僕と人魚
ずゆ
僕と人魚
人魚は、石の枕に耳を当てて、そのまま眠るように死んだ。寝息の有無は絶えず打ち付ける波音にかき消されるから確かめることはできないし、彼女の肌はもとより、真冬の海くらいの温かみしか持ち合わせていない。彼女がこと切れたことを証明するものは何一つとしてその海岸に転がっていなかったが、彼女は確かにそこで死んでしまった。
話は少し戻るけど、さっきも言った通り僕は魚を食べたことがない。僕は駅の下のテナントに新しく入ったカフェで友人にそう話していた。どうしてそんな話をしていたのかは覚えていない。多分何かの拍子で食のテーマになった。過程はどうあれ、僕は魚を食べるという行為に対してひどく消極的だ。食べないことに(偏執的なまでに)積極的と言えるかもしれない。別に僕はアレルギーがある訳でもないし、宗教的なタブーという訳でもない。僕の宗教観は一般的な日本人らしく曖昧模糊としている。
魚を食べるというのは、犬や猫を食べるのと似ている。僕にとっては、ということだけど。だから僕は決して魚が生理的に苦手な訳ではない。感情一つを無視すれば魚を食べない理由は何もないけど、僕にとってはその感情が一番大切なのだ。
話が点々として申し訳ないけれど、僕は一年のほとんどを本土から少し離れたほとんど無人島みたいな島で過ごしている。その島に暮らしているのは僕だけで、買い物に行こうとすると、年期の入ったエンジンを積んだボートで二十分くらい海に漕ぎ出す必要がある。お金持ちが休日を過ごすためのプライベートアイランドみたいな所だけど、電気は通っているし、夜は静かで暗い。特に連続的な人との関わりや継続的な仕事を求めなければ、理想的な場所だった。三ヵ月前、僕はその島で人魚と出会った。
「人魚?」と友人は怪訝そうな顔で聞き返した。
「人魚」
僕は話を続けた。
日の沈むのを海の反射で眺めながら、僕はいつものようにテラスの椅子に腰かけてコーヒーを飲んでいた。僕には豆や焙煎、砂糖やミルクなんかのコーヒーの味にまつわる詳しいこだわりはないけど、そこで暮れの海を眺めながら飲むコーヒーは特別好きだった。
人魚が現れたのは、海が真っ黒に変色してからだった。僕ははじめ、砂浜で揺れるように動くそれを座礁鯨か何かだと思った。彼らは三ヵ月に一度くらいのペースでやってきて、放っておくと砂浜で爆発して内臓をぶちまける。さらにそれを放っておくと蜂蜜を腐らせたような酷い匂いがしてくるから、僕はなるべく早い内に木の棒か何かで押しやって海に帰すようにしていた。
やれやれ、と思いながらたっぷり時間をかけてコーヒーを飲み干し、ようやくサンダルを履いて砂浜に降りた。
波打ち際には人魚がいた。人魚と呼ぶのが最も適切な表現だと言える。なぜなら彼女は、人魚という言葉から連想される要素を全て備えていたのだ。白い陶器のような肌は腰で終わり、そこから下には花緑青の鱗で覆われたひれが続いている。
「あれ、人がいたんだ。ごめんなさい」
僕のサンダルが砂を踏む音に気が付いて言った。彼女は僕のことを全く恐れていないようだった。澄んだその瞳の青は、その気になればお前のことなんて海の底に沈めてやることだってできるんだぞという余裕か、あるいは自分の命に全く関心を抱いていない空虚のどちらかを象徴しているようだった。
「いや、いいんだ。僕以外の誰もいない」
僕は降りてくるまでの途中に拾っておいた木の棒を捨てながら答えた。
「そうなんだ、良かったら少し話さない?」
彼女の声は波のさざめきの中でも聞き取りやすい音をしていた。例えるなら人込みの中で糸電話を使っているような感じだ。
その提案は僕としても望んでいたものだった。人魚なんて初めて見たし、聞いてみたいことはざっと思い付くだけでも十はあった。
その昔に人魚の肉を食べると不老不死になるという噂が流れ、その肉が高値で売れるからと人魚の大量虐殺が起こってから、人魚は人々の前に姿を現すのをやめた。今ではすっかり空想上の生き物として扱われるようになったのは、そういう人の醜さが由来しているそうだ。
「人魚だけでなく、件やひびり鳥もそう。人間は人間同士だけでなく、沢山の生き物を淘汰してきて、それを忘れる」
「でもそれを僕に話してしまってよかったの?」
「あなたはお金に執着がないという顔をしているから、いいかなと思って。違った?」
確かにそうだった。僕がこの無人島という社会性の欠落した場所で生活できているのは、僕が幼い頃に両親がたらふく金を残して死んだからだった。そのせいで僕は一生をかけても使い切るのが難しいお金を持っている。
「それに全ての人間がそうだとも思ってない。良い人もいるし、悪い人もいる」
僕らはそれからのほとんど毎日、大体夕方の五時くらいに海岸で話をした。僕らはそれを暮れの海の色で判断していたから、もしかしたら冬至に近づくにつれて時間は早まっていたのかもしれないけど、彼女は時計の尺度では生きていないし、僕としても時計なんて意識的に確認しなければ一週間は目につかないタイプだったから、それが丁度良かった。
三ヵ月くらい毎日話しても、僕らの間に話題が尽きることはなかった。時々何かの手違いがあったのではないかと疑うくらいに、僕らの会話が弾むこともあった。僕は病院で生まれ、彼女は海で生まれた。彼女は水の中で生きてきて、僕は人の中で生きてきた。しかし僕らは魚を食べたことがなかった。
「もうすぐ死ぬんだと思う」
いつか、いつだっただろう。夏と冬の極めて狭い、借りていかれた本が挟まれていた本と本の間くらいの狭さに存在していた秋の会話だったと思う。彼女はそう言った。
「人魚も死ぬんだね」
「それはそうだよ。結局人魚を食べた人たちも、不老不死になんてなれずに死んでいったんだよ」
「ところでもうすぐって、どれくらい?」
「この冬には」
言った通りに、彼女はその年で一番寒い夜に死んだ。僕と弱々しくいくつかの会話を交わし終えると、眠るようにこと切れた。
彼女の身体は最後まで若々しい女のままだった。宝石のように透いた尾ひれもそのままに、命だけが失われたようだった。
「人魚も海に帰したの? 座礁鯨みたいに」友人はセットで頼んでいたこぢんまりとしたケーキを口に運びながら聞いた。
「いいや」と僕は答えた。「食べた」
「食べた?」友人は不出来な野良犬を見るような目で僕を見た。
彼女の死体を両手で持って、キッチンに寝かせて包丁を入れた。彼女の頭から尾の先まで、僕は食べつくした。食べつくすと僕は、すっかり寂しくなっていた。
僕と人魚 ずゆ @Yuzuriel
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