対になるもの(考)

森本 晃次

第1話 対になるもの

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年2月時点のものです。時代背景と時代考証とは、必ずしも一致するわけではありませんので、ご了承ください。一種のパラレルワールドでしょうか? 今回のお話の中に、どこかで聞いたようなお話もあるかも知れませんが、それはあくまでも、話のつなぎというくらいに考えていただければいいかと思います。あくまでもこのお話はフィクションです。


 世の中には、対になっているものが結構ある。もっといえば、

「対になっているものから成り立っている」

 ともいえるだろう。

 何といっても、

「生命の誕生」

 というものは、ごく一部の例外を除いて、

「男女の営みによって生まれる」

 ということではないだろうか?

 男性と女性という、

「異なった身体が、同じ種族でありながら、一番広い範囲での分別ということで。男女というものは存在している」

 といってもいいだろう。

 対となっているものには、

「一つの動物の身体の中」

 という意味でも存在している。

 顔の部分を見ても分かるだろう。

「そのほとんどが対だ」

 といってもいい。

「目。耳、鼻の孔と、それぞれ二つ存在している。

 ただ、口だけは一つだが、なぜ口だけが一つなのかということは。調べてみたが分からない。

 ということは、

「ハッキリとした理屈に伴った考え方」

 というものがないということになるのであろう。

 ただ、内臓の中には、対になっているものは、それほどない。

「肺と腎臓くらい」

 ではないだろうか?

 これが何を意味しているのか分からないが、

「表に出ているには、対が多く、内臓のように、隠れているものには、対が少ない」

 ということである。

 対になっているものの理屈としては、

「大切なものは2つある」

 といえるのではないかと思ったが、

「そのすべてが大切だ」

 ともいえるが、死というものに、直接関係しているという意味で、考えられる内臓の部分として、

「心臓と脳だ」

 といえるだろうが、

「この二つは、一つしかない」

 ということで、

「大切なもの」

 という意味ではあまり合致していないのかも知れない。

 本当に大切なものだということであれば、

「内臓の方が多い」

 という理屈になるであろう。

 とすると、

「二つある」

 という理由としては、

「二つないと、機能を果たさない」

 と考える方が、しっくりくるといえるのではないだろうか?

 というのも、耳などの場合は、

「ステレオのように、左右から立体感で感じることができるからではないか」

 ということであり、目の場合も、

「遠近感を取りやすくするため」

 ということではないか」

 ということになる。

 遠近感という発想は、大きさの認識にもつながることで、これは、

「二つないといけない」

 ということを忘れてしまうほど、当たり前のことのようになっているのかも知れないのだろう。

 鼻の孔は、

「詰まってしまうと呼吸が苦しいということで、口との連携」

 という意味でも、二つ必要なのかも知れない。

 なかなか生理学的にも解釈が難しいところであろうが、結論として、

「二つあるものは、二つなければいけない」

 ということで、

「そこには、我々に分からないところで、れっきとした理由が存在する」

 ということになるのであろう。

「自分たちに関係のないところで対というのもあるかも知れない」

 とも考えられるが、その場合は、

「本当は対なのに、対であるということを意識させない」

 というようなそういう問題が含まれているのだが、意識しないだけに、まるで、

「石ころの存在」

 とでもいうように、

「わざと意識させない」

 ということで、

「それにはそれだけの理由があるのではないか?」

 ということではないだろうか。

「男女が対になっていて、そこから子供が生まれて、人類は反映してきた」

 という風に、ほとんどは信じられているということであるが、

 その考えが違っているものが、

「ギリシャ神話」

 といえるのではないだろうか?

