第22話 Clarissa Reinfeldt 〜冷たい夜に〜

 もう夜も遅いということで歓迎会はお開きとなった。それに、ティーガー4両が揃った以上はいつ出撃命令が来てもおかしくない。


 明日から直ぐに忙しくなるかはなんとも言えないが、肝心な時に動けない特務戦車大隊に価値はない。今日ほどの派手で贅沢などんちゃん騒ぎは、またしばらく見納めになるだろう。


 会場から戻ったクラリッサは女性専用に充てがわれた民家の一室に戻り、椅子に座って一人静かに小さめの櫛を使って髪を梳かしていた。


 同じ部屋では既にレーヴェとリヒター伍長がベッドで横になり、軍服姿のままで健やかな寝息を立てている。ハーマン軍曹は後片付け中だ。皿洗いくらい手伝おうとしたのだが、"戦いのあとに余計な疲労を重ねないの!!"と怒られ、洗い場から無理矢理に追い出されてしまった。


 やることが終わればさっさと寝るというのが、クラリッサの昔からの習慣だった。別に何かの使命感に基づくものではない。いろいろな意味で、死ぬほど寝不足というものが嫌いなのだ。


 ついでに眠りに落ちるのが人一倍早く、機械仕掛けのスイッチでも切ったかのようにすぐ眠る。こちらはクラリッサのある種の特技だった。


 私物として持ち込んだ、携帯性に優れる小さな櫛―――かつて友人からプレゼントされたそれで、ゆっくりと彼女の銀色の美しい髪が伸ばされていく。


 黒のリボンは解かれ、銀色の長い髪が暖炉の光に輝く姿は、軍服でさえなければ深窓の姫君であり、逆に軍服を着ているからこそ男装の麗人としての美しさを醸し出す。


 もっとも、いつ何が起きるかわからない以上、寝る前に緩い編み込みだけは結んでおき、すぐにリボンを結べばハーフアップになるよう纏めやすくして寝るのが日課なので、髪が痛みがちになるのはどうしても避けられないが———まあ、全く何もしないよりはマシなはずだ。


 こう見えて、本来のクラリッサ・ラインフェルトはお洒落さんなのだ。


 今は亡き祖母はそれなりに裕福な家の出だったらしく―――只のパン屋だった祖父と結婚するにあたり、それは大変に揉めたそうで、実家について多くを語ることはなかったが―――度が過ぎた贅沢は下品だと嫌っていつつも、身なりをきちんと整え、礼儀正しく振る舞うことに余念がなかった。


 若くして亡くなった母も、その薫陶を当たり前に受けて育った。彼女にとって、上品さを感じさせるお洒落は、ある意味で祖母や母から受け継いだ大切なものの一つなのだ。


 もちろん、戦場だからやれる事に限度はある。とはいえ、軍服や制服の類は着崩さずにきっちり着こなしてこそ映えると思っており、しっかりネクタイも締めるのは、実のところ真面目さだけが理由ではない。要は彼女なりのお洒落なのだ。


 元から夜遅くになることは見越していたので、風呂には宴会前に入った。数週間風呂に入らないなんてのもザラにある戦場暮らしの身としては、数少ない入浴や洗濯の機会は貴重である。言うまでもないが、彼女のようなお洒落さんが戦場暮らしするのは、やはりそれ相応に苦労するのは避けられないのだった。


 暖炉の光に照らされて輝く、まるで絹糸のような美しい銀色の髪。


 祖母や母から受け継いだこの珍しい髪のせいで、幼少期に虐められた記憶もある。当時は、どうして自分はこんな珍しくて、目立つにも程がある髪色なのかと悩み、この髪が嫌で嫌で仕方なかったことも有った。


 だが、亡き祖父や亡き父も愛したというこの髪色は、今や家族というものを既に失った彼女にとって、家族との絆を感じられる数少ないものだった。


 だから、髪の手入れという行為そのものにクラリッサは思うところがあり、基本的によほどの理由がない限りは絶対に他の人には自分の髪を触らせないようにしていた。


 最も、虐められた経験やらなんやらで元から自分自身の色恋沙汰にはあまり興味がなく、挙句の果てにこんな明日の命すら分からないような従軍生活を送っている自分が―――それこそ祖母や母のように、或いは流行りの小説のように―――心が燃え上がるような愛だの、やれ甘い色恋沙汰だの、素敵な殿方と結ばれて幸せになるだのなんて、とても想像もできないのだが。


 それどころか、下手をすれば敵兵に嬲られ、守ってきた純潔を無理矢理に散らされ、死ぬより辛い絶望の中で散々に弄ばれた挙げ句に無残に捨てられる可能性すらある環境だ。そうなるくらいなら男を知る云々以前に死んだほうがましだ。


 だから、今はテーブルに置かれている拳銃は、いつの日か最悪の時が訪れた場合、彼女が汚される前に自らその頭を撃ち抜くことに使うこととなるだろう。ここはそういう場所だ。


「……」


 部屋に響くのは解れた髪を梳く音と、暖炉の火が立てるパチパチという火花の音。一人静かにリラックスできる、数少ない時間。


 だが、平穏な心休まる時は、突如として終わりを告げた。彼女の脳裏に、ある日に聞いた声が響く。


―――味方の窮地に駆け付けて、颯爽と敵を撃破する。随分と劇的な勝利じゃないか、エース殿。


―――まあ最も、全員は救えなかったわけだがな。


 別に何かの呪いだとか、特別な霊感の類ではない。平穏だからこそ、目の前に集中するものがないからこそ、過去の記憶の残滓が噴き出してくる。


 そして、またある日の記憶。


―――今日の戦果を報告しろラインフェルト少尉。


―――そうか、3両撃破、つまりあの蛆虫共は12人は最低死んだということだな。お見事、”英雄殿”。


 そして、また別の日の―――


―――ラインフェルト少尉、早く東側に展開している味方掩護しろ!!


―――急げ、お前が来る間にもう8人歩兵がやられた!! 敵歩兵部隊に榴弾射撃!!


―――あそこにいる10人前後、あれをさっさと殺せ!! 味方をやらせるな!!


―――殺せ!!


―――殺せ!!


―――殺せ!!


―――殺せ!!


「………」


 がたん、という音でクラリッサは我に返った。いつの間にか彼女の手から櫛が落ち、床に転がっている。それを拾おうとして———




―――クラリッサはいいなあ、私と違って何でもできて。


―――すごいわクラリッサ!! 貴方やっぱり才能あるのよ!!


―――クラリッサ、笑わないで聞いてくれる? 私ね……




「……」


 前かがみの状態だったクラリッサの身体がゆっくりと椅子の背もたれに背を預ける形となる。そのまま天井を仰ぐ形となり、その左手で目元を隠すように覆い、クラリッサは小さく呟く。


「クラナッハ少尉……私は……」


―――駄目だ、違う。弱音を吐くな。


 自分を戒めようと自分で自分を叱る。


―――甘えるな。弱さを見せるな。耐えろ。常に強くあれ。正しくあれ。だって私は……

 

 それでも、ぽつりと彼女は言葉を漏らしてしまった。


「私は、貴方にそんな目で見られるような人物ではないのですよ……」


 か細い声が誰にも聞かれることなく、夜の冷たい空気の中に消えていった。

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