第1話 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。寺の門をくぐると、木魚の柔らかい音と共に、念仏が聞こえてくる。それは、長い階段を上ってきた者を受け入れる、讃美歌のようだった。
男は雨傘を差しながら、空を見上げる。太陽が地上を照らし、それでいて雨がパラパラを降り注ぐ。何とも奇妙な天気だった。
「こんにちは」
寺内の端で佇んでいると、袈裟姿の坊主が手にほうきを持ったまま、人のよさそうな笑みを浮かべ声をかけてきた。
「法事ですか、それとも墓参りですか」
「……いや、某、ここの宗徒ではござらん」
若者は首を傾げる。ならどうして、と言いたげな不思議そうな顔をしていた。しかし、事情を話すわけにもいかない。男と若者は、対面したまま互いに口を結ぶ。
「遅くなりました」
すると、一人の坊主が近づいてくる。黄色と紫の法衣を着た坊主だった。
「住職、こちらの方は」
「お前は知らんでもいい。それより、寺内の掃除はもう終わったのか」
寺内を見渡す住職に、坊主はあわてたように掃除へと戻っていった。
坊主が見えなくなくなると、住職は剃髪した頭に手を置く。
「遅くなり申し訳ございません。説教が少し長引いてしまい」
「かまわん。それより、人払いは」
住職は頬にしわを寄せて頷く。
「案内します。どうぞ、こちらへ」
手で先を促す住職に、男は雨傘を閉じ、寺の中へと向かう。
「最近は門徒が増えて、質疑も多くなってしまいました。これも、光の時代が終わったからでしょうかね」
「光の時代……か」
光の時代。それは庶民の間で言われている、徳川家光様の治世。その家光公が五年前に崩御。まだ11になったばかりの家綱様が世襲で将軍職を継いだ。この五年は家光様の側近、寛永の遺老と呼ばれる者達が政治を支えていたが、それも亡くなったりご隠居されたりと、姿を消している。最近の幕府は庶民から期待されていない。
そんな庶民が家光公の時代を惜しむように、光の時代の話をする。
「まるで今が闇の時代のようではないか」
男の手に力が入る。住職は遠くを見つめている。
「光が強すぎたのです。皆の目がくらみ、地面に落ちる影すら見えなくするほどに」
「そんなもの、どうしようもないではないか。人は過去には戻れん」
「過去を望んでいるわけではないです。望んでいるのは、暗い道を照らす提灯。新たな光が必要なのです」
「新たな光か……ん?」
不意に、男の足が止まる。寺内に設置された手水舎の裏にイチョウの木が植えられている。その裏にボロの着物の端が見えた。男は反射的に腰の刀に手を置いた。
住職は振り返り、視線の先を見て、ああ、と頷く。
「最近は寺内に物乞いも増えています。手水舎の水を確保しようとしているのでしょう」
「注意せんのか」
「できるわけがありません。ここは救いを求める者に手を差し伸べる、唯一の場所ですから」
住職は男を見て微笑む。
「あなたもその一人でしょ」
住職は先を歩いていく。男はそのあとを黙ってついていく。
寺の中へ入り、廊下を歩いていると、門徒の人間たちとすれ違う。白髪の老女、子連れの女、帯刀した武士、つぎはぎだらけのボロを着た農夫など、さまざまの人間が胸に手を当て、広間から出ていく。
広間には黄金の観音像が目を細めている。それは光に照らされ輝いて見えた。
男と住職は広間を通り過ぎる。突き当りを曲がり、石畳の台所を通り過ぎると、地下の階段が現れる。
「足元に気をつけてください」
暗い階段を降り、住職が燭台に火をつける。端の錆びついた鉄の扉が現れる。
住職は振り向く。男はごくりと唾を呑みこみ、頷く。
キィ、と嫌な音を立てながら、扉が開く。
「ああ……」
扉を開けた瞬間、男は膝から崩れおちた。目から滂沱の涙を流し、両手を胸の前に置き、手を組む。
「我が主よ」
