第4話 天才剣士
商人や町人で賑わう日本橋の道中に、白無垢の一行が通る。
北町奉行所へ向かう道中、永斐勝頼はそれを見止め、足を止めた。
心臓が静かに鳴った。トクトク。トクトク。耳の奥で脈動が感じられ、その小さな振動は体の重心を少しづつずらすよう。
白無垢の女性が、他の姿と重なる。眉間に力をこめ、目をすがめる。油断すれば、涙がこぼれてしまいそうだった。
「兄上?」
団子を手に有為が顔をのぞきこむ。勝頼はその顔を見せまいと、顔を背ける。
首を傾げる有為は、勝頼の視線の先を追う。
「武家の嫁入りですか。日本橋の道中を通るとは、さぞ家柄の良いところの娘でしょうね」
「そうだな」
「で、それを見て、兄上は思うところがある――俺もどこぞの武家に貰われて、この貧乏暮らしから抜け出したい、と」
「ふっ、バカを言うな」
「あ、やっと笑った」
有為は勝頼の顔を指差し、にっと笑う。そして、手にもっていた団子の串を二つ差し出す。
「みたらしとあんこ、どっちがいいですか」
「甘いのは好きじゃない」
「ですよね。じゃあ僕はあんこ……ぱくっ、んん、おいひい」
「食べながらしゃべるな、はしたない」
勝頼はみたらし団子を受けとると、口へと運ぶ。
「うまい」
「でほう」
団子で頬を膨らませ、有為は笑う。その顔がおかしくて、勝頼は思わずほころぶ。
「兄上は笑っていてください」
食べ終わった団子を口にくわえた有為は、先へ行く白無垢の方へ視線を向けていた。しかし、その目は白無垢の背を通り過ぎ、どこか遠くをみつめていた。
「有為……俺は」
その目が勝頼を見る。悲哀と諦めがこもった目。思わず、息が詰まった。
「兄上は……ただでさえ、顔が怖い。体も大きくて、笑っていないと熊に睨まれているようですからね」
有為はおどけるように、両手を広げる。勝頼は安堵から、ふっと息が漏れる。
「ったく、お前は」
「さ、そろそろ行きましょう。奉行所でみんなが待ってますよ。よ、二番組与力様!」
「からかうな」
軽口を叩く有為を置いて、勝頼は先を歩いていく。有為はふふっと笑い、後をついていく。
日本橋を過ぎ、呉服橋を超えると北町奉行所の門が見えてくる。門の周りは奉行所を出入りする与力や同心で賑わっていた。
同心は皆、着流しの着物に紺色の羽織を着て、それを束ねる与力は袴に浅黄色の肩衣といった正装で現れる。
二番組を預かる与力の勝頼は灰色の袴に浅黄色の肩衣に身を包む。長身で分厚い胸板の勝頼は、痩身が多い与力の中では頭一つ目立つ存在だった。
同心の有為は、表向きには勝頼の部下ということで、着流しの白い着物に、紺色の袴を着て、他の同心と同じ格好をしていた。だが、有為も他の同心とは一線を画す存在だった。鼻筋が通り、目鼻立ちがはっきりとした顔立ち、肩まで伸びた長髪を後ろで結ぶ姿が美丈夫として女性に人気だった。あの兄と同じ血が流れているとは思えないとうわさが絶えない程。
だが、それに対して他の同心は何も言わない。それ以上に、有為の剣が男を惚れさせるほどの腕前であったからだ。
「じゃあ、兄上。僕は武道館の方で稽古に参加してきますので、ここで」
ああ、と勝頼が手を挙げると、有為は西の武道館へ向かう。その有為の背を追うように、多くの同心たちが武道館へ向かう。皆、有為に稽古をつけてもらうつもりだろう。
勝頼はその背を見送り、東の本館へと足を向ける。
本館の広間に着くと、すでに他の組の与力が下座に座っていた。上座を見ると、すでに北町奉行の奥野が座っていた。勝頼は急ぎ下座の一番後ろにつき、平伏する。
「遅くなり申し訳ございません」
「集合には間に合っている。其方に非はない。表をあげよ」
ははっ、と勝頼は顔をあげる。奥野は一度周囲を見渡すと、こほんと咳ばらいをする。
「皆の衆、急ぎ招集への対応、感謝する。さっそく本題に入るが――」
奥野は一拍置いて言った。
