第3話 半か丁か

 吉原を出ると、空はもう夕闇に染まりつつあった。

 無蔵が、くさくさとした、ほじくろうにも中身のないもどかしさを感じるのは、一度や二度ではなかった。

 無蔵は他人のことが理解できない。理解しようと思ったこともあまりないが、どこか最初から理解できないものと割り切っていた。

 でも、このくさくさとしたもどかしさは、無蔵をやけに苛立たせる。

「むう……ああああああああ!」

 頭をかいても、叫んでも、気持ちは消えない。

「……なんだいありゃ」

「ありゃ、例の浮浪児の――」

 こそこそと声が聞こえてくる。無蔵は、しゅんと小さくなる。恥ずかしいのである。

 逃げ場所が欲しかった。このもどかしさと恥ずかしさを、忘れるために。

「おう、無蔵」

 こんな時、話しかけるのはいつも丁次郎だった。丁次郎は無蔵の肩に肘を置き、笑みを浮かべる。

「どうした、辛気臭え顔して」

「丁次郎、わちゃあ……」

 言葉が出ない。この気持ちを表す言葉を、無蔵は知らない。

 黙りこくった無蔵に、丁次郎は、へっ、と鼻をならす。

「てめえはバカなんだから、難しいこと考えんな」

「でもよぉ」

「そういう時に何をするか、前に教えてやったろ」

 丁次郎は無蔵の肩に手を回すと、くるりと方向転換する。暗い路地へと入っていった。


「くわっつはっはっはっは」

 無蔵の笑い声が狭い軒下に響き渡る。

 半丁場に座り、おちょこの酒を煽る無蔵の前には、山のような木札が置かれていた。

「丁次郎、どうえ、わちゃあ博打の天才じゃ」

「見りゃわかるよ」

 後ろに立つ丁次郎は無蔵の頭をなでつつ、空になったおちょこに酒を注ぐ。

「俺の言った通りだろ。酒飲んで博打にふければ、たいていの悩みは吹き飛ぶんだ」

「己の言う通りじゃ! さすがじゃ、丁次郎」

 半裸にサラシを巻いた仕切りの男が、手に持った二個のさいころと円柱の筒を空へ掲げる。

「次の勝負と行きましょう」

 仕切りの男は、二個のさいころを筒にいれ、かんと畳の上にかぶせるように押しつける。

「さあさあ、丁か半か、ハッタハッタ!」

 無蔵の横に座る男たちが前のめりになる。

「丁」「丁」「丁」「丁」

 男たちは自分の木札を銭がわりに畳の上に投げうつ。

「半方無いか! 半方無いか!」

 仕切りの男が声をあげる。 

「おめさんはどうする、無蔵」

 丁次郎は無蔵の背中に肘を乗せて言う。無蔵は、持っていたおちょこの酒をくいっと煽ると、持っていた木札を地面に叩きつける。

「半じゃ!」

 にぃ、と笑い無蔵は得意げに顎を撫でる。仕切りの男は、左右に視線を流し、頷く。

「出揃いました――勝負!」

 仕切りの男は、ゆっくりと筒をあげる。

「一四の半!」

「しゃあっ!!!」

 無蔵は立ち上がり、握った拳をあげる。周囲は、ちくしょうと木札を投げ捨てる者、黙って無蔵を睨みつける者と剣呑な空気を放つ。だが、無蔵にはそんなもの関係ない。

「どうじゃ丁次郎、みたかえ!」

「みてたよ、すげえなおい」

「だろう、だろうっ!」

「これじゃ、今日のうちに借金返済できるんじゃねえか。今、いくらだ?」

「ひい、ふう、みい……ようわからんのう。丁次郎、数えてくりゃれ」

 まったくてめえは、と丁次郎は前のめりに無蔵の木札を数える。

「……ええと、ひいふう、大体金五両分は勝っているな」

「おお、そがに勝っちょるか!」

「上々――って言いたいとこだが、借金返済にはこの十倍は必要だな」

「じゅ、十倍……ってどんくらいえ?」

「おいおい。まあ、簡単に言えば、そこの木札がてめえの背を超えるくらいだな」

「うへぇ。そりゃ、難儀じゃのう」

 頭をポリポリと掻く無蔵。まるで他人事のよう。酒を飲んではツケにして、寝ては忘れるをくりかえす無蔵に、借金をしている感覚はない。

「ったくてめえはよ。俺が肩代わりしてなかったら、今頃町中の人間に袋叩きにされてるぜ」

「そうなんかえ」

「……はあ。てめえのその能天気さが羨ましいよ。それより――」

 丁次郎は無蔵の横に座る。

「――ここで一発逆転の賭けに出ねえか」

「賭け? 賭けならいまやってるえ」

「ちげえよ。全額返済の大勝負やってみねえかって言ってんだ」

 無蔵は首を傾げる。何にも理解しない無蔵に、丁次郎は、だからぁ、と話をつづける。

