二、あなたも、そうだったのではないですか
朝から美容に全振りしてプロの力も借りたから、たぶん出力は一〇〇パーセントを超えたはず。明日には剥がす予定のネイルチップを押さえつつ、真方が予約した中華料理店へと向かう。何を食べたいかと聞かれて、ぱっと頭に浮かんだのがフカヒレだったせいだ。
――違うんです。最近肌が乾燥しがちでコラーゲンを求めていたから、つい。
――ならいいだろ、摂取しろよ。
真方は笑って許してくれたが、違うのだ。本当は一緒にいられるなら居酒屋でもどこでも、こんなお高い中華料理店でなくても良かったのに。
敷居の高そうな外観を一瞥した視線が、ふと止まる。入口脇に置かれている獅子の大きな石像が、苦しげに呻いていた。取り出したスマホは十八時五十五分、約束の七時まであと五分しかない。真方はもう着いて、席で待っているだろう。
でも真方もこれを見た時に気づいているはず……いや、そうか。鬼の血を引く真方は神と波長が合わず、普段は神の存在を私ほど感じ取ることができないし会話もできない。真方が気づかなかったとすれば、これは神に関するものだ。
苦しげで気にはなるが、約束も大切だ。反故にするわけにはいかない。ひとまずの許しを得るために、そっと獅子像に触れる。
「ごめんなさい、神様。今は急いでいますので、あとでまた」
断りを入れた私に、俯いていた獅子像が勢いよく顔を上げる。その目が金色に光った瞬間、どこか深い穴へと落ちていくような感覚に襲われた。
聞き覚えのある音がしてぼんやりと目を開くと、目の前に美しい沢があった。切り立った大きな岩が犇めき合い、その隙間を清水が流れている。我が家の近くでもよく見る、上流の景色だ。
気づくと、私は分厚く重ねた敷き藁の上に寝かされていた。岩でごつごつしているはずが体が痛くないのは、この心遣いのせいだろう。
「目が覚めたか」
背後から聞こえた声に振り向くと、父とよく似たみずらを結った若い男性が立っていた。父より着物が粗末に見えたから、もう少し古くから存在する神かもしれない。
「はい。あの、私は」
「知っている、
名乗る前に返されて、驚く。
「あれほど派手に動き回れば、私のような末端でも耳に入る」
神は私の傍まで歩いてくると、平らな岩を選んで腰を下ろした。顔立ちは父と違うあっさりとしたものだが、清廉な印象ではある。ただ、表情には翳があった。
「あなたは、この沢の神様ですか」
「ああ、そうだ。古くよりこの沢の岩に身を宿していた。神籬のようなものだな。長らく自然とともに過ごし、人の子の営みに幸をもたらしてきた」
神が岩を撫でた手を翻すと、柔らかな風が私の頬を撫でて森の奥へと吹き抜けていった。神が自ら「末端」と言うのは自虐だろうが、それほど力は強くないのは事実なのだろう。この沢も、取り立てて有名な場所ではないはずだ。それでも、人間達に幸多かれと見守ってくれていたことには変わりない。この沢に生かされ、救われてきた者達は多かっただろう。
「しかしいつしか人の子は私の与えた恵みを忘れ、我が居場所を奪った。沢の流れは水路に変えられ、質の良い岩はみな売られていった。沢の神など誰も拝まぬ時代だ。岩に神が宿っているかもしれぬなど、誰が思おうか」
皮肉げに笑む神に、視線を落とす。今の仕事は、人間の所業を思い知る仕事でもある。
社会の発展は私達に快適と利益をもたらしてきたが、一方でこれまで何に支えられ尽くされてきたのかを忘れてしまう。数少ない人の子を愛す神を裏切り続けてできたのが、今の世だと言ってもいいだろう。
「私の宿る石は石材屋に売られ、異国の獅子へと姿を変えられた。本来とは違う見目形と名を与えられた上に、人の子にも獅子として認識される。それゆえに、私はあそこから逃れ出ることすらできぬようになった。今や、神の中でも神と見做されぬ半端者だ。お前のようにな」
酷な身の上に同情を寄せていた気持ちが、すっと引く。最後の言葉は、明らかな侮蔑だった。眉を顰めた私に、神はどことなく蔑みを含んだ視線で応える。別に、こんな対応は初めてではない。半神半人である私は、神にとっては「そういう位置づけ」だ。
「お前は、神でもなければ人でもない。神としても、今の私にも満たぬ粗末な輝きではないか。しかしたとえ『神もどき』であったとしても、お前が神の血を引くのは事実。人の子にやるのはもちろん、穢れた血を宿す輩にやれるものではなかろうよ」
昏い目が浮かべる嫉妬と侮蔑に腰を上げる。だめだ、ここから逃げなくては。岩の隙間にヒールを取られた靴を脱ぎ、森の方へと後ずさる。高かったが、仕方ない。
