第12話 狐の丘へ 3

 昼食後、小隊は準備を始めていた。


 例えば通信手。


「イェーガー3、こちらフェヒター1。今から言う座標を掌握してほしい―――その通り、火力集中点。言いますよ、座標―――」


 砲兵隊とのやり取りを中隊本部に依頼して、あらかじめ狙う可能性のある場所を相手に伝える。これで、支援要請から射撃までの時間が効率化されるというわけだ。


 砲手と操縦手は、


「……っと、こんなものか。いいぞディットリヒ、次の場所だ。移動するぞ」


 ティーガーをヴォルフとクラリッサが指定した場所へと進入させ、敵が来るであろう場所との距離をメモしておく。基準となる目標物は、補給隊から借りたトラックを活用している。


「了解、えっと、次の場所は……」


 操縦手は実際に戦車を走らせ、周囲の地形や使うべき経路を覚えていく。


 目標物として使っているトラックはというと、


「よし、ここからあの道路を移動するティーガーは見えないな」


「はい。陣地転換の際には活用しましょう」


 ヴォルフとクラリッサはトラックで移動しながら、相手方から自分たちが使おうとしている場所等を敵から見た場合の見え具合を確認しつつ、


「はあ、はあ……ふう、見てきましたよ小隊長」


 ヴァイスマンが道路脇から息を切らしながら走ってくる。 


「戦車が通れそうなルートは確認完了。よければすぐにでもご案内しますよ」


「よし、それじゃあ……いや、待て」


「ヴォルくーん、持ってきたよー!!」


 見れば補給隊のトラックがこちらへと走って来ており、その助手席ではぶんぶんとハーマンが手を振っている。トラックはヴォルフたちの眼前で停車し、ハーマンが助手席から降りてきた。


「でもごめんね、今すぐ使えるのはこれだけだって中隊長が……」


 荷台の幌を軽くめくって見せ、ちょっと申し訳なさそうに眉尻を下げるハーマン。ヴォルフたちは荷台に乗った”積み荷”を見やる。


 その総数を見やったヴォルフは少し考える素振りを見せ、


「ラインフェルト少尉、敵に仕掛ける場所を予定より限定しよう。場合によっては戦い方を少し変える必要がある」


「とはいえ、大掛かりな変更は必要なさそうです。ヴァイスマン伍長、経路を案内してくれますか?」


 クラリッサに言われたヴァイスマンは了解と答え、二人を案内するべく歩き始めた。



 その日の夜。夕食を終えて最後の細かい打ち合わせを終えた小隊員たちは、各々の戦車の中で眠りについた。と言っても、交代で見張りを出しつつであるので、完全熟睡とはいかないが。


 ランプの僅かな光が薄暗い車内を照らす中、クラリッサは膝の上に図板を置いて地図を広げていた。鉛筆で作戦にかかわる各種経路や要点等をきれいな文字で短く書きこんでいく。静かな車内に響くのは、クラリッサが走らせる鉛筆の音と、眠りについている乗員たちの寝息やいびきだ。


「……ふう」


 一通り書き込んだ地図を改めて一瞥し、納得がいったように小さく白い息を吐く。狭い車内で眠っている間も起きている間も長時間座りっぱなし。さすがに腰が痛いので軽く立ち上がり、シートに座りなおそうとし———


「……」


 ふと車長用キューポラから視線を外にやる。自身の412号車に対し道路を挟んだ反対側。もう一台のティーガー、411号車が停止している。


 今、小隊長は様子を見に来たヴァルター大尉相手に自身の考えている戦い方を報告し、その細部をいろいろと指導されているはずだ。以前偵察に来た時にクラリッサが報告し、その時にそこから導き出された"狐の丘で戦うことになった時の概ねの戦闘要領"をアレンジしたものだ。


 中隊長の考えとまるで違うなんてことはないはずだから、今から準備を1からやり直しと言った悲しい事態にはならないだろう。


 つい昨日配属されたばかりの新任小隊長。前の小隊長が比較的年配だったのに対し、自分より2つ年上でしかない随分と若い青年だ。特別何かしらの才気を感じさせるわけでもなく、しかし見るからに無能かと言えばそういうわけでもなく。


 あの時、彼を助け出して後方の野戦病院まで送り届ける手配を終えて、彼女はすぐさま再度出撃した。その後も連戦を繰り返す羽目となったので、正直に言えば再会した時まで彼の存在などすっかり忘れていた。


 彼女はすでに多くの人の生き死にを見てきた。助けられなかった同胞の数など、もはや何人いるかわからない。自身の戦車が駆け抜ける横に味方の歩兵の遺体や炎上する味方の戦車、怪我を負って呻く重傷者が転がっている様など何度も見てきた。まさにすぐ近くにいた若い兵士が撃たれて倒れ伏したのを見たこともあれば、人体や戦車がばらばらになってしまった瞬間も見たことがある。


