第2話 期待の星
メイセイオペラが誕生したのは1994年のことであった。中央競馬ではナリタブライアンの三冠達成の余韻もそこそこに、日本競馬の血統図を根底から覆した究極種牡馬サンデーサイレンスの初年度産駒が爆発的な活躍を見せ始めた年にあたる。
生産者の高橋牧場は日本芝短距離界のレジェンドたるニホンピロウイナーの愛娘フラワーパークの生産者としてその名を知らしめるのであるがそれはメイセイオペラ誕生からしばらく後のことであり、当時は一介の零細生産者に過ぎなかった。
メイセイオペラの母テラミスは通算十三戦二勝で競走馬を引退したものの、当時の視点で言えば血統的にも馬体的にも見るべき点に乏しい馬であったためか当初は引き取り先が決まらず、馬主自らによる懸命の交渉の末にようやく高橋牧場に繁殖馬として落ち着けた経緯があり、父親にやはり種牡馬としてはさしたる良績のなかったグランドオペラが選ばれたのも「安い金額で長く活躍を見ていられるように」という馬主の意向によるものである。牧場側としても少しでも実績の欲しい時期の話であったことからすんなりと話がまとまり、テラミスは翌年に無事出産を終えることとなった。
ところが産まれてきた仔馬は成長するにつれて周囲が驚くほどの良い雰囲気を漂わせる様になり、その噂はあっという間に馬産地一帯に広まっていく。地方中央を問わず「その仔を譲ってほしい」という馬主や調教師からの要請がひっきりなしとなり、事実上生産配合を主導する形となった馬主も仔馬の中央デビューを真剣に考えざるを得なくなっていた。
しかし、そこに以前から岩手で所有する競走馬を預託していた調教師から「まずは岩手(水沢競馬場)でデビューさせてからでも(中央移籍は)間に合う」と強めの説得を受けたこともあり、最終的な結果としては中央入りのオファーを断って自身が馬主資格を持つ岩手競馬に所属させることを決めている。当然ながら調教師は大喜びであり「この馬で天下を取る」くらいの覚悟を持って日々の調教に臨んでいたのは想像に難くない。
ここでメイセイオペラが誕生した当時の岩手競馬について簡単に触れておくと、1980年代後半にデビューし「みちのくの怪物」と謳われた巨星トウケイニセイが遂に引退を迎えていた頃にあたる。地方中央を問わず各開催者間の交流に乏しい時期であったとは言え、通算43戦39勝という途方も無い大記録を打ち立てた名馬の引退は巨大な空白を岩手競馬にもたらし、引退と前後して始まった交流競走において岩手所属馬は著しい苦戦を強いられる羽目に陥っていた。せめてトウケイニセイの最盛期に交流競走が始まっていれば、との声もあったが時計の針は逆に進まない。トウケイニセイに手も足も出なかった同時期の馬たちも大半がピークを過ぎており、世代交代は焦眉の急となっていた。
ときは乱世、混乱のただ中にあった岩手競馬でメイセイオペラの競走生活は開始されることになる。
メイセイオペラのデビューは1996年7月のことであった。新馬戦を楽勝したもののまだまだ幼さの抜け切らない頃であったのもあり、昇級戦で取りこぼす一幕も見られていたが概ね順調に勝ち上がり、年の終わりまでに4勝を積み重ねている。
1997年早々からメイセイオペラは同世代相手の特別戦を完勝すると東北各地にあった地方競馬の交流競走を渡り歩いて勝利を重ねていき、岩手競馬のクラシックレースが始まる前から既に「岩手(東北)に敵無し」の状態となっていた。
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