 ギリシャ神話においては、

「途中まで、人間は、男だけだった」

 ということなのである。

 人間には、

「火を起こす」

 という文化もなく、その頃は、

「とても、文明といえるまでのものは何もなかった」

 といってもいいだろう。

 この話は、万能の神である

「ゼウス」

 が、

「人間に火を与えると、人間は戦争をしたりして、禍を自らもたらすようになる」

 ということで、

「決して人間に、火を与えてはいけない」

 ということであった。

 それは、本当にゼウスのいう通りなのかというと、難しいところで、そもそも、ギリシャ神話に出てくる

「オリンポスの十二神」

 というのは、

「人間よりも、人間臭い」

 と言われているということではないか。

 そんなオリンポスの神の中心であるゼウスがいうのだから、さぞかし、

「自分が都合のいいようにしか言っていないのではないか?」

 と思えるのだ。

 もっとも、そう思っているのはリアルな人間だけで、神話に出てくる登場人物、つまりは、神であったり、人間というのは、

「ゼウスに絶対服従」

 という考えなのだろう。

 だから、ギリシャ神話の話には、

「理不尽」

 と思えることがたくさん出てくる。

「ゼウスが人間のように嫉妬すれば、他の神に命じて、自分に嫉妬させた人間だけでなく、その男が国王であれば、その国ごと滅ぼしてしまう」

 ということになるのである。

 つまりは、

「自分のわがままのために、一人を滅ぼすのに、国家全体を滅亡させる」

 などということも当たり前に行う。

「神の世界ではそれが正当というものであり、滅ぼす相手が、一人であろうと、何百万人であろうとも、関係ない」

 という考えであろうか。

 そもそも、

「一人の人間の命は、地球よりも重い」

 などという言葉があったではないか。

 実際に、何かがあって、人の命に対しての

「究極の選択」

 というものが迫られた時、

「一人を助けるか?」

 あるいは、

「数百万を助けるか?」

 ということになった時、普通であれば、

「数百万」

 ということになるだろう。

 しかし、

「一人の人間の命は、地球よりも重い」

 という観点からいけば、

「簡単に選択することはできない」

 と考え、結局何もできずに、全滅するということになるのではないだろうか?

 そんなギリシャ神話の世界の中で、

「プロメテウス」

 という男が、

「気持ちは人間の味方」

 ということで、

「火というものがなくて、不便で仕方のない人間」

 のことを思って、ゼウスに許可なく神の神殿にある火を勝手に持ち出して、人間に与えてしまったのだ。

 ゼウスは怒って、プロメテウスに罰を与えるのだが、その罰がまた恐ろしいものであった。

 というのも、

「断崖絶壁に磔になり、そこで、ハゲタカに肉を食らわせる」

 というものであるが、

 それだけでは済まないのであった。

 というのも、それは、数千年続くというもので、

「一日が経てば、傷つけられた身体が、元に戻っている」

 というものであった。

 つまりは、

「永遠に、ついばまれるという苦しみが続く」

 ということであった。

 似たような話を日本の民話にもあったような気がする。

 これは、

「罰が与えられる」

 というわけではないが、

「永遠の苦しみ」

 ということでの話であるが、

 それが、

「足が根っこになっている」

 というような話だった。

「森の中から、誰かの声が聞こえるということで行ってみると、そこは、ちょっとした広っぱになっていて、その中央に、一人の若者が立っているのであった」

 というところから始まるのだが、

「その少年は、足が根っこのようになっていて、ずっと、そこから動けない」

 ということのようである。

「そこで、少年は、近づいてきた男を巧みに近寄らせ、握手をさせる。すると男は少年と入れ替わり、少年には足ができる形で、男は逆に、足は根っこになってしまった」

 という話である。

「他に誰かが通り掛かって、今のように、握手に誘い込まなければ、お前は、一生ここから動くことはできない」

 というと、

「若者は意気揚々と男を置き去りに、走って、広っぱから出ていくのであった」

 ということであった。

「これは、もし自分がそうなれば、誰かが近づいてくれば、簡単に相手を欺いて、自分だけ助かろうとするだろうか?」

 ということを教訓とした話ではないだろうか?

 それを考えると、

「人間というものの醜さ」

 ということなのか、

「究極の罰に対して、自分が助かるのであれば、人のことを考えられるかどうか?」

 という

「自分の運命を天秤に架けられるか?」

 ということである。

 天秤に架けるというのも、

「恐怖の裏返しであれば、天秤に架けるまでもなく、自分が助かるということしか頭にないというのが当たり前」

 ということではないか?

