第2話 自転車操業

 ある人は、両者が対になっているものというものとして認識しているものを、いくつか思い浮かべることができるが、そのうちのいくつか思い浮かんでくるものとして、

「ミステリー小説によく浮かんでくるものがあるな」

 というものであった。

 その一つが、

「殺人計画メモ」

 なるものであった。

 そこには、村の中で、

「相対」

 あるいは、

「正対」

 している者の名前が書いてある。

 その名前のどちらかがいつも殺されていくわけだが、ストーリーとしては、

「それまで、この事件が、無差別殺人で行われている」

 と思っていたのだが、実際には、

「その殺人計画メモ」

 の通りに行われているということであった。

 ただ、それは、事件の背景を見れば、実に難しいことであり、いかに、

「その片方だけをうまく殺すか?」

 というのは、

「最初から、その二人のうちのどちらかを狙うか」

 ということでなければいけないはずなのに、それをうまくやっていたのだ。

 そこには、作者による、

「叙述トリックが含まれていたわけで、読者が騙された」

 といっては語弊があるかも知れないが、内容としては、そういうことだったのだ。

 そういう意味で、

「対になるもの」

 というのが、実は。

「争いの種になる」

 ということを利用しての犯罪であったが、

 もっといえば、

「無意識のうちに、対になるものは、相手を嫌悪し、そこに殺意が生まれる」

 ということもあるということである。

 それをうまく利用するという考えがあることで、このような、殺人計画ができあがり、この殺人計画メモというものを作ることで、さらに、

「相手に対しての殺意を、余計に増幅させる」

 という暗示が含まれているのかも知れない。

 この話には、

「宗教的な発想が含まれていた」

 そもそも、

「自分と敵対している」

 いや、

「ライバル関係にある」

 という人を殺したいと思ったが、村の中で普通に殺害すれば、一番最初に疑われるのは自分である。

 ということで、それぞれに自分と同じ発想を持っている連中の何人かとの、

「共同謀議の犯罪だった」

 といえるだろう。

 ただ、そこに、

「動機という意味での接点はない」

 といえる。

「ただ、お互いに、対になるライバルを邪魔だと思い、それぞれで殺人計画を練っていたということを、誰かその中の一人が気が付いて、それぞれに計画を打ち明けて、皆の犯罪を一つにすることで、それぞれ連続殺人に見せかけることで、捜査のかく乱を狙う」

 ということを考えたのだ。

「殺人事件において、共犯が多ければ多いほど、露呈する可能性は大きい」

 と言われる。

 この事件の場合は、

「共犯」

 というわけではないが、

「皆それぞれ計画した犯行を、一人がとりまとめ、まるでコンダクターとして、全体を取り仕切る」

 ということが、この事件の特徴であった。。

 だから、

「もし、計画が少しでも漏れると、致命傷になりかねない」

 ということでもあった。

 そもそも、警察としても、

「確かにこの村は、対になる人が多く住んでいる」

 というところが特徴の、変わった村だという認識はあった。

 しかし、それが、殺人の順番になっているということまでは考えなかった。

 事件を見ていくと、殺害方法としては、

「毒薬による殺人」

 というものであり、

「無作為に配られたものの中の一つの食事に、毒が入っていた」

 ということで、あくまでも、

「無差別殺人」

 ということであった。

 実際には無差別ではなく、

「配膳の方法に、昔からの村の、掟のようなものがあり、村人は分かっていたが、警察は知らなかった。何といっても、残った方は、自分が犯人なのだから、言い出すわけはない。しかも、それ以外の人も、そのことを口にしてしまうと、自分が犯人ではないかと警察に疑われるから、口にすることもない」