「今日のお前は運がいい。ツキが乗ってる。それに、ここは俺が仕切ってる店だ。掛け金や倍率を変えるのも、ちょちょいのちょいだ」

 だよな、と言われ、仕切りの男はすぐに頷く。

「ってわけだ。てめえの今の全額を賭けて勝負すれば、借金全額返済できる。どうだ、おめさんにとっては願ってもねえ話だぜ」

ほうけ、と無蔵はおちょこに口をつけ、ちびちび飲む。

 丁次郎は、小さく舌打ちをして目を閉じる。どう言えば無蔵が乗ってくるか、思考を巡らせる。

 しかし、丁次郎が答えを出す前に、無蔵がおちょこから口を離す。

「まあ、ええよ」

 無蔵はそう短く言うと、再びおちょこに口をつけ、酒をちびちび飲み始める。

 事態を理解しているのか。丁次郎は訝しい目を向けるが、無蔵の言うことに意味なんてないと一蹴する。こいつはただの馬鹿だ、と。

「よし、決まりだ。なら、勝負は俺とお前の一騎打ち。俺が仕切りでお前が半か丁か勝負する。てめえが勝ったら借金は全額帳消し。俺が勝ったら……そうだな、一つ、俺の頼みを聞くってのはどうだい」

「なんでもええよぉ。はよう、サイコロ振りいや」

 丁次郎の片眉がピクリと跳ねる。

「ずいぶんと余裕じゃねえか」

「そうみえるかえ」

 赤ら顔の無蔵は、口端を緩ませる。どこからくる余裕なのか、丁次郎は泥を掴むような得体のしれない違和感を無蔵に覚えた。

 どけよ、と仕切りの男をどけ、丁次郎は無蔵の前に座る。額に滲んだ汗を裾で拭い、さいころと筒を掴む。筒にさいころを入れ、カラカラと混ぜるようにさいころを転がす。

「勝負といこうじゃねえか、無蔵」

 からり、とさいころの音が止まる。そして、丁次郎は畳の上に筒を置いた。

「半か丁か!」

「己はどっちと思うかえ」

 無蔵は上目づかいに聞いてくる。酔っ払いの絡みのようにも思えるが、無蔵の先ほどの言動と態度が丁次郎に思考を鈍らせる。

「丁……いや、半。半だぜ」

「なら、わちゃあも半じゃ」

 こいつ、何を考えている。本当にただの馬鹿なのか。それとも。

「どうした? はよう開けんか、丁次郎」

 丁次郎の顎から汗が畳に落ちる。紺色のシミ。その横にさいころの入った筒。

 周囲で見守る男たちも、手に汗握る。半か、それとも丁か。

 丁次郎はそっと筒を開けた。

「11……ピンゾロの丁だ」

 はああ、と周囲の男どもが息を吐く。丁次郎も中身を知っていたのに、自然と息が漏れた。

 もちろんこれはイカサマ。半でも丁でも、丁次郎は無蔵と反対の目を出せた。

「負けちまったな、無蔵」

 にやりと無蔵を見遣る丁次郎。無蔵にどんな意図があったとしても、負けは負け。無蔵の借金はそのまま。

「……丁次郎」

 無蔵はおもむろに片手をあげる。う、と丁次郎は立ち上がる。こいつはバカだが剣に関しては手練れ。ここで暴れたりされたら、こちらも無傷とはいかない。

 丁次郎は周囲に目配せをする。どこかで刀を掴む音が聞こえた。

「……おかしかあ」

 無蔵は小さく呟く。イカサマのことを指しているのか。丁次郎の背筋に汗が伝う。

「まっこと、おかしかあ!」

 周囲の剣呑とした空気とは裏腹に、無蔵はあげた手を振り下ろし、膝を叩いた。

「おかしかあ、おかしかあ、くわっはっはっはっはっはっは!」

「何がおかしいっ!」

 あまりに拍子抜け。裏の裏まで読んでいた丁次郎としては、無蔵の能天気な笑い声が癇に障った。手下に刀まで用意させたこちらがバカのよう。

 無蔵はそんな丁次郎に対して、酒瓶に直接口をつけて、ごくごくと飲み干す。

 空になった酒瓶を抱き、無蔵は笑う。

「丁次郎でも間違うことがあるんじゃのうってな。己はツキがないのう。わちゃあのツキを分けてあげたいくらいえ」

 そう言って、くわははと笑う無蔵。

 こいつ、やっぱりただの馬鹿だ。自分が騙されていると気付きすらしない。

「へ、へへ、俺に乗ったのが運の尽きってな」

「くわはは、まっことのう。それで、負けたわちゃあはなにをすればええ」

 それは、と丁次郎は話を始める。話を終えると、丁次郎はどこからか無蔵の捨てた刀を持ってきて、無蔵の前に置いた。

「頼まれてくれるか」

 無蔵は抱きしめていた酒瓶を横に置くと、置かれた刀を手に取った。

 その顔に酔いはない。獣の目がきらりと光った。

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