 と考えることであった。

 プロメテウスが、ゼウスから罰を与えられているのと、同時進行で、今度はゼウスは、

「人間に対しての罰」

 というものを画策していた。

 その時、人間界には、

「女性という存在はいなかった」

 ということになっている。

 そして、ゼウスはその罰に対して、

「女性というものを作り、人間界に災いをもたらすもの」

 ということで送り込むという計画を立てたのだった。

 その作られた女性というのは、

「他の神々から、いろいろな贈り物を送られる」

 ということで、それが、例えば女神からは、

「男のたぶらかし方」

 などと言った。人間界にありとあらゆる禍をもたらすように教え込まれたのであった。

 そして、ゼウスはその女を、プロメテウスの弟に差し向けることにした。

 プロメテウスは、どこでその情報を知ったのか、弟に、

「ゼウスから何を送られても、それは無視しろ」

 と伝えておいたが、結局、女の魔力によって、骨抜きにされてしまったのであった。

 彼女は、世の中にありとあらゆる禍をもたらすために降りてきたわけで、その時、別の神から、

「開けてはいけない」

 という箱を授かったのだった。

 その時、彼女は、好奇心に負けて、その箱を開けてしまうことになるのだが、その女性の名前というのが、

「パンドラ」

 という名前である。

 ということであれば、この話がどういう話なのかということは、お察しがつくのではないだろうか?

 そう、このお話は、

「パンドラの匣」

 と言われる話である。

「開けてしまうと、その中から禍が飛び出す」

 ということで、

「開けてはいけない」

 と言われる箱のことを総称して、

「パンドラの匣」

 という風にいうのだった。

 つまり、それは箱に限ったわけではなく、

「タブーや禁断と呼ばれているものを、パンドラの匣という言葉で表すのが、一般的なのではないか?」

 と言われるゆえんであった。

 開けてしまったその箱の中からは、

「ありとあらゆる不幸のたねが飛び出した」

 と言われる。

 疫病であったり、自然災害や、ありとあらゆる不幸をもたらす事象が、飛び出した」

 ということであるが、実際には、

「箱の中に残ったものがある」

 ということで、それが、

「人間に対しての希望」

 というものだということで伝わっているのだった。

 基本的には、

「戒めを与える話」

 ということで、とても、ハッピーエンドとはいえない話であるが、

「最後に、希望というものが残っていた」

 ということが、

「不幸中の幸い」

 ということではないかであった。

 要するに、この時の、

「世界最初の女性とされたのが、パンドラの匣で有名になった、パンドラという女性である」

 というのである。

 この、

「パンドラの匣」

 という話は、

「人間は、最初すべて男しかおらず、神様から火をもらうと同時に、女を与えられた」

 ということになるが、実際の話とは、若干違っているということになる。

 というのは、

「その目的が違うということで、火のもらい方が悪かったのだから、女のもらい方も悪い」

 ということであろうか。

 そもそも、

「ギリシャ神話」

 というのは、人間界の常識で考えてはいけない世界なのではないか?

 ということを考えると、確かにおかしな発想にもなるというものだ。

 何といっても、前述の

「プロメテウスが、どうしてゼウスが弟に贈り物をしようとしたのかを知っていたか?」

 ということである。

 そもそも、何を送るのかも知っていてしかるべきなのに、それなのに、肝心の、

「何を送るかが分かっていれば、弟の方も、対処のしようがあっただろう」

 ということになる。

 しかし、

「ゼウスというのは、万能の神」

 ということなので、ひょっとすると、

「ゼウスが何かを弟に送る」

 ということを悟らせて、

「さらに、プロメテウスを苦しめよう」

 という策略が含まれていると考えるのは、無理のあることであろうか?