 ということであった。

 そして、何といっても、問題は、

「この村が閉鎖的な村だ」

 ということである。

 それもそうだろう、

「昔から続く、旧態依然とした村というのは、閉鎖的なものだ」

 と決まっているということである。

 それを考えると、

「事件をカモフラージュするには、この村の体制であったり、特徴は、実にうまくできている」

 といってもいいだろう。

 しかし、ある時、この、

「殺人計画メモ」

 というものが見つかったことで、

「殺人のパターン」

 が変わった。

 それは、警察から見れば、

「犯人側にとっては都合の悪いことで、それをごまかすために、殺害方法を変えたということではないか?」

 と思われたが、実は逆だった。

「殺害方法を、楽な他の方法にすることで、警察が考えたような方法にミスリードできると、この殺人計画メモを示すことで、警察を錯乱できる」

 という、逆を考えていて、しかも、それが、

「一石二鳥」

 という考え方になるのであった。

 それだけ、犯人の中の主犯というのは、

「頭がいい」

 ということになるのだろう。

 もっと言えば、

「この犯罪の動機としては、対になるものが、反発する習性がある」

 ということであり、しかも、

「その習性というのは、旧態依然とした昔から受け継がれていたところに潜んでいるものである」

 というところからくるものであった。

 そんな、

「旧態依然とした村」

 に起こる殺人事件というのがあるかと思えば、今度は、殺人事件が主題ではなく、どちらかというと、SFチックであり、オカルト的な話がテーマとなっているものもあった。

 その話は、もちろん作者が違っていて、作者は、副業で、

「学者をしていた」

 ということであったが、実際には、

「学者が本業で、小説家は、副業なのかも知れない」

 ともいえたが、

「作家としての収入もかなりのもので、売れっ子作家として、十分なだけの名前の売れ方であった」

 といえるだろう。

 いつもトリックには、

「冷静に見れば、殺人事件を探偵が解決する」

 というストーリーにしか過ぎないのだが、そこで使われるトリックが、

「科学的に理路整然とした内容だ」

 ということで、

「そう簡単に作者の意図が分かるものではない」

 ということで、

「途中がなかなかわかりずらい」

 という難点があったのだが、

「実際に読み込んでいくと、最後には、読者が、感心させられるストーリーになっているのである」

 そこで、読者は、

「ああ、そういうことだったのか?」

 と感じるのだが、そこには、

「なんだ、そういうことか」

 という思いも若干あるのだ。

 しかし、途中のダラダラ差がすることで、最後に、

「なんだ」

 と思わせることでも、すっきりさせられるという発想に結びつくということで、そこまで落胆することはない。

 元々、この小説家は、

「小説は趣味で書いている」

 というくらいに気軽に書いていた。

 本来であれば、

「書きたいことを書く」

 というのは、小説家のプロでは、なかなかできることではない。

 何といっても、出版社との契約があるので、

「出版社に、売れる小説」

 と思わせないといけないわけなので、それでも、

「書きたいことを書く」

 ということを貫きたければ、

「この作家にしか書けない」

 というような、独創的な作品で、しかも、それが、

「売れる」

 というものでなければ、なかなか成立はしないだろう。

 そういう意味で、

「この作家は天才肌ではないか?」

 と言われているのだった。

 そもそも、学者なので、

「科学的な知識は持っている」

 ということで、

「SF的な色を、ミステリーに埋め込む」

 ということが得意な作家で、これまでに、

「法医学」

 として、これまでの探偵小説のトリックの部分を打ち破るかのような小説はたくさんあったが、

「自然現象などを科学的に解明することをミステリーと結びつけることで、SFチックな話に仕上がる」

 という新しいジャンルを確立させていたのだ。

 しかも、最近では、そこに、

「都市伝説的な発想であったり、伝承が加わることで、オカルトのような話が出来上がってきた」

 というところから、

「彼の小説のバリエーションが増えていった」

 ということである。

「あの先生はその発想をどこから?」

 と考える人も多いのだろうが、そもそも、

「本職は学者」

 という意識を誰よりも本人が持っているのだから、作家稼業というのは、

「趣味であり、そして、実益を兼ねている」

 ということから、まわりの人には、

「どっちが本職なのだろう?」

 と感じさせるだけの力を持っているということなのだろう。

 それを考えると、出版社の方も、

「先生には、好きなようにさせておけばいい」

 ということで、

「締め切りさえ守ってくれれば」

 ということで、内容に関して、出版社が口出すことはない。

 もちろん、出版に際しての、

「企画会議」

 なるものはあるのだが、それは、

「作者側からの提案」

 というだけで、それに、出版社が注文を付けることはない。逆に、

「ほう、それは面白いですね」

 ということになり、さっそく、執筆活動に充てられるのだ。

 締め切りをこの先生は破ったことはない。

 なぜなら、

「自分の書きたいことを書いているのだから、納得がいかない」

 ということはないのだろう。

 というのは、

「小説家が途中で詰まってしまったり、書けなくなる」

 というのは、

「自分の作品を見失った」

 というのも、ウソではないだろうが、それよりも、

「自分で納得して書いているわけではない」

 という自分の立場に、書いている間、気が付いてしまうということからであろう。

 最初から分かっていて書いているはずなのに、一定の執筆期間の間には、

