第2話 席とり界のマドンナ登場
席とりランク"ライバル"級の有紗の出現により、今日この日のスタートダッシュに失敗したであろう関野大地。
しかしこれで落ち込む彼ではなかった。
そもそも乗車時に席が空いていることの方が珍しいのだ。
大体の日は、降りた客が直前まで座っていた席に素早く移動し、自分が座る席を確保するというのがスタンダードだった。
そのため新検見川駅で座れなかったことは、あまり問題ではなかった。もちろん、席が空いていたことはラッキーであり、席とりに命を燃やす以上は、なんとしてでも座らなければならなかったのだが。
続いての停車駅--幕張駅で僅かながら利用客が乗ってきた。
この客たちはほぼ、立ったまま過ごすことになる。なぜなら幕張駅で降車する者がほとんどいないからである。
とはいえ、当然ながら関野は周囲に目を配り、席が空いていないかを常にチェックしている。空いたなら、全力ダッシュで席を確保するためだ。
しかしその可能性が低いことを知っている関野は、もう既に次の席に狙いを定めていた。
同じ3両目内のシートで、後方側シート寄りに腰を下ろしている女。
コードネーム"マドンナ"である。
彼女は高確率で2両目から4両目の間にいて、驚くことに必ず座っていた。
恐らく始発駅である千葉駅から乗ってくるに違いない。始発ならそれほど苦労せずに乗車できるからだ。
マドンナと呼んでいる所以は、彼女の恵まれた体型にある。
ややぽっちゃり型ではあるが、健康的であり、無理していないという点で、非常に魅力的なボディーラインをしていた。
身長は160センチ半ばぐらい。年齢は30代前半というところだろう。
顔周りには程よく肉がついており、深く座った時には顎を引くあまり、二重顎が目立つ。
しかしそれがまた、着飾らないという点で良いのだ。
だからといって全く人目を気にしないわけでもないらしく、つやつやした潤いのある肌は、恐らくお高い化粧水と乳液、ナイトクリームからスチーマーにパックといった努力の賜物だろう。
スカートスーツからちらっと見える血色の良い太ももは、関野に大きな勇気をもたらしていた。
関野はそのマドンナの正面に立ち、すやすやと眠っている顔を拝んだ。
口角からよだれが垂れそうになっているが、そこがマドンナの良さである。
彼女はいつも船橋駅で降りる。
つまりマドンナの前に立っていれば、必ず、新検見川駅から4駅後には座れるというわけだ。
幕張、幕張本郷、そして津田沼で多くの客が乗ってきた。
この中にも、マドンナの"席"を狙っているやつが存在していた。
かつて、運良くマドンナの側の席に腰を下ろしていた時、関野は目撃したのだ。
各駅で新たに乗ってくる客の中に、一目散にマドンナ目掛けて走ってくる野郎がいたのだ。その男の奇行はなんと複数回にも渡っていた。
その野郎は30代半ばぐらいの冴えない男で、ワンチャンマドンナのことを狙っているのではないかとも思った。
なぜならこの男は、夏場の露出が多くなる時期、ずっとマドンナの胸元に目をやっていたのだ。
まったくのくそ野郎だ。
勝手につけたコードネームはYAROUである。
だから関野は、YAROUからマドンナを守るためにも、彼女の正面に立っているつもりであった。
津田沼駅で多くの客たちが乗車し、いよいよ車内は満員に近くなってきた。その中にはやはり、YAROUの姿もあり、あろうことか関野の隣に立っていた。
YAROUは表情にこそ出していないが、内心ではきっと悔しいに違いない。
マドンナには指一本触れさせない、と関野は胸の中で叫んだ。
電車の扉が閉まり、津田沼駅を予定通り出発した。
一人一人、座っている客たちの前に立つ格好となっており、扉前のホールには、10人近くが身を寄せ合って乗っていた。
マドンナは普段通りの寝顔を見せていた。
口角に溜まっていたよだれが、そろそろ決壊しそうになっており、顎を伝っていきそうだった。
一瞬、拭いてあげたいとも思ったが、流石にそんなことはできなかった。
相手は高貴の結晶、マドンナである。
庶民である関野はただただ、一番近い場所から彼女を見ることしかできないのだ。
船橋駅到着のアナウンスが流れた時、関野は異変に気づいた。
いつもならこのタイミングで起きて、降車の準備を始めるはずが、彼女は起きなかった。
どうやら熟睡しているらしい。
関野は心の中で声をかけた。
--マドンナ、起きて。船橋駅だよ。
--マドンナ、俺に席を譲るタイミングだろ。
当然、その声は彼女には届かない。
車窓からは、船橋駅のホームが見え始めた。まもなく減速し、電車は到着する。
県内最強の利用客数を誇るこの船橋駅からは、大勢の客が車内へと入ってくるはずだった。
少しでも降車のスタートが遅れたとすれば、客は船橋駅に降り立つことができない。なぜなら入ってくる客たちの勢いが凄まじく、客の波に押し戻される格好となり、車外に出ることができなくなるのだ。
マドンナは降りられなくなる。
彼女が降りられなくなるということは、関野が座れなくなるということでもあった。
つまりピンチであった。
もしこのまま立ったまま、船橋駅からの乗車客を迎えた場合、朝のおしくらまんじゅう大会への参戦が決定的となる。それに伴い、周りの客に押され、押され、関野は生きた心地がしなくなる。
つまりそれは、会社到着時のライフポイントが保証されないということでもあった。
座席に座れるか否か。
それはまさに、天国と地獄であった。
「起きてください。あなたが降りる駅に到着しましたよ」
心の中で言ったつもりが、声に出していたことに気づいたのは、勢い余って彼女の右肩をトントンと叩いていたのと同時だった。
マドンナは目を覚ましたが、驚いたように、関野の顔を見上げていた。
両目は見開かれ、不気味な具合に、黒目も僅かに大きくなっていた。それは恐怖という色が混じっているようでもあった。
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