 ということも考えられる。

 いや、

「そこまでの考えがあるわけではなく、作者が、物語を面白くしたい」

 という発想だけの下の、

「ただの演出だ」

 ということも言えるのではないだろうか。

 そう考えれば、

「神の世界」

 というものが、人間社会に酷似していて、

「全能の神といっても、物語の中では、作者の手のひらの上で、踊らされているというだけにならないだろうか?」

 ということであった。

「パンドラの匣」

 という話に限らず、結局、

「ギリシャ神話」

 というものは、人間が作っているのだから、

「神様というのが、より人間臭い」

 と考えるのは、当たり前ではないかということであった。

 それを考えると、

「ギリシャ神話」

 というものに限らず、聖書であったり、北欧などに伝わる寓話であったりというものは、

「しょせん、人間が作っているのだから、人間の想定以上のことを描くことは不可能だ」

 ということになる。

 そうなると、

「世界の七不思議」

 と言われるものの、

「ナスカの地上絵」

 であったり、

「ピラミッド」

 というものは、人間の想像をはるかに超えているので、

「宇宙人が作った」

 という説か、それとも、古代には、今の人間とは違う人類がいて、彼らがやったことであり、その彼らが、何らかの方法で滅んでしまい、人間が降臨している。

 ということになるのだろう。

 ただ、

「男と女」

 ということであれば、他の神話などでは、必ず、最初から登場する形になるだろう。

 聖書などでは、

「アダムとイブ」

 古事記などでは、

「いざなぎ、いざなみ」

 という男女がそれぞれ登場する。

 そして、そこから、

「新たな命が誕生し、種族としての人間が、増えていく」

 という考え方である。

 そこには明記していないが、

「性行為」

 というものが存在するのは、当然のことであるが、だが、矛盾しているという話もあったりする。

 それが、

「キリスト誕生」

 ということで、キリストの母親である、

「聖母マリア」

 と呼ばれる人は、

「処女なのに、キリストを生んだ」

 と言われているが、それはウソだと言われている。

 あくまでも、

「結婚前に生んだ」

 ということであり、今の時代であれば、

「不倫」

 あるいは、

「不貞」

 ということで、

「姦通罪に処せられ、重罪」

 ということになるのだろうが、旦那になるヨセフは、それを許すことにした。

 彼が、神を信じていて、寛大だったということからであろう。

 だから、

「聖母だから、性行為もしないのに、キリストを宿した」

 ということで、それこそ、

「神の生まれ変わりだ」

 といえるほどの女性像を、作り出そうとする、一種の

「プロパガンダ」

 なのかも知れない。

 いくらキリスト教といっても、宗教なのだから、

「プロパガンダ」

 の一つくらいあっても当たり前ということではないだろうか。

 そもそも、キリスト教というのは、その布教において、歴史的に、

「うさん臭さ」

 というのが残っているではないか。

 過去の戦争において、十字軍にしても、ほとんどの宗教戦争には、

「キリスト教」

 あるいは、

「イスラム教が絡んでいる」

 といってもいいだろう。

 さらに、イギリスにおける、

「清教徒革命」

 と呼ばれるものも、

「同じキリスト教ということであるので、ただの派閥争いのようなものではないか?」

 といえるのかも知れない。

 実際に、さらに十字軍というのも、イスラム教との闘いということで、歴史の上で、

「戦争というものに、宗教が何らかの形でかかわっている」

 といってもいいだろう。

 今から500年ほど前のこと、いわゆる、

「大航海時代」

 というものがあったが、この時代には、

「アフリカの喜望峰を回ってアジアに来るコース」

 あるいは、大西洋を渡って、アメリカに入るコースが発見された。

 そして、アジアに船でやってきたポルトガルやスペインは、

「そこでアジア諸国に何をしたのか?」

 ということである。

 彼らは、まず、

「宣教師」

 というものを送り込んで、

「キリスト教の布教」

