紫陽花
空木 白
1
「ね、紫陽花って毒あるんだよ」
君がそんなことを言った。君の話の最初には、いつも決まって「ね、」が付く。ずいぶん昔からの仲なのだけれど、少なくとも僕が知っている君は「ね、」から話を始める。
道の水溜りが鈍色の空を映す、穏やかな7月の昼下がり。君も僕も閉じたままの傘を片手に持っている。お風呂上がりに外へ出たみたいな、涼しくて爽やかな空気だった。
「あそこでも咲いてるじゃん、綺麗だね」
相変わらずの調子で君が続けた。背後から雨音のような、楽しそうなリズムの足音が聞こえる。僕は変わらず黙っていた。
僕は単語帳に視線を落としているから、「あそこ」が何処を示すのかは分からない。毒があるなんて切り出した花を、何処に見つけて微笑んでいるのだろう。道端の紫陽花を指差して笑っている君を思い浮かべる。あまりに呑気な光景に、僕まで頬が緩む。
部活がお昼前に終わると、僕と君は図らずとも同じ道を辿る。僕は弓道部で、君はバスケ部。どちらの部活も雰囲気が緩くて、夏休み中は午前中だけで練習が終わった。他の部活は3時くらいまで続けるから、一緒に帰っていて揶揄われることもない。それは僕にとっても、恐らくは君にとっても都合が良かった。
念を押しておくが、家が近いというだけで待ち合わせている訳ではない。ただ習慣として、いつからか僕たちは帰路を共にするようになった。小中高とそんな習慣を続けていれば、腐れ縁の一つくらいはできる。
「ひぃ、ふぅ、みぃーーー5つかな、満開だよ」
君が言う。
満開。たった5輪の紫陽花が、満開。少し引っ掛かる。
「紫陽花が満開とか聞いたことないな」
普段なら無言で通すだろうけど、ずっと黙っているのも具合が悪い。なにせ今日はまだ一言も喋っていない。仕方なく、申し訳程度にツッコんだ。
「あ、やっと喋った」
君はにやけているのだろう。声で大体の表情は分かる。
「君は喋り過ぎ」とだけ返して、僕は溜め息を吐いた。小学校の時から、君は返事なんて関係ないみたいに話し続ける。
それからふと、顔を上げてみた。別に紫陽花が見たかった訳ではない。ツッコミと同じで、ちょっとした気まぐれだった。すると、
「私ってそんなにお喋りかな?」
いかにも心外といった声音で君が問うた。
「君が違うなら誰がお喋りなんだよ」
少し皮肉っぽく答える。
「むぅ、酷い」
今は唇を尖らせているのだろう。「えいっ」と背中をつつかれたが、スルーして正面に続く道を眺める。
変わり映えのしない見慣れた帰り道。灰色のアスファルトの中を、絵本の間違い探しでもするみたいに青色ーーー僕が一番よく知っていた紫陽花の色ーーーを探す。
(ーーーああ、あった。)
道脇の家の垣根から、数輪の紫陽花が顔を覗かせているのを見つけた。淡い青色と紫。後ろの屋根が赤かったのもあって、割にすぐ見つけることができた。歩きながら見つめていると、一枚の葉から水滴が落ちて、ぽちゃんと音を立てた。きっとあの紫陽花のことなのだろう、勝手にそう思うことにした。
「あ、向こうの家にも咲いてる」
毒の話は何処へやら、君はまた紫陽花を見つけては、心底嬉しそうにしている。
「雨上がりだし」
適当に相槌を打つ。少し遅れて、君は「晴れたら枯れちゃうのかなぁ」なんて呟く。
僕は水溜りを踏まないように気を付けながら、雨上がりのアスファルトを歩き続ける。その3歩くらい後ろを、遅くなったり止まったりを繰り返しながら、時にくねくね曲がって君が付いてくる。遠ざかって、近づいて。不規則に変化しながらも、君と僕の距離は保たれている。いつの間にか決まっていた、いつも通りの距離だった。
「雨、また降るかな?」
「さぁ」
道の先のカーブミラーに君が映っているのが見える。下ろした長い黒髪と、唇の下の小さな黒子。いつも通りの距離といつも通りの口癖の君は、いつもとは違ってシャツのボタンを一つ開けている。捲った袖から細くて白い腕が伸びて、猫のしっぽみたいに、ゆらゆら楽しげに揺れていた。
鏡越しに見続けるのは何だか罪悪感があったから、僕はまた単語帳へと視線を落とす。
「でさ。結構強い毒なんだって。食べたら吐いちゃうらしいよ」
宙に浮いていた紫陽花の毒が今になって戻ってきた。一瞬、何の話か分からなくなって戸惑った。
「うーんと、食べたいの?」
一先ずありもしないであろう話のタネを探る。もしかすると、何か意図があっての話題なのかもしれない。
「まさか。私だって吐きたくないよ」
どうやら、自分で食べたいわけではないらしい。ここで「食べたい」なんて言われても、どう返事をすればいいのか困るけれど。
「じゃあ、嫌いなヤツに食べさせるとか?」
「私ってそんなヒトに見える?」
君の声が少し膨れた。
「見えないけど。何か意図でもあるのかなぁ、なんて」
「別に深い意味なんて無いよ」
やっぱり。呆れる僕を差し置いて、君は「今日はよく喋るね」なんて笑っている。
「一回食べてみれば?意外と大丈夫かもよ?」
「やだよ、怖いし」
駄弁りながら、いつも通りの距離で僕と君は歩いて行く。
「意外だよね、ってだけ。あんなに綺麗なのにさ。毒があるなんて」
水たまりを大袈裟に飛び越えて、君が言った。
「そうかな。いかにも毒々しい色してるでしょ」
青、紫。僕の知っている紫陽花は毒々しい色をしている。少なくとも食べたいとは思えない。「赤とか黄色もあるんだってよ?」と君が言う。僕は赤と黄色の紫陽花を想像してみる。雨の中で、それらが花弁をゆっくり開かせるのを思い描いてみる。
「それでも毒々しいと思うな」
「そっかぁ」
カーブミラーに映る君は、傘の持ち手を小さく跳ねさせている。今度は空を見上げているらしかった。
「なんで雨の日に開くのかな、よりによって。」
突き当たりを曲がる時、背後から君の声がした。どんな顔をしていたのか僕には分からない。君は時々、そういう声で呟く。その度に振り返ってみようと思うけれど、一度も試したことはない。
紫陽花 空木 白 @utugihakusyu12345
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