第10話 狐の丘へ 1

 雪に覆われた街道を2両のティーガーが走っていく。


 この戦車の最高時速は整地で時速40Km、不整地で概ね20~25Km。とはいえ、その重量ゆえに足回りへの負担を避けるため、時速40Kmの限界値でぶっ飛ばすことはまれだ。ちなみに戦闘を伴わない行軍における最適な速度は時速10Kmだ。


 どうやらこの道路はそれなりに使われているらしく、地面がしっかりとしている。


 しかし辿り着く前に戦車が壊れてしまっては意味がないので、安心の時速10Km程度での前進となった。いざという時の代わりの戦車がいないのだから、なおのことやむを得ない。


 もっともそのしっかりとした道ですら、ティーガーの巨体が通り過ぎた後はすっかり掘り返され、まるで耕されたかのような状態になってしまうのだが。それだと後から来る輸送トラックなどが困るので、道幅全部を完全に耕してしまわないように経路を取る。


 野を越え森を抜け、鋼鉄の虎は戦場へと赴く。


「へいへい、緊張してませんか小隊長!!」


 ”新型のパワーステアリングのおかげで、二本の指で楽々操作できる”。ティーガーフィーベルと呼ばれるちょっと独創的なティーガーのマニュアル本の記載の通りだ。操縦手ディットリヒは、Ⅳ号戦車やT-34よりはるかに巨体であるはずのティーガーを鼻歌混じりに軽々と操縦しながら車内無線で問いかける。


「まあ、隠さずに言えばその通りだな」


 やはり見透かされていたらしい。ヴォルフが正直に答えれば、


「それならちょっと息抜きに周囲を見回して、ドライブ風景を楽しんだらいいんじゃないですか? 美しい景色が広がってますよ。特に前方なんておすすめです」


「前方……あのなあ、ディットリヒ軍曹」


 その意図を理解し、苦笑いとともにヴォルフはディットリヒを窘める。


 要は、美しい景色というのは先行して走っている412号車の車長キューポラ。そこから顔を出しているクラリッサ・ラインフェルト少尉の後姿のことだ。確かに美しい銀色の髪と黒のリボンのおかげで、クラリッサの後姿はそれだけでも絶世の美貌の雰囲気を感じさせるが、好色な目で見るのは失礼というものだろう。


「かーっ、お堅いねえ小隊長!! そんなんじゃ気になる女の子は振り向いてくれませんよ!! もっとこう、がっついていかないと!!」


「君が言っても説得力がないけどね」


「なんだと!?」


 無線機を調整しているコルネリウスの毒舌にディットリヒが噛みつく。するとバッヘムが全くだと同意を示した。


「ロンベルク上級曹長といいお前といい、女好きなくせに全く引っ掛けられないのだからな。俺もパトリックに同意だ」


「そんなあ!! ひどいですよバッヘム上級軍曹殿!!」


 411号車の中で笑いが起こる。ふとヴォルフは疑問に思ったことを口にした。


「時折名前が出る、ロンベルク上級曹長というのは?」


「ああ、ティーガー413号車車長、フォルカー・ロンベルク上級曹長です。今は乗車が整備中につき、後方の安全地域で短期休暇中ですよ。ディットリヒと並ぶ小隊の女好きです」


 装填手席で揺られながらヴァイスマンが答える。


「どんな人物なんだ?」


「小隊長何歳でしたっけ?」


「22だ」


「じゃあ、同い年ですね。金髪碧眼、高めの身長にイケメンフェイス、でも滲み出る残念さでなんもかんも台無しにしている残念野郎ですよ」


「おいおい、自分がモテないからって嫉妬かヴァイスマン?」


 意地の悪い笑みを浮かべるバッヘムに今度はヴァイスマンが噛みつく。


「そ、そんなんじゃないですよ!! だいたい俺には———」


「あー、その話はいい、もう聞き飽きた」


 やれやれといった具合に肩をすくめるバッヘム。


 むっとしたようにヴァイスマンがバッヘムをジト目で睨む。


「バッヘム上級軍曹だって奥さん自慢と娘さん自慢始めたら止まらないくせに」


「お前とは年季が違うんだよ、同じエピソードを何回も繰り返してるようじゃまだまだだ」


「せいぜい幸せな家庭を築くんだな童貞野郎!!」


 茶化して来るディットリヒ。


「お前は先に相手を見つけろスケベ野郎!!」


 怒鳴り返すヴァイスマン。流れるようなやり取りは、こういった会話がこの戦車ではよく行われているという証拠だった。


「そりゃそうと小隊長、さっきラインフェルト少尉と見つめ合ってなんかお話しされてましたよね? もしかして惚れちゃいました? ダメですからね、車内でラインフェルト少尉の可憐な後姿に興奮しちゃ」


 どうやら会話をしていたのを見られていたらしい。ここぞとばかりにディットリヒがからかってくるのに対し、巻き添えをくらうを避けるべく苦笑いしながら答えてやる。


「期待しているところ悪いが、別にやましい話も、浮いた話もしてないさ」


「ほんとですかあ? 真面目そうな顔して、実はラインフェルト少尉に”命令だ、今夜は俺の部屋に来い”とかてっきり言ってるのかと」


 ヴァイスマンがにやりと笑う。どうやら彼にも見られていたようだ。


「おうおう、鬼畜ですね小隊長!! ”一晩中、俺のアハト・アハトでかわいがってやる”ってやつですか?」


 ここぞとばかりにディットリヒが好き勝手なことを言い始め、他の乗員たちが笑い声をあげる。まったく、先ほどのいがみ合いはどこへやら。共通の獲物を見つけるや、息ぴったりな連中だ。


