第3話 懐妊したエステル

「ご、ごめんなさい。ちょっと気持ちが悪くて……」

「食事中に吐くなんて、こっちの食欲が失せるじゃないか。朝っぱらから、化粧もしないでだらしないぞ」

 結婚してから数ヶ月後のある日の朝、食事中に吐き気を催し洗面所に駆け込んだ私に、旦那様は不機嫌な顔を向けた。朝から気分がすぐれなくて、おしろいの香料にも気持ちが悪くなったから、今日はお化粧をしていない。

 

「公爵令嬢のくせに身だしなみも整えられないのか? いくら大好きな僕と結婚できたからって安心しすぎなんだよ。君はいつだって、身綺麗にしていなければならない義務があるんだよ? 僕の愛を失わないためにもな」


 「は? エステルお嬢様は体調が優れないのですよ? こんな時は、労りの言葉をおかけするべきでしょう」


 ジェーンが殺気だちながら旦那様に意見した。私は静かに首を横に振る。

 「ジェーン、良いのよ。旦那様の言うとおりなんだから。旦那様、申し訳ありませんでした」


 



 旦那様がお帰りになるのは夕刻の六時。今朝のように怒られないために、帰宅時刻に合わせてお化粧を始めた。けれど……


 「やっぱり、このおしろいの香りがダメだわ。おかしいわね、昨日まではなんでもなかったのに」

 

 今日も旦那様はきっかり六時にお帰りになり、いつものように私を抱こうとした。でも、旦那様の男性用コロンの香りに、私は深く嘔吐いてしまう。


 ――すごく、くさいわ。旦那様の男性用コロンってこんなにくさかったかしら? だめ、吐きそう……

 

 「ご、ごめんなさい。私、今日は無理……ジェーン、お医者様を呼んでちょうだい。これは、なにかの病気だわ。だって、朝から香りに敏感になって……なぜかムカムカするのよ」

 「……それって……まさか、お嬢様! 急いでお医者様と大旦那様と大奥様にご連絡いたしますね」

 なぜかジェーンがニコニコと顔をほころばせた。



 私の両親はここから馬車で一時間ほど離れたマナーハウスに住んでいる。マグレガー公爵領は王都の隣なのだ。一方、私たち夫婦は旦那様が王城に通いやすいようにという配慮と、新婚時代は二人だけで過ごすべきだという父の心遣いで、王都にあるタウンハウスに住まわせてもらっていた。タウンハウスから王城までは馬車でわずか10分と、とても便利な立地だった。


 すぐにお医者様が呼ばれ、私の身体を診察する。

「こ、これは……おめでとうございます。ご懐妊でいらっしゃいます!」

「え? 懐妊? 僕たちに子供ができるのか……」


 旦那様は実感が湧かないのか、嬉しそうな顔よりも戸惑ったような表情を浮かべている。


「まぁ、なんて素敵な知らせでしょう! 旦那様、私たちの愛の結晶がお腹にいるのですわ。大切に育てていきましょうね。旦那様によく似た男の子が生まれたら、どんなに嬉しいことでしょう」


「あぁ、そうだな。僕の水色の髪と瞳はこの世で最高に美しいからな。それに比べて、君の茶色の髪と瞳なんて平凡でありきたりで、退屈そのものだよ」


 確かに、私の髪も瞳もこの国ではごくありふれた色だ。だから、旦那様にそう言われても仕方がない。彼の言葉は事実なのだから。もちろん、貶されて嬉しいわけではないけれど、それ以上に愛されている自信があるからこそ、私はにっこりと微笑んだ。


「本当に、旦那様にそっくりな容姿の子供が生まれたら、素晴らしいですわ」


 私はごく自然にそう言葉にしたのだった。ちなみに、まだ私の両親がタウンハウスに着く前の話だ。

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