「私の妻となれ、玉依。私ほどお前にふさわしい相手はいない」
「お断りします。私の相手は、真方しかいませんので」
差し出された手を拒否すると、神は含んだ笑みを浮かべて指を弾く。傍らの空間が、ぐにゃりと歪むのが分かった。
「『それ』なら、ほかの女とよろしくやっているぞ」
映し出されたのは、どこかの店で私ではない女性と酒を飲んでいる真方の姿だった。この前話していた、檀家総代の娘かもしれない。くだけた様子の真方の笑顔に胸が痛んだ。
「人の心ほど脆く、変わりやすいものもない。信じて失うのは目に見えている」
少しずつ近づいてくる神に合わせて、ゆっくりと後ずさる。
私に神の血が流れているとしても、神殺しが許されるのは相手が神の理に反することをしたときのみだ。でもこの程度ならそれには入らないし、入っていたとしても私の力では太刀打ちできない。力を失っているとはいえ、相手は純然たる神だ。父も、何が起きているか分かっているだろうが、介入できないだろう。力の限り走って逃げたところで、ここはこの神の庭だ。
こんなことになるなら、最後に。
胸に浮かぶ後悔はどれも、自分の不甲斐なさに関するものだ。真方に許されるのに甘えて私は……私は、また間違った選択をするところだった。馬鹿か、私は。
真方が「行かない」と言ったのなら、行くわけがない。
あれは、私の不安を利用して見せた幻だろう。真方が私を裏切るわけがないのだ。
「真方は、私を裏切りません」
「浅はかな。変わっていくのが人心だ。捨てられて泣きを見るのはお前だ!」
神の言葉は確かに私へ向けられているものではあったが、たぶんそれだけではない。かつて人の子を信じ裏切られた、痛みの行き場がないのだろう。
「もし本当にそんな未来がきたとしても、私は真方を愛したことを悔いません。命を賭けても守りたい相手に出会えたことを、幸せに思います」
言い返した私に、神の表情が歪む。着実に距離は詰められていくが、もうほかに策はない。
「あなたも……あなたも、そうだったのではないですか」
ただその思いが、石像に閉じ込められて苦を強いられているうちに変わってしまっただけではないのか。それなら。
「ああそうだ。かつての私は人の子を慈しみ、我が命のように愛していた。このような仕打ちを受けるとは思わなかったからだ!」
「あの石像は必ず私が引き取って、なんとかします。ですから」
「もう無理なのだ、玉依」
さっきの強い口調とは打って変わった当たりの弱い声に、神をじっと見つめる。神が俯いた途端、周囲の景色が急に色褪せる。さっきまで平和で穏やかだった世界が一転して、不穏なものへと変わっていた。ぱりぱりと小さく聞こえ始めた音に視線を戻すと、神の肌がひび割れて、少しずつ欠け始めていた。
「己ではもう、堕ちていく身を止められぬ。私を救いたいのなら、この手を取ってくれ。頼む。これが最後なのだ」
再び差し出された手もひび割れて、小指の先は既に黒いものが覗いている。神が堕ちていく姿を見るのは、もちろんこれが初めてだ。哀れには思うし、救いたいとも思う。でも、その手を取ることはできない。
「お許しください、私には」
「これほどまでに苦しむ私を前に、お前は……お前は!」
悲痛な声は絶叫に変わり、真っ黒になった禍々しい手が私を掴もうと大きく開かれた。
「吾が鬼よ!」
限界を悟り召喚の言葉を口にした瞬間、目の前まで迫っていた手が弾き飛ばされる。馴染んだ錫杖の音がした。
「呼ぶのが遅せえ」
隣に立ったのは、いつもの姿とは似ても似つかぬ姿の真方だ。灰色の硬い皮膚に覆われた屈強な体はおそらく二メートルより高く、金色の瞳が爛々と輝いている。その額に生える角は三本、口元からは牙が覗いている。見た目は鬼だが、私の血を受けた今の真方は鬼神の位置にある。だから今はこうして、神の領域にも足を踏み入れ対峙できるのだ。
「穢れた血が、我が神域に足を踏み入れるとは」
「堕ち神に言われたくねえよ」
真方は鼻で笑い、錫杖を手に神へ向かっていく。今回の神は力の弱い神だから、真方が圧倒的に強い。神は細い腕で錫杖を受け止めるだけで精一杯らしく、その間にも体中から鱗のようにひび割れた肌がこぼれ落ちていく。できれば、完全に堕ちる前に食い止めたい。
ただ、鬼神であっても神殺しは禁忌だ。堕ちた神でも、神の為すことは理の中にある。堕ち神にも悪神にも負を司る役割があるのだ。私にできるのは封じることのみだが、私は人でもあるせいで領域を持たない。今頼れるのは、父しかいなかった。
「お父さん!
