人嫌いと攻撃性

今も当たり前に人間という生命体が嫌いであることは変わらない。簡単に言えば気持ち悪いからである、この気持ち悪さについて今回は追求していこう。


まずはじめに気持ち悪いと感じる行動をいくつかあげる


・100%嘘の噂を平気で立てておいて「火がないところに煙はたたない」という


・何かトラブルが起きた際に双方の話を聞かずに自分が好きな人間だけを必要以上に擁護する


・絶望的な想像力の欠如


・理想の押し付け


このようなことがあげられる


人間という生き物は脳みそこそ大きく発達したものの、愚かで未熟で醜い生物だ。


なぜかというとここまで大きな脳みそを得ておきながら「己が信じる正義が誰かにとっては悪になってしまう」ということをこれだけ歴史を紡ぎあげ似たようなことを繰り返して一切学ばないからである。 


物語のなかでも「救われなかったもの」がほとんど悪役として描かれている、救われなかったものなりの正義であるのだ。


ヒーローして描かれる者はほとんどが人気者で愛されて、皆から受け入れられて悪と戦う正義のヒーローとして支持されるのだが反対に悪役は、陰湿で利己的で誰にも受け入れてもらえなかった気持ちの悪いものであり彼らが倒すべきものとして描かれることがほとんどだ。そこに違和感をほとんどの人は覚えないだろう、だからこそ悪役は悪役になってしまうのだ。


人の気持ちを考えようなんて反吐が出そうなくらい烏滸がましいことを平気でこの時代まで言える人間が気持ち悪くて仕方がないのだ。結局人は自分が持つものさしでしか測ることはできない、それをみんな同じ一本を持ってきっと◯◯ならば×と考えるのが普通だと考える人が多数派であり変わったものさしを持つ人のことを皆とおなじものさしで、みんなで殴るということが兵器で出来てしまうのだ。そのことを私は「無自覚の加害性」と呼ぶことにした。


この「無自覚の加害性」というのは人間ならきっと誰しも持っているものだと考えている。これのたちの悪い点は呼び名のとおり「無自覚」であることだ。驚くことに案外、人間というのは自分以外の人間への関心が良くも悪くもものすごく強い点だ。これが今後どのように加害性へと繋がるのかというと思い込みで攻撃を始めたりするのだ。人間という生き物はこれだけの脳みそを与えられても目はそこまで良くなく、認識も曖昧なのだ。それでいて白黒つけたがるような矛盾した奇妙な二足歩行の生命体なのだ。


さらに「加害性」を深堀りしていくと言葉での加害と暴力での加害がある。

暴力での加害はまだ分かりやすいが、言葉での加害は目に見える傷がつく訳では無いから非常に厄介なのだ。


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私が人と接するのが苦痛になってしまった原因 @Tougarasinoko

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