「いやいや待て、君たちの中で俺はどんな奴なんだ!? そんな失礼なこと言うわけないだろう!!」


「冗談ですって、拗ねないでくださいよ!!」


 声を荒げるが、もちろんヴォルフも本気で怒っているわけではない。バカなやり取りを続けている間にも、ティーガーはどんどん道を進んでく。


 そんな中、ふとヴォルフは思った。


”クラリッサ・ラインフェルトの戦車では、どんな会話が交わされているのだろう”と。少なくとも男所帯特有のややデリカシーに欠ける単語が飛び交うことはなさそうだが。


 

 やがて2両のティーガーは森の中を貫くような一本の林道へと差し掛かり、その出口付近へと到達した。


 先を行くクラリッサが振り返り、手で速度を落とすよう合図し、右前方の木立を指差す。見れば、どうにかティーガーを1両隠せそうなスペースがあった。


 一方でクラリッサのティーガーは、道路を挟んだ反対側の木立へと車体を収めるべく後退を始めている。


 ヴォルフも自身の戦車を誘導して木立の陰へと隠し、エンジンを停止させるよう命じて戦車から降りた。


 すると、先にティーガーを停止させたクラリッサが小走りにこちらへと駆け寄ってくる。


「クラナッハ少尉、現在私の戦車は足回り等の点検を実施中です。終わり次第、ひとまず休憩させてよろしいでしょうか?」


 ヴォルフをまっすぐに見つめ、生真面目な調子でてきぱきと報告してくる。先ほどまで車内でバカ騒ぎしていた自分たちがちょっと恥ずかしくなるくらいだ。


「ああ、それでいい。地形の偵察に行きたいんだが、ラインフェルト少尉は休憩は?」


 問いかけてみれば、彼女は無表情のまま答える。


「クラナッハ少尉がお望みでしたら、すぐにでも参ります」


「そうか……なら、悪いが少し付き合ってくれ。概観を見るだけでも終わらせておきたい」


 バッヘムに乗員の指揮―――戦車の点検と周囲の警戒といった役割分担を任せてから、ヴォルフとクラリッサは森から歩いて出た。


 自分たちが今いるのは、なかなかに広い小高い丘の上。森から出てきた道路は出口のところで大きなT字路となって左右に分かれ、右側の道はやがて大きくカーブを描きつついくつかの蛇行を経る形で眼下の雪原へと続いている。左の道は森に沿うように丘の上を長く伸び、そのままいずこへかと伸びている。


「この左の道はどこに? 見える範囲では結構横幅の広い道だな」


 地図を広げて確認しようとすれば、クラリッサが横から鉛筆で指し示してくれた。


「この道です。森に沿って伸びた先の湿地帯へと通じていました」


「戦車は通れる湿地帯か?」


「いえ、長期に渡ってあまり使われていない道路のようで、途中からかなり荒廃していました。広いのはここから見える範囲だけで、どんどん途中から先細りになり、大きな倒木も多数あります。T-34であっても間違いなくスタックする程度に荒れている場所も多く、装輪車などはとても通れたものではありません。今回の遅滞作戦の観点からすれば無理に考慮する必要はないかと」


「中隊長は半日持たせろ、と言っていたしな……敵がこの道を使おうと工事したとしても時間がかかり過ぎて、こちらの足止め期間的には十分か」


 不測事態の発生を考えれば余裕のある日程と行きたいところだが、なにぶん戦力が少なすぎる。今回は欲張らず、最低限の目的をより確実に達成する方向で考えたほうがよさそうだ。


 続いて双眼鏡を覗き、右の道に改めて目を転じれば、平原を貫く道路の脇が落ち込んでいる場所がある。それも結構な数だ。ぱっと見、戦車を隠せそうにも見える。


「仮にここから射撃したとして、生き残った敵はあの道路脇へと逃げ込むだろうな」


「はい。T-34であれば隠れることが可能かと。以前確認した限り、戦車が機動可能な場所もあります」


 確かによくよく見てみれば、狭いながらも前進経路になりそうな起伏が見て取れる。ちょこちょこ戦車の砲塔の一部がはみ出るような場所もあろうが、隠れながら移動する相手のそれを瞬間的に狙って撃てというのは難しそうだ。


「そして、起伏に身を隠しながらこの丘へと接近できるというわけだ。それでもあえてここに君が着目したということは、この辺り一帯で他に防御に適する場所はないというわけだな」


「はい」


「……わかった、脇に逃げた敵をどうするかは改めて考えるとしよう。ラインフェルト少尉、意見があれば積極的に言ってくれ」


 双眼鏡から目を離し、ヴォルフはクラリッサに向き直った。クラリッサもヴォルフをまっすぐに見つめ返す。ヴォルフは手袋を外して、彼女に差し出した。


「俺には君の力が必要だ。未熟な俺に、君の力を貸してほしい」


 見栄や意地を張ることなく、かといって頼りきりというわけでもなく、対等な人間として、ヴォルフはクラリッサに助力を求めた。


「……」


 クラリッサは少しの間の後、おずおずと手袋を外してヴォルフの手を握った。とても兵士とは思えない、ほっそりといたピアニストのようなクラリッサの手。


「……私でよければ」


 その感触はとても柔らかくて、冬の寒さにすっかり冷えていて冷たかったが、確かな暖かさとともに、彼女が機械仕掛けのお人形などではなく、まぎれもない生きた人間であるとヴォルフに伝えるのだった。

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