 思えば彼―――ヴォルフ・クラナッハも、一歩間違えればその記憶の断片の一員になりかけていたわけである。そんな人物が何の因果か、今度は自分の直接の上官となったというのは不思議なものだ。


「新しい小隊長殿が気になります?」


 声のした方……自分の座席の前、砲手席に座る年配の砲手にしてこの戦車のまとめ役コルベ軍曹がこちらを見ていた。


「起きていたのですか」


「もうすぐ夜明けでしょう? それに、暖機運転もしておかないと」


 言われてみればもうそんな時間か、とクラリッサは懐中時計を見やった。


「ちゃんと寝ないと、いざという時に頭が鈍りますよ?」


「ありがとうございます。起きていたのは不寝番の1時間を除けば30分ほどですから、問題ありません」


「……」


 コルベ軍曹はしばしクラリッサを無言で見ていたが、やがて視線を前に戻してごく自然な様子でその決定的な言葉を発した。


「今度の小隊長は何日持つのかなんて、我々が気にしてもしょうがないことです」


「……」


 クラリッサは無言だ。背中を向けた彼からは、クラリッサの表情は窺えない。コルベ軍曹はそのまま言葉を続ける。


「貴方がこの412号車を”車長殺し”から解放した。それは紛れもない事実ですが、小隊長が何人死のうと、我々は貴方に付き従います」


「……」


 クラリッサはあくまで無言だったが、やがてぽつりとつぶやくように礼を言った。


「……ありがとうございます、コルベ軍曹」


 感情の抑揚が捉えづらい声音。腹心の部下たる412号車の乗員たちですら、未だに彼女の内面を読み取り切ることはできない。 


 だが、そのある種の壁が逆に孤高さや神秘さを感じさせ、英雄としての彼女の輝きが増す。信奉にも似た信頼とはそういうものだ。


 だから、コルベ軍曹らにとって彼女のそう言った心を開かない一面は問題ではなかった。彼女が必要だと判断したなら胸襟を開くだろう。それをしないということは、彼女にとって今は必要ないというだけのことだ。


 直後、がたんと音を立てて装填手ハッチが開かれる。若干遅れて操縦手ハッチが開かれる音がして、操縦手が車内へと滑り込んでくる音がした。


「最後の歩哨組、ただ今戻りましたよっと」


 比較的年配者の多いこの戦車において最も若い操縦手、ユリアン・シュピーラー伍長の声だ。その物音に目が覚めたらしく、通信手のレーニシュ伍長が”ごくろうさん、寒いから早くハッチしめろ”とあくび交じりに返す。


「おお、寒い。今日は冷えるな」


「今日は、というより今日も、だな」


 サブマシンガンを片手に車内へと入ってきたひげ面の装填手へスラー伍長に相槌を打ちつつ、コルベ軍曹はクラリッサに問いかける。


「それで、どうなんです?」 


「クラナッハ少尉ですか?」


 問い返せばコルベ軍曹が頷く。


「もちろん、気にはなります。突然の出撃ですから」


「中隊長も無茶ぶりしますなあ。着任早々、歩兵すらなしのたった2両で足止め作戦とは。うまくいきますかねえ、小隊長殿の作戦は」


 サブマシンガンを指定場所に固定するへスラー伍長が若干不安そうに言うと、シュピーラー伍長があくびしながら答えた。


「うまくいってくれなきゃ困るさ。こんなクソ寒いところで永眠なんて俺は嫌だね。ラインフェルト少尉はどう思います?」


「……」


 自身が先ほどまであれやこれやと書きこんでいた地図。口元に手を当ててそれを眺めながら、少し考える素振りを見せるクラリッサの銀髪と青い瞳が、淡いランプの光に照らし出されて輝いている。


 戦車兵のみが着ることを許された黒い制服の上から白の防寒着を着込んで、さらに鋼鉄の兵器たる武骨な戦車の中。これが清楚なドレス姿かつどこぞのお屋敷の中であれば、そのまま絵画の題材にもなりそうなほどに静謐なる美しさを湛えたその姿。例えるならば、戦女神。戦車兵としての彼女の姿はまさしくその名がふさわしい。


 やがてクラリッサは、その人形のような表情を特に変えることなく口を開いた。


「彼の至らないところは、私が何とかしましょう。私もそうやって、貴方たちに支えられてきたのですから」


 お世辞のつもりはない。クラリッサとて、戦歴という意味では間違いなく若輩者だ。周りからは天賦の才があるように言われるが、クラリッサ自身にはそんな自覚はない。


 いつだって不安で、いつだって臆病。その感覚に従い、不安なところを徹底的に解消しようとする。休息は必要だが、命に関わる手抜きや妥協は許さない。ただそれだけのことなのだ。


「各人の全力に期待します」


 クラリッサの静かな宣言に、乗員一同は力強くうなずいた。

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