第6話 目が覚めたエステル

「えっ? 旦那様はこの子が可愛いと思えないのですか? こんなにも愛らしいではありませんか?」


「いや、どう見ても猿だな。見られたもんじゃない。まあ、男の子だから良かったよな? これが女の子なら嫁のもらい手がいないだろう」


 旦那様の言葉に、部屋の空気が凍りついた。ジェーンをはじめ、使用人たちの顔がさっと怒気に染まる。皆、私を傷つけるようなその言葉に対して明らかに憤りを感じていた。


「まあ、まあ、落ち着いてちょうだい」

 私はそんな使用人たちを手振りで制し、にっこりと微笑んでみせた。


 ――きっと、旦那様はまだ父親の自覚がないだけなのだわ。この子が成長すればその魅力に気づき、大切に思うようになるはず。だって、私たちの愛の結晶なのだから。


 私はそう信じたかった。どんなに心ない言葉を言われようと、旦那様は変わってくれるだろうと期待を込めていたのだ。新しく乳母を雇ったけれど、私はセドリックのお世話をジェーンと一緒に楽しみながら率先して行っていた。



 

 この国では女性に爵位の継承権はない。男子の後継者がいない貴族は、娘婿を迎えて家を存続させる。そして男子の孫が生まれれば、その孫が正式な爵位継承者として認められる仕組みだ。


 例えば、マグレガー公爵家の場合、私は女性だから爵位を継ぐことはできない。けれど、私の血を引く息子、セドリックが次期マグレガー公爵となる。そして彼が成人するまでは、父が現役を続けるか、あるいは私か旦那様が「マグレガー公爵代理」として父の職務を代行することになる。


 結局、旦那様が父の仕事を引き継ぎ、「公爵代理」に就くことが決まった。文官だった旦那様は辞職し、公爵家の仕事を学ぶため父から教えを受ける立場となった。そんな中、私がマナーハウスへの引っ越しを提案したものの、旦那様は「しばらくは王都にいたい」と言い出した。そのため、旦那様はわざわざ片道一時間かけてマナーハウスに通っている。


 最近の旦那様の態度は、なぜかやや尊大になりつつある。屋敷での食事を共にするようになったが、セドリックには目もくれず、食事中も私たち母子に関心を示さない。それでも私は気にしないことにした。今は旦那様より、日に日に可愛らしくなっていくセドリックに目が離せない。

 

 出産後、私の体型は元通りになり、髪や肌もむしろ出産前より艶やかになった。ジェーンが産後のケアに力を入れてくれたおかげだ。そんなある日、マナーハウスから帰ってきた旦那様が、強引に私を抱き寄せた。


「すっかり元の体型に戻ったね。偉いよ、僕のために努力したんだろう? ご褒美に久しぶりに抱いてあげるよ。ほら、おいで」


 その言葉に、私は思わず返した。


「セドリックのお世話で忙しいから、ご褒美は遠慮しますわ」


 自分でも驚くほどすんなりと言葉が出た。以前は旦那様との行為を決して断ってはいけないと思い込んでいたのに、今ではあの行為がとても苦痛に思えたし、セドリックのお世話を当然優先するべきだと感じていた。

 

「夫を放っておくなんて酷い妻だな! 夫の欲求を満たすのが妻の務めだろうが!」


 旦那様は唾を飛ばしながら私を責めた。その姿はとてもみっともなくて、少しだけ呆れてしまう。でも、まだ私は旦那様を愛していたから、なんとか旦那様の機嫌をとろうと謝った。


 「ごめんなさい。セドリックを生んだばかりで、まだそんな気になれないのよ。もう少し時間をくださいな。今はセドリックのことで頭がいっぱいですもの」


 旦那様はサロンの絨毯の上でハイハイをしているセドリックに歩み寄ると、その目線に合わせるようにしゃがみこんだ。父親としての愛情がついに目覚めたのかもしれない――そう思った私は、期待に胸を膨らませながらその様子を見守っていた。


 セドリックも嬉しそうに手を伸ばし、旦那様に触れようとする。しかし次の瞬間、旦那様はその小さな体を無造作に後ろへ押し倒した。


 「こんな奴が生まれたせいで、僕はエステルに後回しにされるんだ。お前なんか、生まれてこなければよかったのに!」


 その言葉は冷たい刃のように私の胸を抉った。後ろへ突き飛ばされたセドリックは、驚きと痛みで泣き叫ぶ。私は慌ててセドリックを抱き上げ、その小さな頭をそっと撫でた。


 「可哀想に……」

 

 息子の頭には、小さなコブができていた。ちょうど絨毯のない硬い床にぶつかったようだ。その瞬間、私の中にあった旦那様への信頼も愛情も音を立てて崩れ落ちた。心に残っていた旦那様への情はすべて、怒りと失望に塗り替えられていく。


 「なんてことを……なんてことをするのよっ!」

 

 声が震えた。ついに、私の怒りは爆発し、思わず大声で叫んでいた。


 「この男を捕らえて! この暴力男を、今すぐ!」


 私の命令が響いたサロンの中で、旦那様は驚いたように目を見開いたのだった。


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