「考え方の分岐点」

 のようなものがあり、立ち止まるという、

「段階」

 がそこには存在しているのかも知れない。

 それを思えば、

「小説をプロとして書く」

 というのが、実に難しいかということになるからだ。

「小説家になりたい」

 であったり、

「自分の本を出したい」

 と考える人は、昔から一定数はいただろう。

 しかし、ある時期、ちょうど今から20年くらい前の時代くらいから、急にそう思う人が増えてきたのだ。

 元々は、

「バブル崩壊」

 というものが、社会全体の構造を変えてしまったことで、

「それまでの人の生活リズムや習慣をも変えざるをえない」

 ということになってきたのだ。

 そんな中で、それまで、

「仕事だけをしている」

 というのがバブルの時代だった。

 それは、

「事業を拡大すればするほど儲かる」

 ということが、根底にあった。

 つまり、

「単純計算が成り立つ世界」

 だったのだ。

 だから、

「仕事をすることが成果となって、自分の仕事の報酬も得られる」

 ということと同時に、

「これが生きがいだ」

 ということで、

「仕事というものだけが、自分のすべてだ」

 と思うことが、一番だということだっただろう。

 つまり、

「正比例のグラフ」

 ということで、

「信じたことをしていれば、成果は出てくる」

 というものであった。

 もっとも、それが、

「実態のないもの」

 ということで、

「絵に描いた餅」

 である二次元を、まるで三次元というようなだまし絵を見せられた気分だったのだろう。

 そんな、実態のないものが、

「永遠につながっていく」

 ということなどありえない。

 というのは、

「合わせ鏡」

 であったり、

「マトリョシカ人形」

 という発想のように、

「どんどん小さくなっていくのだが、それは、絶対にゼロになるものではない」

 ということで、それは、数式に当てはめれば分かるというものだった。

「整数から整数をいくら何度も割り続けたとしても、絶対にゼロになることはない」

 という当たり前の数式で、これは、

「数学以前の算数として、小学校で習う発想だ」

 ということだ。

 しかし、普通の人は、このような数式を一般生活に照らして考えることをしないので、

「一歩先」

 という発想が思い浮かばないのだろう」

 それを思うと、

「天才と凡人は紙一重」

 という人がいるが、

「一歩先を見るという発想が、目の前にある壁を破るという発想になるかならないか」

 ということであることに気づかないのであろう。

 それが、

「怖いからなのか?」

 と思える。

 誰でも。

「目の前にあるものが見える範囲でしか、怖くて進めない」

 と感じるに違いないからだ。

 そう感じることで、

「永遠というのは、ありえないことだ」

 と思い込んでいるのかも知れない。

 それが、一種の、

「発想と妄想の矛盾」

 というものではないだろうか?

 バブルが弾けると、それまで仕事ばかりをしていたものが、

「やればやるほど成果があがる」

 と言われていたが、その成果が限界に達した。

 それにより、先に進むことができなくなり、今度は、

「やればやるほど、赤字になってくる」

 という時代になった。

 となると、

「売上で利益を出すことはできない」

 という時代になり、そのために、

「利益を残すには、売上ではなく、経費を節減することでしかできない」

 ということになると、一番の問題は、

「人件費」

 ということになる。

 しかも、仕事の量が減るわけである。

 これまでのように、

「やればやるほど」

 という、

「やれることがなくなってきたのだ」

 どこの会社も、そんなことが分かってくると、仕事をしなくなる。

 そして、経費節減に躍起になるというわけだ。

 そのため、

「人員整理が行われる」

 それをリストラというのだが、この頃から言われ出した言葉だった。

 リストに走ると、会社は様々な方法で、

「首切り」

 を行う。

「飴とムチ」

 を使ったりするだろう。

 一つは、

「窓際に追いやって、仕事をさせずに、辞めます」

 と言わせる、

「ムチの方法」

 であり、または、

「退職金に色をつける」

 ということで、退職者を募る、

「早期退職者募集」

 という、

「飴という方法」

 を駆使して、会社は身を軽くしようとするのだ。

 そして、残った人間で、何とか回さなければいけないので、それはそれで大変だ。

「今までまったくかじったことのない部署の仕事までしないといけない」

 ということになり、しかも会社からは、

「残業はしてはいけない」

 と言われているのだ。

「仕事を家に持って帰ってするか?」

 あるいは、

「黙って会社に残るか?」

 ということであるが、それも、

「経費節減と、見つからないようにするために、スポットライトのようなものを用意して、薄暗い明かりの中で仕事をしなければいけない」

 ということになるのであった。

 それは、実に惨めなもので、要するに、

「辞めるも地獄、残るも地獄」

 という時代になったのだ。

 そんな時代なので、給料も一気に下がった人も多いだろう。

 しかも、賞与などもない。

 それでも、仕事は、やっているうちに慣れてきて、

「残業をしなくても、こなせるようになった」

 という時代がすぐにやってきた。

 というのは、会社が、いや、世間の雇用体制が変わってきたからだ。

「派遣社員」

 という名前の、

「非正規雇用」

 という考え方が出てきたからで、彼らは、

「正社員ほど給料があるわけではなく、派遣会社から派遣されるから派遣会社ということになり、契約は、派遣会社を通して二なるので、アルバイトなどと比べて、その人が何かをした時の保障は、派遣会社が持つ」

