強すぎるのだ。【カズマリ】の創始者にして最王手、いま最も売れている小説家集団への憧れは、もはや盲信と言ってもよいほどだった。
「アリア、いけませんわ。過ぎたる憧れは身を滅ぼします……」
「レニーこそ。ミセス・マッチョスの文才が羨ましくて筆が進まないのはわかるわよ。でも、あなたにはあなたの良さが……」
レニーはいわゆる凡人である。文才そのものは平凡だ。けれど書き続ける能力だけは他の誰より優れていて、朝早く起きて夜遅くに寝るまでずっと小説を書き続けている。彼女はハイパーグラフィアという体質で、書き続けていないとソワソワしてしまうのだ。
「わたくしの良さとは?どこです?言ってくださいませ」
「えーっと……胸?」
しかし残念なことに、アリアはレニーの書き続ける能力を『良さ』とは捉えていなかった。小説家なら、誰だって朝から晩まで書いているものだと思っているからだ。
案の定、レニーは不機嫌になった。彼女にとって胸など、あってもなくてもどうでもいいものなのだ。
「アリア。小説家はね、胸で文を書くわけではございませんのよ……大きさなど、どうでもよろしいのです」
「まあそうなんだけど」
「ああ、わたくしはミセス・マッチョスに……ナナルシカ様に、ミナリー様に、モナリザス様になりたい……いいえ、彼女たちが妬ましいわ……!」
少しだけ冷めた紅茶を一気にあおり、レニーはカン!と荒々しくティーカップを置いた。1週間後には忘れてしまうことだが、アリアはもう一生、二度とレニーに繊細な陶器を持たせないようにしようと心に誓った。
「あのね、レニー。嫉妬は自分と同レベルの相手にしかしないと言うわ。つまりあなたは、ミセス・マッチョスに追いつける素質を持っているのよ」
「アリアは知らなくて?ほとんどの人は自分の能力を2倍以上に見積もっているの……あなたも『締め切りまでに80ページ書ききれる』と思ったのに、32ページしか書けなかったこともありますでしょう……?」
「つまり倍以上は実力差があるということね……」
小説の巧拙を数値にすることは不可能だが、売れている部数、ファンの数は倍以上どころか雲の上。ミセス・マッチョスの小説には求心力がある。カリスマ性がある。つまりそういうことである。
「ええ……胸をときめかせる構成力に、惹き込まれるような文体もさることながら、あの表現力の素晴らしいこと……!例えばほんの些細なシーンですが、夫婦で休憩中のカズマ様に『マリリンさえ隣にいれば、退屈すらも愛おしい』という台詞を当てるなんて、未婚のわたくしにはわからない境地です……」
「退屈なんて苦痛でしかないのに、幸せな結婚の前ではそうなるのね」
レニーとアリアは、ジワリと湧き出した結婚願望に脳を焼かれた。行き遅れている現実に打ちのめされたのだ。
彼女たちは妥協を知らない。だからいつまで経っても結婚できない。しかし理想の男性はカズマなので、小説を書いているほうが幸せとも言える。
そう、ミス・グラマースは【カズマリ】を書いているときこそが幸福の極みなのである。
だというのに、レニーは真っ白な紙を前にペンを置いた。もう書けないと言いたげだった。
彼女はミセス・マッチョスの小説と比較するあまり、己の才能のなさに打ちひしがれてしまったのである。
「もう、わたくし……筆を折ろうかしら。【カズマリ】を書いていく自信が、これっぽっちも湧いてこないわ……」
「やめたいなら、ご自由にどうぞ」
「あら、薄情ね……」
レニーはアリアの顔をジットリ眺めた。引き止めてほしいのだ。
対してアリアは、フンスと鼻から息を吐いた。
呆れているのだ。
だって、レニーは。
「だって、あなたこれ言うの16回目よ?毎回『書けないわ!』と言っては筆を折り、3日後には『やっぱり書きたいわ!』と戻ってくるじゃない」
「そ、れは……」
アリアの言うとおりだ。レニーはまるで生きるためにそうするように【カズマリ】を書くため戻ってくる。他の小説で生計を立てようともせず、いつだってミス・グラマースの拠点へと戻ってくるのだ。
だってレニーは【カズマリ】を愛している。
愛しているどころか、愛しすぎているのだ。
愛しすぎているせいで書けなくなって、なのに離れることもできやしない。
「レニー。あなたはもう充分思い知ってるはずよ。あなたにとって【カズマリ】は3大欲求に等しいの。なければ生きていけないの。それも読むだけでなく、どんなに稚拙だとしても、自分の手で作品を書き上げないとね」
「……そうね。私には、書く以外の道はないわ」
レニーは黙って机に向かう。
彼女はついに一行目を書いた。ミセス・マッチョスには見劣りするが、確かに愛の籠もった一文であった。
筆を折るなんて土台無理な話なのだ。だってレニーは、あまりに【カズマリ】に魅せられている。
たとえミセス・マッチョスには永遠に敵わないとしても、どうせペンを手に取り、書き続けるしかできないのだ。
新米作家ミス・グラマース(※派生作品) いぬのいびき @niramania
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