洞穴のような場所に、金の十字架と磔にされたイエス像が置かれていた。大小さまざまな蝋燭の火に照らされたイエス像は、観音像と同じく、輝いて見えた。
男はそれからしばらく、手を組んだまま動かなかった。
「先ほどは見苦しい姿を見せた」
男は寺の前に立ち、見送りに来た住職に頭を下げた。住職はにこりと笑う。
「またいらして下さい。我々は救いを求める者に門を開いています」
「かたじけない」
男は赤くなった目をこすり、雨傘を深くかぶる。
「闇の時代は、じきに終わる」
「? どういうことです」
「幕府は今後、鎖国を止め、積極的に外交を行う。外貨を稼ぎ、人の出入りを増やせば、皆の暮らしも今より良くなる。信仰の自由もいずれは――」
「――急いてはことを仕損じる」
住職の言葉に、男は顔を上げる。
「ゆっくりでいいのです。世の中は今日明日には変わりません。ゆっくりと、雲の流れのように変えていきましょう」
「そんな悠長な事」
「出る杭は打たれるというように、人は変化を恐れる。恐れた人間がすることは、時に非情にもなりましょう」
住職が何を言いたいのか。男は理解した。けど、感情が、抑圧された胸の内がそれを受け入れることを拒んでいた。
「失礼する」
男は背を向け、門へと向かって歩き出す。住職はその背に何も語ることはなかった。
天気雨は上がり、道の上には水たまりができていた。
男は門へ向かいながら、なんとなくイチョウの木へ視線を移す。あの物乞いが気になった。
物乞いの姿はなかった。水を飲んで、どこかへ行ったのだろうか。
「ふわぁ……」
寺の門を抜けると、横から間の抜けた欠伸が聞こえてきた。
男はぎょっと身をのけぞらせる。
「よう寝ちゃ。けど、なんぞ服ば濡れておるのか。おかしかぁのう」
男の言葉は土佐弁のようであり、薩摩弁のようでも遊女の話す廓言葉のようにも聞こえた。
男は黒い上下のぼろを着て、腰には漆の刀を差している。あの物乞いか、と見当がつく。
「おぬし、なにやつ」
男は鯉口に指をかける。物乞いの男はそれに怯える様子もなく、大きく伸びをする。
「名前なんぞねえ。興味もねえ」
物乞いの男は退屈そうに言うと、腰から刀を抜き、前へ差し出す。
「知りてぇなら、己の刀で聞けばええ」
男はとっさに刀を抜く。この男、ただの物乞いじゃない。
「どこの刺客か」
「だーかーら、んなもん知らんちゆうちょるがじゃ」
物乞いは刀を鞘から抜くと、鞘を投げ捨てる。鞘はカラカラと門下の階段へ転がっていく。
「わちゃ、ただの斬るためだけにここにいる。理由もなんも、ありゃせん」
金で雇われただけか。だとしたら、この者に聞いても上は探れない。
しかし、雇い主を探るにしてもこの物乞いの素性を知らなければならない。
「某は幕府若目付、酒井信忠。お主も武士なら名前を――」
ざっ、と風が吹く。雨傘が空を舞い、ぽそりと地面に落ちた。雨傘には鋭い斬りこみがついていた。
物乞いの男の刀が目先にあった。剣筋が見えなかった。
「言うちわからんば、あの世でしゃべらんせ」
問答無用。この男に言葉は通じない。
ならば、こちらも斬るしかない。
幕府では剣術は必須。かの柳生師範から手ほどきを受け、柳生新陰流免許目録も得た。そこらの野武士に後れをとるわけはずもない。
「……ふぅ」
息を吐く。じりじりと相手との間合いを詰めていく。
物乞いは刀を肩に置いたまま。頭も銅も隙だらけ、はずなのに。
「まだ来んのかえ」
なぜ、これほどまでに足が前へ出ないのか。物乞いの間合い、すれすれで足が止まり、一歩が踏み出せない。吐く息は浅く、汗が止まらない。どうして。
「己、もしかして……」
言いながら、物乞いは一歩前に出た。反射的に、体が前へ出る。
「あ、あ、ああああああああああああああああああああああああああ!!!」
無我夢中。男は思わず斬りかかった。そして――。