 ということになるのだ。

 それは、今までの時代と大きく変わったことを示すもので、

 それまでの会社は、

「終身雇用」

「年功序列」

 という体制でもっていた。

 つまり、

「一旦会社に入ってしまえば、定年まで務めを果たすというのが、当たり前のことであり、それが正しい道だ」

 と言われてきた。

 だから、

「会社を辞める」

 ということは、社員にとって、決していいことではなかったのだ。

 そう、これは、

「プロ野球の世界でも、いえることなのかも知れない」

 と思われた。

 理由は違うが、それまでのプロ野球というのは、

「一人前の投手は、先発完投が当たり前」

 と言われていた。

 しかし、途中から、

「先発ピッチャー」

「セットアッパー」

「クローザー」

 などという、分業制になってきた。

 これは、適材適所ということもあるだろうが、サラリーマンの世界においても、

「実力主義」

 という考え方とも、あいまったのかも知れない。

 昔のような、年功序列であれば、

「ある程度の年齢になれば、仕事ができるできないにかかわらず、順当に出世していく」

 ということであり、

「まるで社会主義のようではないか?」

 と考える人もいただろう。

 確かに、資本主義というような社会であれば、

「自由競争」

 というものが基本なので、

「できる社員は、どんどん出世していき、給料も高くしてやらないと、会社自体が、成長しない」

 という、外国の、

「合理主義と、自由主義というものが結びついて。それが、会社の発展につながる」

 ということにはならない。

 何といっても、

「終身雇用」

「年功序列」

 というのは、昔からの日本の伝統というもので、それがいいか悪いかは答えを出すのは難しいだろうが、少なくとも、

「自由経済」

 ということであれば、

「実力主義」

 ということではないだろう。

 ただ、時代は、皮肉なことに今は、自由競争の時代に入ってきていて、

「終身雇用」

「年功序列」

 という言葉は、

「すっかりなくなってしまった」

 といってもいいだろう。

 つまりこれは、

「望む望まないにかかわらず、結局、時代が、それを望んだ」

 ということで、

「自由競争」

 という状況ではないが、

「終身雇用」

 などという昔からのものは、

「すでに死語になってしまった」

 ということになるのであろう。

 バブルが弾けてすぐ」

 というそんな時代には、

「残業をしないかわりに、余った時間でサブカルチャーにいそしむ」

 という人が増えてきた。

 バブルの時代は、

「企業戦士」

 と言われ、

「24時間戦えますか?」

 と言われていた時代だったので、その時代は、

「給料はたんまりもらえるが、それを使う時間がない」

 ということで、お金はあったということである。

 そこで、

「将来、実力主義になるだろう」

 と言われたこともあって、

「勉強して資格を取ろう」

 という人が増えてきた。

 その頃に普及してきた

「パソコン教室」

 であったり、従来から人気があった。

「英会話教室」

 などというのが流行り、

「駅前に数件の教室がある」

 と言われるほど、教室がたくさんあった時期があった。。

 その頃のサブカルチャーは趣味とも結びついていて、

「フィットネスクラブ」

 も流行ったりした。

「健康こそがこれから大切」

 と考えていた人も多いことだろう。

 そんな中、小説執筆というのも、静かなブームだったようだ。

 何といっても、

「お金がかからない趣味」

 ということだったからだ。

 いくら、バブルの時代に貯蓄があるとはいえ、

「一生遊んで暮らせるだけのたくわえなどあるわけもない」

 ということで、

「できるだけ楽しむ」

 ということを考えれば、今まで考えたこともないであろう、

「小説執筆」

 ということにひそかにあこがれている人が結構いたということになる。

 ただ、問題は、

「小説家になる」

 あるいは、

「本を出したい」

 ということに関しては、漫画家にも言えることだが、結構ハードルが高いというものであった。

 方法としては、

「名のある出版社の賞に入賞する」

 という方法か、あるいは、

「持ち込み原稿を認めてもらうか?」

 という方法しかない。

 名のある出版社の賞というのは、それこそ、入賞は難しい。

 それまでのように、

「本当に小説家になりたい」

 と思うう人だけが応募していたものが、

「にわか」

 でなりたいという人まで応募するようになると、今までの数倍の応募者になる。そうなると、本当に、

「狭き門」

 ということになるだろう。

 ただ、実際には、にわかに部分の人は、こういうと偏見になるのかも知れないが、

「にわかはにわかでしかない」