『構わぬ』
いつから見守っていたのか、即座に与えられた許可に安堵する。
「相変わらず娘には死ぬほど甘えな、クソ親父」
『お前もついでに封じられてしまえばよい』
真方の悪態に、父は冷ややかに返す。今はそんな会話をしている場合か。
神を封じるには場所の確保のほかに、名前が必要だ。名を知ることで、従わせることができる。ただ、そう簡単に応じる相手ではない。
「神様、堕ちる前にあなたを助けたいんです。氷雪山へ移しますから、名前を教えてください」
「そのようなもの、とうの昔に忘れたわ」
真方の錫杖に押し潰されそうになりながら、神は苦しげな声で返す。顔も半分以上が崩れ落ちて、黒く禍々しいものに変わっている。早くしなければ、間に合わなくなる。
「真名でなくとも構いません、人の子はあなたをなんと呼んでいたのですか」
再び尋ねた私を、神は残った目できつく睨む。その気持ちは分かるが、最後にもう一度だけ信じてほしい。
「人の子を信じられないのなら、私の半神の部分を信じてください。私はあなたを必ず、あの石像から救い出します。あなたが清い流れの傍で生きられるよう、力を尽くします」
「ならば誓え、生涯私のことを忘れぬと!」
代わりに求められたのは、命でも婚姻でもなかった。それが、この神の心からの願いなのだろう。長い時の中で自分を忘れていく人の子を、どんな思いで眺めていたのだろう。
ただその願いなら、確実に叶えられる。
「忘れません。あなたの身が氷雪山にある限り、あなたは稲羽の神ですから」
氷雪山に封じるとは、つまり稲羽の奉る神が二柱になるということだ。忘れるわけがない。
「……そういうことか」
神がふと笑い、表情が和らぐ。真方は神から離れ、再び私の元へ戻った。
「その代わり、必要な時にはそのお力をお貸しください」
稲羽に祀られる以上は、そういうことでもある。忘れない代わりに、働いてもらう。
神は頷いて、ゆっくりと体を起こす。堕ちかけていた神体は再び滑らかな肌を取り戻し、景色は美しい沢になった。小指の先に小さく戻らない闇は見えるが、ぎりぎり間に合ったと言っていいはずだ。
「よいだろう。人の子は、私をキヨサワノカミと呼んでいた」
伝えられた名に、頷く。おそらくは清沢神だろう。この美しい景色を見れば分かる。
「氷雪山の神よ、その名の下にキヨサワノカミを封じよ」
私の声に応じ、父はキヨサワノカミの上に雪を降らせる。キヨサワノカミが両手でそれを受け止めたとき、その姿が消える。そして私の視界も、消えた。
心地よい揺れにぼんやりと目を開くと、暗がりの中にぼんやりと真方の顎が見えた。驚いたあと、こうなっている事情を思い出す。無事にキヨサワノカミを父に預けられたのはいいが、こっちの方は失敗してしまった。
「ごめんなさい、真方さん。食事、台無しにしちゃいましたよね。大丈夫でしたか」
「『振られました』って、金だけ払って出てきたわ。憐憫の視線は浴びたけど責められなかったから、気にすんな」
今は寺へ向かっている最中か、街灯の光で見える景色には見覚えがある。目が覚めたしいつまでもこうしているのは申し訳ない、と体を起こそうとして気づく。バッグはお腹の上に置かれているが、靴がない。
深い溜め息をついた私に、真方は「なんだ」と尋ねる。
「靴をあちらに置いてきちゃいました。大事な時に履こうと思って取ってたお気に入りの靴だったのに」
八センチのピンヒールは少し背伸びした選択だが、今日選んだベージュのワンピースにすごく似合う一足だったのだ。
「たぶん髪もぼさぼさだし、メイクも崩れてますよね。あっ、ネイルチップも剥がれてる!」
慌てて確かめた指先から二つ失われているネイルチップに、がくりと項垂れた。せっかくプロの力を借りて出力を最大限まで上げてきたのに、全部無駄になってしまった。泣きたい。
「気にすんな。あっち行ったときに『すげえ気合入ってんな』と思って見てた」
「でも、もう靴脱いでたじゃないですか。すごいショック……せっかく出力一二〇パーセントだったのに」
