第2話 白菊
「なんでかえ!」
漆の黒と紅色の格子が映える建物の前で、無蔵は地団太を踏んだ。
「わちゃあ、姉ちゃんに会いに来ただけじゃけ」
きぃ、と子供のように首を振る無蔵に、腰の折れ曲がった老婆はふんとそっぽを向く。
「だから言っとるだろ。お前のような怪しげな男、店に入れるわけにはいかん」
老婆は口に咥えた煙草を深く吸うと、煙を無蔵の顔に噴きかけた。
「く、くせえ!」
「ほれ、さっさと帰りな。お前のような男、店先にいるだけでも商売あがったりだ」
「なんでかえ。わちゃあの何が気に喰わんのじゃ」
「……あんた、今の自分の恰好、見てみぃよ」
あん、と無蔵は自分の恰好を見る。ふんどし一丁にうっすらと濡れた髪に、走ってきたからか汗がうっすらとにじんで、臭い。
「何かおかしいかの」
「その恰好で、誰を指名するって?」
「白菊じゃ。白菊大夫」
「大夫がお前のような奴を相手にするもんかい。ほら、分かったら帰れ!」
ほれほれと老婆は腰に差していた扇を手に取り、無蔵の尻を叩く。
「痛てぇ、痛てぇよ、お婆。やめちくれ」
子供のように老婆から逃げ回る無蔵。老婆はふんふんと執拗に追い回す。
「なんでじゃ、お婆。この前は入れてくれたがじゃ。わちゃあの顔、忘れたんかえ」
「そんな気持ち悪い喋り方する奴、忘れるわけなかろうが。こちとら、吉原に売られてから五十年、客の顔を忘れたことなど一度もないわ」
帰れ帰れ、ととりつく暇もない老婆。店先の騒ぎは、昼間の道中を歩く人々の足を止め、いつの間にか人だかりができていた。
「それにお前のような奴、大夫を買う銭だって持ってないだろう」
「銭ならある。ほれ、銀四枚」
「馬鹿もんが。大夫はそんな安かないわ。金貨もってこんかい」
話にならんと老婆はさらに追いかけまわす。埒が明かない。周囲の見物人も訝し気に見つめ、奉行所へ連絡したほうが、と話し始める。
「何の騒ぎかえ」
りん、と鈴の音が鳴る。周囲の人間の顔があがる。
紫の暖簾の奥に、白紅の着物を重ねた女の足が見えた。細く、それでいて傷一つない白い足。
集まった男達の中で、唾を呑む音が幾重にも重なる。その尊顔を一目見ようと、皆、頭をもたげる。
「これ、見世物じゃないよ。顔がみたけりゃ、金を払いな」
老婆の声に、男たちの背筋が伸びる。先頭に立つ老婆に、男たちは我先にと並び始める。
老婆はちらと無蔵を見て、にやりと唇を舐める。
「なんじゃあ、こりゃあ――って、お」
状況が呑み込めない無蔵の手を、暖簾の隙間から引く手。掴んだ手が強くて、無蔵の眉間にしわが寄る。
「い、痛いえ、白菊姉ちゃん」
「うるさい」
温度のない白菊の言葉に、無蔵は頭をかき、引かれるまま白菊の後をついていく。
鏡面のように磨かれた檜の板が、きしきしと音を立てる。階段を上り、突き当りの襖の前で、白菊の足が止まる。
「姉ちゃん?」
白菊は片手で襖を開ける。そこには四畳半の部屋があった。豪華絢爛といったふうでなく、鏡や化粧箱に文机といった必要最低限の物が置かれた部屋だった。その中央には、丸いちゃぶ台があった。
白菊は部屋に無蔵を入れると、パンと扉を閉めた。
「あんた、今までどこ行ってたのよっ!」
白菊の顔には、白粉の上からでもわかるほど眉間に皺が刻まれていた。小さい桜色の紅はぎゅっと結ばれ、首筋には血管が浮き出ている。
「か、堪忍やえ、姉ちゃ―――んんんっ!!」
顔の前で振る無蔵の手を、白菊はつかみ、捻るように回し、無蔵のふんどしの裾に手を回す。
「どりゃああああああああ!!」
背負い投げ。一本。ドスンと畳の上に倒れる無蔵。やめれ、やめれ、と逃げようとする無蔵に、白菊は馬乗りになる。
「あんたは、一か月も顔出さないでほっつき歩いて。わたしがどれだけ心配したか、わかる? 分からないわよね。分かってたら、そんなバカみたいな恰好で会いに来るわけないもの」
「か、堪忍やえ……。わ、わちゃあにも、事情が――」
「問答無用じゃ!」
白菊はおもむろに、髪に刺さった銀の簪の先を無蔵の眼前につきだした。
「言っても分からんなら、体に教えちゃる」
「な、なにする気じゃ」
「目ん玉ほじくりまわす」
ぎゃあああああああああああああああああ、と無蔵は白菊を押しのけ飛び上がる。