 ということで、文章作法もしっかりしておらず、誤字脱字もひどかったりして、審査するひとから見れば、

「舐めてるんじゃないか?」

 という原稿が多いということだ。

 何しろ、

「軽い気持ちで、やるのだから、遊び半分と思われても仕方がない」

 そんな連中は、最初から眼中にはないので、実際に審査を受ける資格があるのは、

「以前からずっと応募を続けていた人だろう」

 ということになる。

 しかし、途中から、

「ライトノベル」

 であったり、

「ケイタイ小説」

 などというものが出てくると、

 そこから先は、

「そのブームに嵌った人が受賞する」

 ということになってくる。

 これは、一過性のブームなのかも知れないが、それでも、

「それだけラノベやケイタイ小説というものが、一世を風靡したことで、市民権を得た立派な小説のジャンルだ」

 といえるのではないだろうか。

 それを考えると、

「時代を作るのは、それにかかわる多勢なのではないか?」

 ともいえるだろう。

 つまり、

「一つの勢力」

 ということで、その力を侮れないということだ。

 ただ、それでも、何とか新人賞を取って、小説家としてデビューできたとしても、それはあくまでも、

「スタートラインでしかない」

 ということだ。

 問題はそこからで、編集者とすれば、

「次回作は、受賞作以上のものを書いてもらわないと困る」

 というだろう。

 しかし、作家によっては、

「受賞作で燃え尽きた」

 と思っている人も多い。

 そして、

「これ以上の作品は、自分には無理だ」

 と思いながらも、

「出版社に尻を叩かれる」

 という状況に、身動きが取れなくなり、そのまま消えていくことになるという人はいっぱいいるだろう。

 というより、

「ほとんどは、このパターンだ」

 ということである。

「じゃあ、持ち込みではどうだ?」

 ということになるが、それももっと無理があり、

「どこの出版社が、素人の書いた作品を取り上げるというのか?」

 ということである。

 特に、その頃は、出版社だけではなく、自治体もたくさんコンクールを企画するようになり、本屋も、蔵書の数が、限界に達してきているので、新しい本が出版されても、置く場所がないなどの問題があり、

「いくら売れた本でも、昔の本で今は売れないとなると、平気で返品されるということになる」

 もちろん、需要があれば、

「注文する」

 ということもできるだろう。

 しかし、わざわざそこまでして読みたいと思う本は、そんなにはないだろう。

 ただ、

「持ち込みは、ごみ箱行きだ」

 ということがあからさまになってくると、それを逆手にとって、

「本にする原稿をお送りください」

 という宣伝をする出版社が増えてきた。

 いわゆる。

「自費出版社系の出版社」

 ということで、そういうところは、原稿を募集して、

「それまでの、持ち込み原稿が、読みもせず、ただごみ箱に捨てられるだけだった」

 ということや、

「賞に応募しても、その批評はおろか、どこまでの作品なのかという評価すら何もない」

 という状態を考えて、

「送付いただいた作品は必ず読んで、その批評や評価とともに、わが社が推奨する出版の意味つもりをお送りします」

 ということでの原稿応募だったのだ。

 作家とすれば、

「自分の作品を評価してくれる」

 ということが一番ありがたかったということである。

「評価がないから、不安にもなるし、このまま続けていてもいいのか?」

 と考えさせられるというものだった。

 だから、それらの自費出版社系の会社に、

「一縷の望み」

 を掛けて原稿を送るのだが、実際に、批評もして返してくれる。

 そこで安心を勝ち取ることに成功し、相手の担当と話をしているうちに、

「本を出してみたい」

 と思わせるわけだ。

 だから、自費出版社系の会社が、

「年間発行部数日本一」

 というところも出てくるわけで、それだけ本を出したいと思っている人が多いということであり、さらには、

「このやり方は素晴らしい」

 などといって、経営評論家の人たちが、このブームを一つの、

「経営戦略の成功例」

 ということで取り上げるので、本を出したいと思っている人は、それなりに信用してしまうということになるだろう。

 それが、本当に一過性のもので、2年もすれば、そんな、

「自費出版系の会社が、どんどん破綻していく」

 ということに、誰も気づいていなかったのだろう。

 これも、一種のバブルのようなもので、こちらは、

「実態のない」

 というものではなく、

「自転車操業のようなもので、一つの歯車が狂えば、すべてが回らなくなる」

 ということになるのだった。


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