「若年寄、酒井忠明様が暗殺された」
なっ、と与力の間に衝撃が走る。若年寄りとは、国の政治を統括する老中に次ぐ重職で、幕府徳川家の内部を統括する職である。時に将軍へ道を説き、諫めることもできる職であり、多くは親藩譜代の大名から選出される。
その若年寄りが暗殺されるということは、徳川家の、ひいては江戸を揺るがす大事件だ。
「静まれいっ!」
奥野の一喝に、与力から声が消える。奥野はふむと周囲を睨み、話を切り出す。
「事件は、昨日の昼。寛報寺の門徒により酒井様と寺の住職が死亡していると連絡が入った。四倍組が向かうと酒井様は外傷がほぼなく一刀で首を斬られ、住職は胸や背中をめった刺しにされていたという」
奥野は四番組の与力へ視線を向けると、与力は頷く。
「犯人の目星はついているのですか?」
勝頼の言葉に、奥野は頷く。
「住職はともかく、酒井様はあの柳生先生の手ほどきも受けた、江戸でも指折りの剣の使い手。老齢となっていても、その腕はそこらの野武士では相手にならないと聞く。その酒井様を一刀にして両断できる者と言えば、候補は自然と絞られてくる。例えば、其方の弟とか、な」
「お戯れを」
勝頼は伏し目がちに首を振る。
「暗刀、ですね」
奥野は、うむ、と神妙な顔で頷く。
「巷で騒ぎの暗殺者。その殺しのやり方は刀により斬首だけで、その斬り口は首切り処刑人も驚くほどに美麗という。目撃者はいない、もしくは口封じされ、情報が一切出ない。姿の見えない刀から暗闇の刀、暗刀と呼称して、すでに五人は被害者が出ている。だがこれも死体が出て分かっているだけの数。実際は、この十倍は殺されている可能性がある」
姿かたちも分からない剣の達人。そんなものを相手にどう戦えば。与力たちの胸中に不安が押し寄せる。
顔を見合わせる与力たちに、奥野は、しかし、と声を上げる。
「しかし、今回、その暗刀について有力な情報が手に入った」
「有力な情報?」
誰かがつぶやいた言葉に、奥野は頷く。
「昨夜、酒に酔って暴れた博徒を捕まえた。その博徒が刑を軽くすることを条件に、ある暗殺計画について話した。そして、その暗殺に暗刀が関与するという情報があった」
「それはまことですか」
与力の一人が前のめりになる。
「では、その情報をもとに警備配置を決める、ということですか」
うむ、と頷く奥野。では、と奥野が作戦を伝えようとした時、勝頼が手を挙げた。
「どうした永斐」
「一つ、進言したいことが」
「それは話の腰を折ってまでする事か」
勝頼は頷く。奥野は眉間にしわを寄せ、申せ、という。
「実は某、暗刀の正体を知っております」
「……なっ……」
皆の視線が勝頼に集まる。次の瞬間、ドンと音をたて、奥野が立ち上がった。
「何故それを言わぬか!」
勝頼は、すみませぬ、と平伏する。
「事情があり、今までお伝えすることができませんでした」
「事情? どんな事情があって公議に逆らう真似を――」
「――命をっ! 与力や同心の命を、無駄に散らさぬためでございます」
奥野はぎりぎりと奥歯を噛みしめる。怒りに顔が真っ赤だった。
「……詳しく話せ。事と次第にとっては切腹を申しつける」
それは奥野の恩情であり、最後通告。それを汲み取り、勝頼は再び平伏する。
「ありがとうございます」
勝頼は顔をあげると、話を始めた。
「私が聞き及んだ暗刀の特徴は、黒い着物を着た癖毛の男、歳は二十もいかず、錆びついた刀を振るう。そして、刀を振るう暗刀の目は夜でも光ると」
勝頼の情報は、暗闇を照らすには十分すぎるほどのものだった。性別、歳、髪の特徴や着物の色など、敵を探るにはどれも重要な情報。
だが、それゆえに勝頼がその情報を今まで隠していたことに、誰もが疑問を感じていた。
奥野は書記を呼び寄せ、その特徴を書き残す。
「ずいぶん詳細な。しかし、その口ぶりからして、情報提供者がいるのか。誰だ」