 という名目でやってくるが、他のアジアの国は別かも知れないが、日本の場合は、

「キリスト教を保護すれば、南蛮と貿易ができる」

 ということを狙って、キリスト教布教を許したのだ。

 ちょうど、時代とすれば、

「群雄割拠の戦国時代」

 この時代において、南蛮文化というのは、

「金になる」

 というだけではなく、

「武器が手に入る」

 ということもあったのだ。

 特に、

「種子島に流れついた、鉄砲の威力は、各大名を驚かせた」

 そして、

「高価な鉄砲を手に入れるためには、金がいる」

 ということになるのだ。

 つまりは、

「キリスト教の布教を許せば、貿易ができる」

 ということで、キリスト教の布教は、二の次だったのだ。

 ただ、中には、キリシタン大名と呼ばれるように、

「大友宗麟」

「高山右近」

「明石全登」

 などという人たちが、キリスト教徒となっていったのだから、それだけ、戦国時代において、それを受け入れようとする人も少なくないということであろう。

 しかし、欧州の国は、そんなに甘くはなかった。

 彼らの本心は、

「植民地化」

 であった。

 相手国に、貿易を餌にキリスト教を普及させ、キリスト教徒が暴動などを起こしたその隙に、自軍を送り込み、そこで、

「武力をもって、その国を征服し、植民地化する」

 という、完全な、

「侵略」

 ということである。

 日本は、

「侵略はされなかったのが運がよかった」

 というべきか、それとも、

「日本の軍の強さに、逆らえない」

 とでも思ったか、それだけ、群雄割拠の時代は、激烈な時代だったということになるのであろう。

 さすがに、天下統一されてしまうと、今度は、

「天下を治めるためには、天下人の権力が不可欠で。その中で、天下人以外を崇めるということは許されない」

 ということになる。

 それは、権力に執着しているというよりも。元々の侵略国にとっての、

「国を混乱させる」

 ということに対しての戦略といってもいいだろう。

 ただ、やつらがやっていることは、

「戦時においての、定石」

 といってもいいかも知れない。

 なぜなら、相手国にスパイなどを送り込んで、諜報活動をさせたり、混乱を内部から起こさせるという、かつての共産主義国のようなやり方に近いものだったといえるだろう。

 つまりは、キリスト教の宣教師というのは、

「相手国を混乱させるためのスパイのようなもの」

 ということである。

 それを歴史の授業では、

「秀吉のバテレン禁止令」

 などによって、長崎で磔にされたキリシタンであったり、

「徳川時代に、踏み絵などを踏まされて、まるで、魔女狩りでもしているかのような、隠れキリシタンのあぶりだし」

 というものをすることに対して、

「無慈悲でひどいこと」

 という風に習ったが。果たして本当にそうなのだろうか?

 これこそ、

「伝染病における、水際対策」

 ということではないのだろうか?

 確かに、今の日本国では、

「宗教の自由」

 などというものがあり、

「キリスト教の迫害を行ったあの時代は、極悪な時代だった」

 といってもいいのだろうか?

 領土を守るために戦った戦と何が違うというのか。

 戦に対しては、何も悪いようにはいっていないのに、キリシタンを排除することに関して、なぜここまで言われるのか?

 国を侵略しようとしている連中を鎖国をしたり、さらには、キリシタンを撲滅したりしているのは、

「国防のため」

 ということだ。

 それを思えば、

「歴史の何が正しいというのか?」

 ということになるであろう。

 一ついえることは、

「宣教師は海外からやってきた」

 ということである。

 大日本帝国が、日本国に生まれ変わった時、

「統治していたのは、占領軍と呼ばれる、欧米の国である」

 ということだ。

 彼らからすれば、

「宣教師が、実は、スパイだった」

 などということになれば、

「民主主義としての基本が揺らぐ」

 ということになる。

 これも、征服した国の特徴であるが、

「かつての勢力のすべてを否定しなければ、自分たちが悪者にされてしまう」

 ということになるのではないだろうか?

