第23話 廃村の罠 1

 ティーガーフィーベルと呼ばれる、ティーガーでの戦い方を書き記した独創的な教科書にはこのような一節がある。


 曰く、"ティーガー大隊は長期間の作戦行動を終えた際には、戦力回復に2〜3週間が必要である。さもなくば機械的故障での落伍率が急増する。"


 これは、戦車という兵器が持つ欠点というより特性だ。何せティーガーに限らず、戦車というものは何十トンもの重量物を複雑怪奇な機械的機構で振り回し、巨大な大砲の反動と被弾の衝撃を延々と受け止めているのだ。普通の一般社会でのんびり走っている自動車だって、ちゃんと適宜の整備しなければすぐ壊れるというのに、戦車という戦場を駆け回る"自動車"に掛かる負荷ときたら、もはやそんな次元ではないというのは誰の目にも明白だろう。


 故にどんな戦車であっても、1回戦えばその後は1週間は整備や点検に充てたいというのが本音である。普通の戦車より重量級であるティーガーなら尚の事だ。


 だからといって"これだから戦車はダメだ。戦車なんていろいろな負担ばかりで役に立たないじゃないか"と言うのは短絡的だ。


 そんなことでは、"火傷もするし火事も怖くて危ない。そもそも火起こしの時点で準備が大変だし、やっとついたと思えば雨などの水で簡単に消えてしまう。故に火というものは人間の生活においてまるで役に立たない"と主張するのと同じである。


 強味と弱味という特性を正しく理解して、どう使うかが何より大事なのだ。


 しかしながら、急遽与えられた任務や戦局上やむを得ないとはいえ、戦車をちゃんと整備する期間を与えずに無理をさせたらどうなるか。まさに今の412号車がその好例ではなかろうか。


 昼の12時を少し回ったことを懐中時計で確認したクラリッサ・ラインフェルト少尉は、その美しい銀髪を冷たい風になびかせながら小さくため息をつく。


 広大な雪景色。いくつかの起伏や木ががちらほらと見受けられるものの、それ以外は見渡す限りの銀世界が広がっていた。そんな情景が生み出す白い静寂の中に響くのは、部下たちが工具を使ってエンジン周辺をいじり倒している音である。


 クラリッサのティーガー412号車は、一両のトラックを横付けされた状態で絶賛修理中だった。


 当初、中隊長フランツ・ヴァルター大尉が搭乗するⅢ号戦車に率いられ、Ⅲ号戦車4両とティーガー4両、無線機を搭載した指揮官用のハーフトラック・Sd.Kfz.251/3装甲無線車、そして随伴する補給物資を積んだトラック3両とキューベルワーゲン2両。計15両の車両は、夜明けとともに粛々と前進を開始した。


 狐の丘での戦いから僅か2日後、その発端となった大元の理由―――すなわち、突破してきた敵部隊を完全に撃退して戦線を整理するための攻撃作戦が決定され、第502特務戦車大隊にも参加の命令が下った。


 こちらの防衛線を突破した敵の後続部隊は、とある丘を占領確保し、強固な防御陣地を建設し始めている。


 ”先の会戦で損害を受けた敵に余力はあるまい”。その認識を逆手に取り、リスクの高い、しかしこちらの油断に付け込む形で敵は見事隙をついてきたというわけである。これを橋頭保として食い破った戦線を押し広げるつもりなのだ。


 大きな地図で戦線全域を見渡すのなら、それは小さな雫の一滴が水漏れした程度のものでしかない。


 だが、これを無視すれば、この戦域どころか隣り合わせの戦域にも悪影響が及び、小さな一滴が行く行くは激流となる可能性がなくはないのだ。


 というわけで、第502特務戦車大隊第4中隊は、大隊主力に先行して前進し、まずは大隊司令部が一時的に置かれる予定のとある廃村に至るまでの経路を前進。経路上に敵が所在する場合はこれを駆逐し、同地域を占領して大隊主力を迎え入れる。


 その後、補給や整備を整えた上で第4中隊ともう1個特務戦車中隊がそれぞれに別経路で前進して、緑の丘に至るまでの敵を駆逐。陣地攻撃の為の支援態勢を確立し、3つ目の特務戦車中隊及び配属の歩兵中隊が主力となって、緑の丘を攻略する。


 因みに残る1個特務戦車中隊は、少し前の戦闘による損耗が激しく、現在は再編成中なので今回の戦いには参加しない。


 そういうわけでクラリッサもまた、ヴォルフの指揮の下で前進し、道中で第4中隊に配属予定だったⅣ号戦車小隊及び装甲歩兵小隊と合流したまではスムーズだったのだが———急にエンジンが不調を起こして異音を鳴らし始め、さすがにこれはおかしいということでやむを得ず停車。


