浦部洋稔
一
魚群探知機の反応が全く無くなって、三十分が経過した。
ゆらゆらゆらゆら、深い夢の中みたいに、揺れる波をぼんやりと見つめる俺の脳裏は、何もかもが抜け落ちた空洞のようだ。
ぽこん
と、ウキが水中に沈む音が聞こえる。
夢から醒めたように、俺は釣り竿にしがみ付く。
が、その時に、指先を震わす感覚は無かった。
「こんなに何の手応えも無い日があるかいな」
長い溜息をつくと、入れ替わるように熱いものが浮かんでくる。
「ああっ!」
俺は甲板に唾を吐き、釣り竿を固定具から外して海に投げ捨てた。
じゃぼん
刹那、立ち上がったかと思うと、竿は一直線に、底へ向かって消えていった。
「逃した魚はデカい、か」
ガン、と音を立てて、俺は甲板に頭を抱えて、仰向けに倒れ込んだ。
――ったく、どいつもこいつも、思い通りにならん事ばかりや。
***
「もう、お父さんいつまでアタシのことお子ちゃまやと思ってるん。ホンマ舐めてるわ」
「ああぁ? まだ母さんに布団の片付けも服のアイロンも全部やってる甘えたが子供じゃないって?」
小っこいカサゴがまた噛みついた。
その程度に思った俺は、釣り竿を磨きながら言った。
「ホンマどうかしてる。学校でも変なこと言われるしさ。まだお父さんと一緒に寝てんの? とか。うるさいわ、こちとらただでさえ不眠やのに、風呂も入ってない塩臭いおっさんが入ってきて」
高校一年の娘、
今も、人気アイドルのキャラクター人形を抱いてこちらを睨んでる。
「幼稚園の頃は、入ってこい入ってこい、うるさかったのになぁ」
「あんたにもうなんかされる筋合いないねん。ホンマ寮暮らししたろっかなって思ってるくらいや」
「出来るんやったら最初からしたらええ。どうせ、『お母さん、服アイロンで焦がした』とか言ってくるんやから。そんなんより、もうはよ寝え」
「もう絶対、世話にならんからな」
派手に音を立てながら、真須美は階段を昇っていった。
ミシッ
ベッドの悲鳴が、天井越しに聞こえた。
「ヒロくん! ちょっとのんびり寝てる暇じゃないから! 起きて!」
若いころ、お化け屋敷に行った時のような妻の金切り声。
気持ちの糸がいきなりピンと張りつめた。
「んやねん、せっかく今日は休みやったのに……」
「それどころじゃないから! これ見て!」
目を血走らせた妻は、一枚の紙を俺の顔に突き付けた。
「なんや……? 数学のプリントやないか。こんなやつ、もう三十年以上前に忘れとるわ」
「ちゃう! 裏面!」
俺は、大きなあくびを一つして、数学プリントを裏返した。
「ん……?」
細いが随分筆圧の強い文字が、一文字一文字が読めないほどに殴り書きされている。
『なんも分かってくれへんジジババからはもうはなれることにした。これから、りょうで友達と楽しく暮らすから、もうかまってくれんでいい。今までさんざんなおせっかいをありがとう。もう世話にならんから。心配せんといて。
「……これって、どこにあったんや」
「いつも通り、六時に起きたら、部屋はもぬけの殻で。探してもいなくて、机の上にこれが置いてあった」
オロオロと出てくる標準語に、脳みそがグツグツ沸き立つ。
「で、友達のところから『真須美ちゃんが家出してる』って連絡が来て」
「……ほな、この紙は決別宣言みたいなもんってことか?」
頬の筋肉が強張る。
「かもしれない」
脳の血管が、プツンと切れた音がした。
「アホんだらが!」
妻が一瞬、怯んだ。
「離れるとか寮とか漢字も書けんくて、自分の世話も出来ん奴が何をこんな駄々こねて出てっとるんじゃ! ああ? どうなっとんねやホンマに」
額が熱い。汗交じりの息を何度もつく。
妻は、口を真一文字に結んで、俯いた。首筋をワナワナ震わせ、拳を握って。
「それは私も訊きたいですよ……!」
彼女の水色のエプロンに、ひたりと涙が落ちた。
「もう高校一年生で、思春期真っただ中だっていうのに、全く線も引けずに近づいて、無神経なことばっかり言って、あの子の気持ちを逆撫でしてる人が何を言ってるわけなの……?」
「ああ?」
妻は、震えながら顔を上げた。瞼を真っ赤に腫らして。
「授業についていけないから、人知れず夜中に勉強したりしてるのに、テストの点数見てすぐ説教して。唯一自分を癒してくれるアイドルにまでケチ付ける父親なんか、誰が胡散臭いと思わないんですか?」
「そんなんなぁ……」
頬を紅潮させた妻への反論の、その先は出なかった。
「もう我慢の限界だったんだろうね。早く、父親から解放されたかったんだろうね」
一瞬沈みかけた感情が、もう一度噴火した。
「黙っちょれぇ! なあ、お前もお前やろ。もう一人で出来んのに世話焼いてなぁ。一人でさせたらええねん。そんなん。昔から嫌いなもんは食べたって、どんどん甘えたになってるんやんか」
「うるさい! なんも一人で出来んだの散々言ってたん誰だと思ってるの! ホンマにそれでいい父親演じてるつもり? そんなんなら一生、あの子は帰ってこないわ!」
妻の唾が眉間の皺に当たって、俺は目を覚ました。
彼女はくるりと背中を翻し、ドカンと音を立てて、部屋のドアを閉めた。
重い静寂が、俺に圧力をかける。
――父親として、真須美に何をしたやろう。
両手を、目に当てた。
視界は、真っ暗になった。
***
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