 だから、徳川幕府ができた時、そして、大阪の陣で、豊臣家が滅んだ時、

「豊臣家の遺産は、ほとんどすべて抹殺する」

 ということになり、歴史書も、徳川に都合の悪い歴史は封印されたり、書き換えられたりしたというものだ。

 それは、今度は、

「明治新政府ができた時」

 にも言えることであった。

 それまでの封建制度であったり、徳川に都合よく変えられた歴史を、今度は、

「天皇中心の中央集権国家」

 として、

「徳川のすべてを否定して、朝廷や天皇を敬いながらの政治」

 ということになる。

 特に鎖国というものから、開国したことで、

「海外との不平等条約の撤廃」

 というものを勧めていくうえで、

「封建国家とは、邪魔なだけだ」

 といえるだろう。

 あとは、

「明治新政府」

 というものが、

「建武の新政」

 というものを知っていたかということである。

 鎌倉幕府がモンゴルによる侵略を受けた、

「元寇」

 というもので、勝つには勝ったが、相手の土地をもらえないことから、

「幕府財政も、封建制度というもの自体が揺らいだ」

 ということであった。

 それに対して。幕府とすれば、どうしようもない状態において、どうにも幕府ではできないということで、御家人の不満は爆発した。

 それに便乗したのが、

「後醍醐天皇」

 で、彼は、不満を持った御家人をつかって、鎌倉幕府を滅亡させ、そこから先は、

「天皇中心の世の中」

 というものを作ろうと画策したのであった。

 何とか鎌倉幕府を滅亡させることには成功したが、後醍醐天皇が行ったのは、平安時代、あでの、古い時代、つまり、

「昔のままの、律令制度」

 を推し進めようとしたのだ。

 それだけではなく、褒美は公家に与えて、命を懸けて戦った武士を蔑ろにした。

 こうなってしまうと、武士の不満は、朝廷に向かうということになるだろう。

 そこで、足利尊氏が立ち上がり、最終的には、

「足利幕府の成立」

 と、朝廷においては。

「南北朝」

 という、

「二つの調停ができた」

 ということになったのである。

 だから、

「明治新政府」

 も同じようにしてしまうと、武士から滅ぼされる。

 ということで、考えたのであろう。

 というのは、

「鳥羽伏見の戦い」

 において、幕府軍が撤退し、さらには、徳川慶喜が、

「蟄居する」

 ということで、

「徳川幕府は滅亡」

 ということになるのだろうが、明治政府はそれでは済まされなかった。

 つまり、

「徳川幕府を潰す」

 ということである。

 これはまるで、家康が豊臣を最後まで追い詰めて滅ぼした、

「大阪の陣」

 と同じであろう。

 つまり、

「封建制度」

 というものがなくならないと、

「新しい時代を作ることはできない」

 ということになるのだ。

 それが、

「明治新政府の真の狙いだった」

 ということであろう。

 それでも、明治になってからも、

「西南戦争」

「佐賀の乱」

「萩の乱」

 さらには、

「秋月の乱」

 と、徹底的に、滅ぼされたというものだ。

 ただ、考えてみれば、ここでいう。それぞれの乱というのはほとんどが、

「明治政府の主要な位置を築いた藩による反乱ではないか?」

 といえるであろう。

「萩の乱」

 というのは、長州藩。

「西南戦争」

 が、薩摩藩。

「佐賀の乱」

 といえば、佐賀藩

 という具合に、そのほとんどは、明治政府の要人となっているところの出身地ということだ。

 これには訳があるだろう。

 というのは、

それらの藩というのは、そもそも、倒幕に貢献があった藩であるし、幕末の志士というものを多く輩出し、それだけ犠牲も大きかったということだ。

 しかし、明治政府のやり方には、

「例外というのは認めない」

 いくら貢献があった藩だとはいえ、

「政策変更に変わりはない」

 ということで、政府に対して恨みを持つ人が多いのは当たり前というものだ。

 本来なら、

「論功行賞によって、、いい思いをすべきものが、痛い目にだけあって、何も見返りがないというのは無慈悲もいいところだ。

 しかし、それを明治政府は力づくで抑え込み、結局は、

「自分たちの時代」

 にしてしまったのだ。

 それが、徹底していたことで、

「建武の新政」

 のような失敗はなかったということであろう。

 少なくとも、

「大日本帝国として、憲法や議会政治、さらには、強力な軍隊を持つことができ、次第に世界の大国の仲間入り」

 というものをするようになったのだ。

 そんな歴史の中で。明治政府は、徹底的に封建制度を批判した。それにより、

「鎖国」

「キリスト教禁止」

 という政策を、

「悪いこと」

 と位置付けた。

 しかも、占領軍はキリスト教を擁護している国なので、

「結局、キリスト教を迫害した当時の日本は悪い」

 という教育になってしまったのではないかと考えるのだ。

 だから、日本において、本来であれば、

「キリスト教」

 というものがいいものなのか悪いものなのか、微妙な気がする。

 しかし、史実として、

「宣教師が先に入り込ませて、そこでキリスト教を布教し、それが混乱を招くと、一気呵成に攻め込んで。植民地にしてしまう」

 というやり方が、蔓延していたということである。

 だから、日本は、第二次世界大戦において、

「名目上」

 なのかも知れないが、

「アングロサクソンに植民地化された東アジアを解放し、そこに、日本を中心とした新秩序を組み立てる」

 ということでの、

「大東亜戦争」

 という言葉が、閣議決定されたのであった。

 このように、

「男と女」

 宗教であれば、

「イスラム教とキリスト教」

「東西冷戦の2大超大国」

 のように、対になるものというのは、意外と大変なもので、それが、

「争いの下」

 となるのは必至で、避けることのできないものなのかも知れない。


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