テープの糊が残った素の爪を撫でていると、泣きたくなってくる。あそこで声を掛けなければよかった、とは思わないが、ではどうすれば良かったのだろう。こんなことを比べるのも間違っているのだろうか。
「なあ、玉依」
真方は私を呼びつつ、辿り着いた寺の石段をのぼり始める。普通の人には重労働だろうが、真方はこう見えて日頃の修行を欠かさないストイックさもある。私を抱えて石段五十段をのぼり切るくらい、造作もないことだ。
「俺はお前が出力何パーセントだろうと、別に気にしてねえよ。もちろん、毎度気合い入れてくれんのはありがてえと思ってるって前提でな。ただ、むしろ俺はそれより」
山のように想像できる「気に食わないこと」が脳裏を煩いほどに舞う。真方がどれを選ぶのか、緊張で身が縮んだ。どうか、ショックの少ないもので。
「毎回、俺が聞いてなさそうな場面を選んで俺に聞かせるべき台詞を放ってる方が気になるんだわ」
続いた指摘に、え、と小さく声が漏れる。聞いてなさそうな場面……聞かせるべき台詞……? 脳内にあったどれとも違うそれに、思考が止まった。
真方はピンとこない私を初めて見下ろして、にやりと笑う。
「愛の告白なら、ちゃんと俺に言ってくれ」
与えられた答えに、即座に記憶が蘇る。
――もし本当にそんな未来がきたとしても、私は真方を愛したことを悔いません。命を賭けても守りたい相手に出会えたことを、幸せに思います。
……聞かれて、いたのか。
「あの、いつから?」
急に熱くなった頬を押さえ、どくどくと打つ胸に長い息を吐く。あちこちから、汗が吹き出すのが分かった。だめだ、メイクが崩れてしまう。
「お前が奴のとこに連れて行かれた時から。主従で繋がってんだから、主になんかあったら察知するに決まってんだろ。店を出て、領域を眺めながら呼ばれるのをずっと待ってたんだよ」
つまり、全部ではないか。あの台詞も、私があの幻に不安になっていたところまで全部。
「……ちょっと、今日は帰ります」
「逃がすかよ」
恥ずかしさに体を起こした私を抱え直して、真方は笑った。
「よく、『人を見極めるには言葉じゃなくて行動を見ろ』って言うだろ。その言葉に従うなら、お前の行動は一貫してんだよな。会う度に毎回金掛けて気合い入れて来るし、俺のために命を張るし。特別扱いなのは分かってんだ。だから、それで良かったはずなんだけどな。俺も十分、面倒くせえわ」
真方は石段を上りきると、ふう、と肩で大きく息をする。暗い境内は冴え冴えとした冬の月に照らされて、雪も積もっていないのに明るい。
――人の心ほど脆く、変わりやすいものもない。信じて失うのは目に見えている。
確かに、少しも不安がないわけではない。未来は、私の力では予測不能だ。でも一方的な疑いと不安で間違った道を選ぶようなことは、もうしたくない。
「下ろしてください、ちょっとなら大丈夫なので」
頼んだ私に、真方は敷石の上に私を下ろす。覚悟していたとはいえ、芯から凍えそうな冷たさに小さく震えた。それでも、顔だけが冷めない熱で火照っている。
「恥ずかしいので、ちょっと体を屈めて耳を貸してもらえますか」
ぼそぼそと要求すると、真方は素直に体を折り曲げて顔を寄せた。そっと手を伸ばして触れた頬は滑らかで、私より熱い。でも、私も頬なら同じくらい熱いはずだ。
早鐘を打つ胸に一つ息を吐き、私も顔を寄せる。勇気とは、こういうときのためにあるはずだ。がんばれ私、こんなことで死にはしない。
「大好きです」
小さく告げて、軽くキスをして終わった……はずが、終わらなかった。驚いて開いた目を閉じ、掻き抱く腕に体を預ける。
「分かってんだろうけど、俺も死ぬほど惚れてるからな」
キスの間に聞こえた告白に、小さく頷く。勇気を出して、良かった。じわりと胸を満たしていく温かな感覚に、涙が伝った。
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