第13話 狐の丘へ 4
「コーヒー飲みます? アイスコーヒーですけど」
装填手ハッチが開き、身を乗り出したヴァイスマンがコップを差し出して来る。
夜明け特有の薄暗さの中、車長ハッチを開いて上体を出し、深呼吸しながら軽く肩を回していたヴォルフは、ヴァイスマンの人懐っこい顔立ちに"まあ飲んでみてくださいよ"と言わんばかりの自慢気な表情を読みとりカップを受け取った。
「ああ、ありがとう……ん、うまいな」
「でしょう? 当店のオリジナルブレンドです。終戦の暁には、是非ともヴァイスマン喫茶店へ」
軽口をたたくヴァイスマンに笑みを返しながら、ヴォルフは改めてカップに口を付けた。程よい酸味が口内に広がり、何より驚くべきはその香りだ。贔屓なしに、このコーヒーは非常にうまい。
「すごいな、アイスコーヒーで香りを感じたのは初めてだよ。何かコツが?」
「実家からいい豆が送られてくるんですよ。あとは煎れ方次第ってやつです。具体的なやり方は、俺にとってはお偉方の作戦計画書並みに重要な機密なので。残念ながら非公開とさせてもらいます」
家族からの手紙と一緒に煙草などを送ってもらう将兵がいるが、この男の場合はコーヒー豆が実家から送られてくるらしい。ヨハネス・ヴァイスマンという男は煙草を一切吸わない質であり、さらに言えば実家の家業である喫茶店を継ぐために、戦場でも空いた時間に修行を続けている。
そうした会話を、駅から中隊の元へと移動してくる途中でしたことを思い出しながら、ヴォルフは改めてコーヒーを啜る。
やはりうまい。世辞でも何でもなく、本当にうまい。ひょっとして、ヴォルフの今までの人生で過去最高にうまいコーヒーではなかろうか?
「言ってくれれば、最高においしい紅茶だって用意しますよ。まあ、いい茶葉なんてこんな前線じゃまず手に入りませんが」
「喫茶店というなら料理の方は?」
なんとなしに問いかける。すると、やれやれといった具合に砲手席に座っているバッヘムが、火の入ってないパイプを片手に苦笑いしながらこちらを振り返った。
「小隊長、そいつに料理の話をしちゃあダメだ」
「なんでです?」
「故郷の幼馴染の話が始まるからですよ」
問いに答えたのは操縦手席のディットリヒの声だ。
「料理は修行中。故郷の幼馴染の料理がうまい。ゆくゆくは二人で店を継いだ時には彼女が料理を作って、って流れから、どんどん未来の嫁自慢に話が繋がっていくんです」
なるほど、ここに来る途中でちらっと話題に出かけていた人物とはその人のことか。
「いや、だってアメリアは本当に素晴らしい女性で———」
「わかったわかった!! いいからいつものように右の胸ポケットの写真で、小隊長に愛しのアメリアちゃんのご尊顔を拝んでもらえよ」
若干呆れたようにディットリヒが言えば、ヴァイスマンはごそごそとポケットから一枚の写真を取り出し、嬉々とした表情でこちらに差し出して来る。よほどその幼馴染とやらに惚れ込んでいるのだろう。だらしなく緩んだ表情はまるで子供のようだ。
彼にとっては大切な宝物であろう写真をうっかり汚したり皺にしないよう気を付けつつ受け取ってみれば———
「かわいい子だな」
「でしょう?」
決して、ラインフェルト少尉のように誰もが振り向くとびきりの美人というわけではない。
しかし、純朴そうな顔立ちの三つ編みがよく似合う少女が、写真の中で少し恥ずかしそうにはにかんでいた。ロングスカートのワンピースの上からエプロンをしめ、ヴァイスマンの実家なのだろう喫茶店と思しき小さな建物の前に立っている。愛嬌のある笑顔は純粋に素敵だと、ヴォルフは掛け値なしに思った。
なんとなく裏返してみれば、”愛しのヨハネス、絶対無事に帰ってきてね。貴方のアメリアより”ときれいな字で書かれている。
「……ありがとう」
「いえいえ」
写真を返すと、ヴァイスマンは写真に写る少女に少しの間だけ愛おしげな視線を送ってから、大事そうに写真をポケットにしまう。
その間にも部下たちのやり取りが続いていた。
「家族と言えばバッヘム上級軍曹。やっぱり暫くはパイプは手放せそうにありません?」
「ああ。カミさんがたまに疑いの目で見てくるから誤解を解くので大変だ。だが、口元が寂しくてこのパイプはどうしても手放せん」
「お姉さんからの贈り物でしたっけ?」
「ああ。そういう思い出の品だってのも、我ながらなんやかんやで手放せん理由だろうな。カミさんには悪いが、もう一生このままかもしれん。そういやパトリック、お前の浮いた話は聞いたことなかったな」
