第一話 幸福な家庭の話
「ねえねえお婆ちゃん、僕怖いよ」
「ああら、そうちゃん、怖かったかい?ごめんね許しておくれ。古いお話だからねえ。でもそうちゃんのところには来ないから安心して」
矢座スミコは掠れた声で優しく囁いた。
「うん…わかったよ」
孫の聡一は今年で六歳になる。好奇心旺盛な孫は学校で借りてきた本を、祖母であるスミコに読んでもらうのが日課になっていた。
この日聡一は北陸地方に伝わる昔話の本を借りてきて、読んでくれとお願いされたのだ。
ちょっと内容が怖かったかしら…。
「僕も悪い子にしてたら食べられちゃうの?」
「そんな事ないわよ。それに、そうちゃんはいい子でしょ?でもねぇ、昔のお話はね、昔の人たちが生きてきて伝えたかったこと、苦労だったり大切にしないといけないものだったり、沢山ためになることがあるのよ。
今日はちょっとだけ怖いお話だったけどね。だからこそ忘れずに気をつけなきゃって思えるのよ」
「うん、でも僕お婆ちゃんが読んでくれるの大好き。だから怖くない」
聡一はスミコの体にしがみついてきた。
なんて可愛い子。純粋で無垢で全身で愛情を表現してくれる子。文字通り目に入れても痛くない孫。
矢座スミコが息子夫婦と同居することになったのは三年前のことだった。二十年以上前に夫を亡くし、息子が家を出てから一人で暮らしていたスミコは、この先も一人で暮らしていくのだろう、そう思っていた。
しかし、息子の矢座信二が、一人では不安だから、と提案し、妻の春江も同意してくれたのだ。二人は共働きのため、子供の面倒を見てくれる人が近くにいて欲しい、そういう思いもあったのだろう。
息子夫婦の家に転がり込むのは少し気が引けたが、ぜひ来てくれという息子達の熱意にほだされ、住むことに決めたのだった。
スミコはまだ建てて久しいこの家に引っ越すことになった。住んでみると、まるでスミコと暮らすことを前提として建てられたような室内の作りに気がついた。
スミコはまだ六十も半ばを超えたあたりであったが、将来のことを見据え、バリアフリーを意識した作りになっている。なんとも親孝行な息子夫婦だと感動したものだった。
スミコにとって信二は自慢の息子だった。東京の国立大学を出てから、地元新潟で公務員となり、今も日夜地元の為に盛んに働いている。
先輩部下からの人望も厚く、周囲からは優秀だと評価され、出世街道を順調に進んでいるのだ。
妻の春江も気立が良く、優しい出来た女性だった。大学時代に交際を始めた二人は、就職を機に結婚し、息子の地元に二人で住むことに決めたのだ。
春江にとっては慣れない地、それも地方に嫁ぐのは不安や不満を抱えてもおかしくない状況だったはずだ。にも関わらず春江は春江なりにこの地に根を張ろうと一生懸命だった。
一人息子の聡一が生まれる頃には、二人は笑顔の絶えない理想の家庭を構築していた。誰が見ても羨むような家族だっただろう。だからこそスミコもその邪魔をしたくなかったのだ。
一緒に住むようになってからは、スミコもまた息子夫婦のために協力を惜しまなかった。忙しい二人の時間を少しでも確保するため、進んで誠一の面倒を買って出た。とは言っても孫は可愛い訳だからそれもまた幸せな時間であったのだが。
「えっ、やったぁ!お婆ちゃん、それじゃ明日遊園地に連れてってよ!」
「こら誠一、あんまりお婆ちゃんに無茶させるなよ。母さんいつもすまないね」
「本当に。お母さん、いつもありがとうございます。でも本当にいいんですか?」
「ええもちろんよ。あなた達も忙しくってしばらく二人で出掛けてないでしょ。明日は誠一の面倒見ておきますから、二人で何処か買い物でも行ってゆっくりしてらっしゃいな。誠一、明日は遊園地には行けないけどね、動物園にでも行きましょうか」
「いえーい!お婆ちゃん大好き!」
スミコもまた、息子達から大切にされ、孫との時間を過ごし、理想的で幸せな生活を送っていた。
そんなある日のこと。
いつもの様にスミコが誠一の寝かしつけを終えてキッチンに行くと、信二と春江が何やら話し込んでいる姿が見えた。
ガラガラと居間とキッチンの間に跨る格子ガラスの引き戸を開けると、二人はスミコに気づいた途端話を止めた。
「か、母さん、いるならいるって言ってよ、びっくりするじゃないか」
「あ、あらお母さん、もう寝かしつけ終わったんですね」
何か夫婦の相談を邪魔してしまったのだろうか、何処となく気まずい雰囲気が流れる。
「じゃ、じゃあ俺まだ仕事があるから」
そう言うと信二はそそくさとキッチンを出ていった。
よそよそしい態度に、何かあったのかと違和感を感じたものの、スミコは特に深く考えずにその日は眠りについた。
それからというもの。どことなく家族の間にぎこちない雰囲気が漂うようになった。夫婦関係が上手くいってないのだろうかとも思ったが、そうでもないらしい。
そのうち、どうやら信二が問題を抱えているのだと気づいた。口数は減り、体は見る見る間に痩せていった。春江は夫の事を心から心配しているようだった。無理はさせぬようにと気遣い、仕事に家事にと積極的に働いていた。
信二の仕事は、多忙を極め、夜中に携帯を抱えて急いで仕事に出ていき、朝まで帰ってこない事も多くなった。弱っていく夫の姿に心を痛め、いっそのこと休職してはどうか、と春江が提案した矢先のこと。
ある日突然、信二が死んだのだった。
信二は、夜遅くに仕事で呼び出された後、そのまま職場で自ら命を絶った。後になって知ったのだが、どうやら職場で上司から嫌がらせを受けていたようだった。夜中に呼び出されるのも、上司からの無理難題を押し付けられてのことだったそうだ。
遺された家族は嘆き悲しみに暮れた。しかし、スミコには心に引っかかっている事があった。いや、そうならないと願っていたのではあるが。
それは、昔、スミコが母から聞かされた話に関係していた。病床の淵で、死の間際に語ってくれたスミコの家系に纏わる話だ。
それは、古い伝承のようなもので、このご時世になれば取るに足らないものだったのかもしれない。
スミコの母は若くして亡くなった。まだスミコが高校の頃だ。脳に悪性の腫瘍ができ、それは徐々に母を苦しめていった。日に日に弱っていき、段々と口数が減った母。それでもスミコは母のことを懸命に励まし続けた。
いつからか母は何かを悟ったように全てを受け入れるようになっていった。そした、ある秘密を告白したのだった。
『スミコ、ごめんなさいね。あなたにこんな思いをさせて』
『何言ってるのお母さん、大丈夫、すぐに元気になるよ。諦めちゃ駄目』
『そうねぇ、お母さんね、あなたに言ってない事があるの。私がまだ話せるうちに伝えておくわ。よく聞いて頂戴』
そう言うと母は淡々と話し始めた。
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