「弟の有為です。実際に三度、暗刀と斬り合ったと申しておりました」
「有為が……」
勝頼がその名を出すと、奥野の顔から血の気が引いていく。奥野の中にすでに怒りはなく、かわりに浮き上がったのは絶望の感情だった。
「あの有為が三度遭遇して、斬り伏せることができなかったのか」
弟有為の剣の腕は、すでに北南の両奉行所で話題になっていた。酒井が江戸で指折りの剣の達人なら、有為は江戸で屈指の達人と。
冷や汗をかき座る奥野に、勝頼は頷き、口を開く。
「我が弟ですら手こずる相手。敵は人外の類と見てもいいでしょう。それを相手にどうして他の者が相手になりましょう」
「だ、だが、相手も人間。寝こみや武器を持っていない時を見計らい大勢で襲いかかれば」
「それほどの達人が寝こみの気配を察知できぬとでも。それに、有為が斬り合った三度のうち、一度は剣を奪ったのですが、それでも捉えること敵わず」
勝頼の言葉に奥野の目が揺らぐ。それほどまでの相手なのか、と。
「しかし、勝率がないわけではありません。現に、有為は暗刀相手に無傷で生還しております。今回の捕り物では必ず敵の首級を持ち帰る所存。そのために、一つ策を進言したいのですが」
「申してみよ」
勝頼は唾を呑みこみ、乾いた喉を潤す。
「有為と暗刀を一対一の状況に持ち込みます。その状況を作り出すために、与力や同心の皆々には、暗刀との戦闘を避け、某に居場所を伝えて頂きたい」
「伝えると言っても、敵が刀を抜けばこちらも抜かざるを得ない。斬り合いになれば居場所を伝えることも不可能になるぞ」
「はい。なので、皆様には一つ守っていただきたい、決まりがあります」
なんだそれは、という奥野に勝頼は静かに言った。
「暗刀と遭遇しても、絶対に抜刀しないでください」
作戦会議が終わり、勝頼は奉行所本館から出る。門の方へ視線を向けると、有為の姿はない。
まだ武道館にいるのか。勝頼は武道館のある方へ歩いていく。
武道館の入口に着く。武道館は静寂に包まれていた。いつもは声出しや竹刀のぶつかる音で騒がしいのだが、外からはその様子はうかがい知れない。
「まさか……」
勝頼はある思いが浮かび、急ぎ武道館の扉を開けた。
「あっ、兄上。おかえりなさい」
武道館の中心、武具をつけずに竹刀を肩に担いだ有為が勝頼を見て、微笑む。
勝頼は周囲の光景に、目を丸くした。
「お前……これは」
「ああ、少し稽古をつけていたんですよ。皆、そうだよね」
呼びかけるが反応はない。武道館の周囲には大の字で寝ころぶ男たちの姿があった。皆、呼吸を荒く、天井を仰いでいた。それは同心50人余りの半死半生の姿だった。
有為は反応のない周囲を見遣り、あれ、と首を傾げる。
「皆、どうしたのさ。さっきまであんなに元気だったのに」
「お前、何をした」
「え、ただの乱打稽古ですよ。僕が受けるから、皆で一斉に斬りかかり、一本取る練習です」
「それで、成果はあったか」
「髪に掠るのが一度だけ。皆、腕をあげましたね」
満面の笑みを浮かべる有為に、周囲から重なったため息が聞こえてくる。50人で斬りかかり、髪に掠るのがたったの一度だけ。その一度の成果のために、50人が立ち上がれない程の一撃を受けた。そして、当の本人は汗一つかかず、呼吸も乱れていないという。
我が弟ながら、恐ろしい剣の才。常人にはたどり着けぬ境地に、しかも若干17で到達した。
まさに人外。だが、この弟をもってしても捕らえられない暗刀とは、どれほどのものか。やはり同じ人外であろう。
「帰るぞ」
勝頼が言うと、有為は竹刀を置き場に戻し、ぴょこぴょこと武道館を出ていく。
「掃除は任せたよ」
有為の言葉に、倒れ伏す男達は力なく手を挙げる。それは屍となった者の意地でもあった。
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