 中隊は仕方なく先に前進し、急遽派遣されてきた整備中隊のトラックを出迎えたのが一時間前だった。


「ふう……どうにかなりそうですよラインフェルト少尉。原因は先ほど報告した通りです」


 年配の乗員ばかりの412号車の中で唯一の年若い19歳の操縦手―――童顔、小柄でいたずら好きなユリアン・シュピーラー伍長が油に汚れた手を拭きながら、砲塔から上半身を出して周囲を警戒していたクラリッサの元へと近寄ってきた。


「そうですか」


 抑揚に乏しく、感情をあまり感じさせない静かな声でクラリッサは応じる。その大人びたお人形のように整った美貌に感情の揺らぎは見られない。ともすれば、全く興味がない空返事のように受け取られてもおかしくはないだろう。


 だが、別に彼女はシュピーラー伍長を嫌っているわけではない。操縦手としての腕前は信頼しているし、シュピーラーも他の乗員同様にクラリッサを深く信頼している。


 クラリッサの着任当初、他の412号車のベテラン勢が”なんだこの人形みたいな小娘は”という懐疑的な視線を見せながらも、とりあえずは大人な対応で取り繕う中、露骨にクラリッサを———それこそ中隊では最も軽んじていたと言っても過言ではないのが、このシュピーラー伍長だ。時にはクラリッサが前進を命じても言うことを聞かず、他の乗員に急かされてようやく動き出したりと、本当にひどいものだった。


 当初は哨戒任務ばかりだったからよかったものの、もし本当に敵と交戦していたならどうなっていたことか……


 そんな彼だが、クラリッサ着任後の初の実戦において危うく死にかけた。戦場の戦況そのものが最悪な状態で、どこもかしこもがしっちゃかめっちゃか、412号車はその渦中に巻き込まれてしまったのだ。


 しかし、完全に誰もがパニックに陥る中、いつも通りの静かな物腰でクラリッサは指揮を実施。誰もがその度胸と冷静さに唖然としながらも、藁にも縋る思いで忠実に従い戦った結果、412号車は中隊の窮地を支え、さらに敵の迂回部隊の侵攻を阻止してのけた。


 まさに一騎当千の力と大逆転劇を見せつけ、クラリッサは味方の勝利に大きく貢献したのだ。


 この戦いが契機となり、それまでは完全に浮いた存在だったクラリッサ・ラインフェルトは、若き―――それも帝国軍の女性機甲士官という実に複雑な立場にもかかわらず、“孤高の英雄”として第4中隊の誰もが認める存在となった。


 412号車の乗員に至っては、今やある種の信仰ともいえるほどの信頼を寄せるようになっている。


 シュピーラー伍長もそれは同じで、あの反抗的にもほどがある態度はどこへやら。今や乗員の中でも、最もクラリッサを信奉していると言っても過言ではない。それどころか、クラリッサを侮辱したり下劣な目で見ようとする輩に対して、乗員一同の中でも鉄砲玉よろしく真っ先に食ってかかる有り様だ。少し前までのクソガキみたいな反抗的態度は一体何だったのか。


 そういうこともあり、412号車の乗員たちは冗談交じりに"ラインフェルト少尉の猟犬たち"と呼ばれることもあるのだった。


「しかし残念ですね。ようやくティーガー小隊完全編成での戦闘だったっていうのに」


「シュピーラー伍長は戦いたいのですか?」


 クラリッサの静かな問いかけに、シュピーラー伍長はきょとんとする。


「ラインフェルト少尉は違うんです? ティーガー4両が揃っての戦闘、大戦果を挙げるチャンスじゃないですか」


「……」


 クラリッサは答えない。ただ静かにシュピーラー伍長の答えを受け取り、それに対して返事をすることもなく視線だけを送って沈黙したままだ。


 クラッシュキャップのひさしの陰から覗く美しい―――しかし一切の感情を感じさせぬ青の瞳。シュピーラー伍長は何と返事をしたものかと口を開くのを躊躇った。


 やがて、先に視線を逸らしたのはクラリッサだった。クラッシュキャップの鍔を右手でつまんで下げ、目元が隠れてその表情が見えなくなる。


「‥‥バカなことを聞きました。忘れてください」


「え? あ、その……いえ……」


 何か気に障るようなことでも言っただろうか、とすっかり困惑したシュピーラーとの間で沈黙が横たわりつつあった。その時だった。


「おい、あれはなんだ?」


 戦車の上で作業していた整備兵の一人がふと顔をあげ、車体11時の方向を指差した。

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