「僕は別に。女性に縁のない生活だったので」
どこか面倒そうにコルネリウスが答える。それに対し、ディットリヒがからかうように言った。
「おいおい、大学生時代に遊ばなかったのか? 花のない学生生活だな」
「ディットリヒ、そもそも大学は勉強をするところだ。それに貧乏学生だった僕には、そんな暇なんてなかったよ」
「家族を食わせるために大学に行っていい職に就くはずが、気付いたらドンパチが始まって軍人か。世の中分からないもんだなあ」
当たり前のことだが、部下たちには帰る場所と、帰りを待つ人たちがいる。平時では何気ない会話に過ぎないのだが、ここは戦場だ。
指揮官として彼らの命を握るということ。それは、彼らの背後にいるもっと多くの人々の心と未来をも担うということだ。当たり前の事実ではあるし、忘れてはいけないことであるのだろうが———同時に気にしすぎてもいけないであろう事実。危険を避け、生き残るために全力を尽くすのは当然だが、戦場には程度の差があるだけで安全な場所などどこにもない。何をするにも死のリスクを背負う。
その重さを意識しすぎていたら命令を下すことなどできるはずがないし、その理屈を———命の重さという倫理観を突き詰めていけば、そもそも敵を撃つことすらできなくなるだろう。
———ラインフェルト少尉、君はどうなんだ?
あの日自分を救ってくれて、そして今はまさに轡を並べることとなった、見るからに戦場の空気に似つかわしくない娘。華奢で人形のようなあの銀髪の娘は、どのような想いで戦場に立っているのだろうか。何を支えとして、今日まで戦ってきたのだろう。
家族や友人、故郷への想い?
政治的な信条?
女性の地位向上のため?
或いは、敵国に思うところが?
理由はいろいろ考えられるが、クラリッサ・ラインフェルトという人物をヴォルフはまだよく知らない。
命を救われたあの日から、戦場に舞う銀色の輝きが忘れられない。たった数秒の光景だったにもかかわらず、あの時、手を差し出してきた彼女の姿が目に焼き付いて離れない。あの日の彼女のようになりたいと思った憧憬は、彼女と同じ力の象徴———最強の陸戦兵器を手にし、何の因果か同じ部隊に属し、そして彼女を従える指揮官となった今でも胸を焦がし続けている。
だからこそ―――こうして憧れの人物を目の前にしたからこそ気になるのだ。自分が背中を追い続けた人物は、果たして本当はどういった人物なのかと。
自分が思い描く銀色の英雄像。それはどこまで正しくて、本当の彼女がどんな人なのか、ヴォルフは知りたいと強く思うのだ。
「―――長、小隊長!!」
「す、すまない、考え事をしていた」
とんとん、とヴァイスマンに肩を小突かれて、ヴォルフは我に返った。
「頼みますよ小隊長。どうやら心配事は後回しにした方がいいらしい」
少し苦笑いを含んだ声音で、バッヘムが咥えていたパイプを懐にしまいつつ、首をぽきぽきと鳴らしている。
「それでパトリック、中隊長はなんて言ってきたんだ?」
気を利かしてくれたのだろう。暗に暗号電文が届いたことを伝えてくれたバッヘムに内心感謝しながら、ヴォルフはコルネリウスの声に耳を傾けた。
「じゃ、読みますよ。<<撤退中の友軍より連絡。我はハーフトラック2両を先頭としてⅣ号戦車3両で後退中>>」
—―—日が暮れる前に聞いた話では、生き残っていたⅣ号戦車は5両だったはず。つまり、残る2両は……
唇を噛む。自分たちではどうしようもないこととはいえ、当然いい気はしない。だが、大事な情報を聞き逃さないためにも、余計な感傷を可能な限り頭から振り払いつつ、我が通信手の声に耳を傾けた。
「<<敵戦車は確認できているだけでも歩兵を跨乗させた戦車7両>>」
ディットリヒが口笛を吹きつつ”結構来たな”とつぶやき、ヴァイスマンに至ってはこの世の終わりみたいな顔になって食い入るように婚約者の写真を見つめている。かく言うヴォルフ自身もまた、思わず身震いし、深呼吸をせずにはいられなかった。
「<<先頭のハーフトラックは黄色の旗を掲げ、我が方の戦車は全て砲塔を後方に向けた状態で後退中。くれぐれも誤射に注意されたし。そちらとの合流予定時刻は———>>」
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