「痛いのは嫌じゃ! 痛いのは嫌じゃ!」
「知っとるわ! だから、やるんじゃろが、こんボケがぁ」
逃げ出そうと襖へ向かう無蔵。ふんどしを掴み、地面に張り倒す白菊。
「堪忍せえ、無蔵。目ん玉一個潰れるだけじゃ」
白菊の簪がきらりと光る。ひええええええ、と泣き叫ぶ無蔵。
「白菊姉様」
襖の奥から声が届く。無蔵と白菊の動きが止まる。
「なにやら騒がしく、お婆が様子を見て来いと――」
襖を開く白菊付きのかむろ。
13になったばかりのかむろは見た。簪片手に髪を振り乱して迫る白菊と、ふんどしを剥ぎ取られ馬乗りにされる無蔵の姿を。
かむろの頬が、ぽっと赤く染まる。
「姉様、大胆……」
「姉様の弟様?」
「弟といっても血が繋がってるわけじゃないの。なんていうか……幼い頃からの弟分みたいな」
白菊が説明するとかむろは、まあ、と口に手を当てる。
「わたしったら、そんなこととはつゆ知らず。申し訳ございません。それであの」
かむろは背に張り付いて離れない男を横目で見る。男はブルブルと震え、かむろの肩越しに白菊を見ていた。白菊は、かむろから視線を外すと、刺すような目で無蔵を睨む。
「子供の背中に隠れて恥ずかしくないの、無蔵」
「ひいぃ!」
無蔵は体を丸め、かむろの背に隠れる。かむろは、どうしていいか分からず曖昧な笑みを浮かべた。
「よほど怖い思いされたのですね」
「まったく……これに懲りたら、今度からはちゃんとこまめに連絡を寄こすことね」
白菊の言葉に、無蔵は小さく頷く。
「聞こえねえぞ」
「は、はい! 善処するえ……」
はあ、とため息を吐く白菊。怒る肩から力が抜けていく。
「まったくあんたは……こっち来なさい」
無蔵はぴょこっとかむろの背から顔を出す。
「痛くせんかえ」
「しないから。ほら、ここに座りなさい」
白菊はちゃぶ台の前に無蔵を座らせると周囲を見渡し、適当な着物を手に取る。
「男物の着物は……黒しかないけど、いいわよね無蔵」
「え、ええよ」
「ええ、じゃないわよ。何ぼーっと座ってんの。着物ぐらい自分で着れないのかえ」
「くふふ、姉ちゃんがやってくれら」
「この子は。あと、その出たらめな言葉使い、止めなさいって言ったでしょ。ほら手を挙げて」
「やめれいうても、これがわちゃあよ」
「子供みたいなこと言って。ほら着つけるから立って」
子供ね、と呟きながら、無蔵は立ち上がる。白菊は無蔵の手足を持って着物を着つける。
「あんたはいつまでたっても世話がかかるね。あ、千枝ちゃん、おひつと適当な具材、持ってきてちょうだい」
はい、とかむろの千枝はぴょこぴょこ飛び跳ねるように、部屋を出ていく。
部屋は無蔵と白菊だけになる。
「それで、一か月どこへ行ってたの」
「むう……ちと野暮用ちゅうか、なんちゅうか」
「あんた、また危ないことやってるんじゃないわよね」
ぎくりと無蔵の肩が揺れる。白菊の目が鋭くなる。
「ひぃ、堪忍え」
「あんたは……はあ、もういいわよ。どうせ言っても聞かないんだろうし」
肩を落とす白菊に、無蔵はほっと胸をなでおろす。
「だけど、一つ約束して」
「なんえ」
白菊は無蔵の手をぎゅっと握る。白い小さな手には、力がこもっていた。
「日向の道を外れても、外道にだけはならないで」
白菊は俯きがちに無蔵を見つめる。無蔵は顎をポリポリと掻く。
「……よく、わからんえ」
そう、と白菊は悲しそうに目を伏せる。無蔵はそんな白菊に何も言えず、もごもごと口を動かすだけだった。
そっと襖が開かれる。おひつと具材を両手いっぱいに抱えた千枝。
「白菊姉様、おひつと具材お持ちしました」
んしょ、と千枝がおひつと具材をちゃぶ台に置くと、白菊はパッと笑みを浮かべる。
「さ、お昼にしましょうか。わたしが特別におにぎり握っちゃうから」
「白菊姉様の手料理! 千枝、楽しみです」
きゃっきゃ、と楽しそうに飛び跳ねる千絵。そんな知恵を横目に、無蔵は白菊の言葉を頭の中で繰り返し思い出す。
白菊が何を言いたいか、無蔵は理解できない。あの言葉にどんな意味があり、どんな思いで口にしたのか。無蔵には知れない。ただただ、もどかしい思いだけが胸に残った。
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