無蔵は、階下に転がっていく男の首をつまらなそうに見つめた。
見知らぬ男の首。男の事情は知らない。何をして、男がこうなったのか、その経緯にも無蔵は興味がない。
首溢れる血は、無蔵の着物を汚す。返り血で真っ赤に染まった無蔵は、口元を拭う。
「くさい」
血の匂いに、うんざりと肩を落とす。
「う、うあああああああああああああああああ!!」
門の奥、寺内でほうきを持った坊主が尻餅をついていた。口元を手で覆い、わなわなと震えている。
「そ、そんな、この人殺し……」
無蔵は、きょとんと目を丸くしたあと、あははと笑う。
「おかしかあ、おかしかあ」
「あんた、何が面白いんだ……」
「くふ、だってよぉ、お前の猿芝居はいつみてもおかしかあ、丁次郎」
丁次郎と呼ばれた坊主は、隠していた口もとを開く――笑っていた。
「へへ、おめえさんだって、ずいぶんな役者じゃねえか、無蔵」
丁次郎はひょいと立ちあがると、ほうきを投げ捨て、無蔵の首手を回す。
「あの世でしゃべらんせ……ありゃ、前もって考えてたのか」
「くふふ、照れんでやめれよぉ~」
「ったく、俺よりも役者の才能あるぜ。それより、これ」
丁次郎は裾の下をまさぐる。出したの銀貨20枚。
「今回の依頼主は懐が厚くてな。いつもより多めにやる。好きに使えよ」
「……んううううううううう、ひゃっほー!!」
無蔵は銀貨を丁次郎から貰うと、刀を捨てて飛び上がる。それはもう狂喜乱舞。
「これでこのボロ着ともオサラバじゃ」
無蔵は刀をそのままにその場で血だらけの服を脱ぎ、ふんどし一丁で階段を駆けおりていく。
「どこ行くんだ」
「姉ちゃんのとこじゃ」
「おいおい、そのまま行く気か? 顔の血ぐらい落としていけよ」
おおそうだ、と無蔵は一気に階段を駆け昇ると門をくぐり、手水舎に頭を突っ込む。顔をあげるとブンブンと首を振り、目下まで伸びた髪から水分を抜く。
「なあ、無蔵」
「なんかえ」
「最後にお前、あの侍に何か言おうとしてなかったか」
「ん、ああ、そうじゃ。死ぬのが怖いのかえ、ってな」
無蔵はつまらなそうに前髪をかく。
「なら、刀なんて持つなっちゅうてな」
「コレ、おまえらっ! 何をしている」
他の坊主から騒ぎを聞きつけた住職が慌てて飛んでくる。
しかし、無蔵はそれを気にすることなく、水面に映った自分を見つめ、にっと笑う。
「ちゃあ、これでええのう。じゃあ、後は任せたえ、丁次郎」
ちょっと、と引き止めようとする丁次郎に、無蔵は視線を向けることなく階段を駆けおりる。
「服はともかく。刀は武士の魂じゃねえのかよ。こんなとこにほっといていいのかよ。こちとら死体の処理やら後始末で忙しいってのに」
ひぃ、と充足の小さな悲鳴が彦助の耳に入る。
「酒井様……丁次郎、お前、これはどういう」
狼狽する住職に、丁次郎は思い出したかのように視線を向ける。
「ええ、それは……って今さら演技するのも馬鹿みてぇだ。野郎共」
ざっ、と草むらから無数の足音が鳴り響く。
現れたのは、無数の無頼漢たち。着崩した着物に、皆が刀を台頭している。
「まさか……お前ら、宍戸一家か」
「正解。俺は宍戸丁次郎。博打から殺人まで、悪いことなら何でもござれの、あの宍戸だ」
「どうして、宍戸一家が酒井様を。幕府に恨みでもあるのか」
「恨みなんてねえ、酒井の旦那を殺したい奴が俺達に金を払った。それだけ。ただの商いさ」
そんな、と尻餅をつく住職に無頼漢たちはへらへらと顔を見合わせる。
「そんな理由で人を」
「そういえば、あんたの依頼もあったような? ただの寺衆が禁教である伴天連を匿っているとか、そんな理由で」
「ひっ、私は」
丁次郎は住職の前で屈むと、口端を歪ませ、無頼漢の一人から刀を受けとる。
「念仏唱えろよ、坊主。今日がその日だぜ」
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