二
ピピピピ、ピピピピ
エンジンに入ったオイルの残量が少ないことを伝える音が、どおんと荒れる海原の音をかき消した。
「畜生め……」
もう一本の竿に下ろしていた糸を引き上げ、針にかけてあったエビを、波の向こうに放り投げる。
ゴオオオオ、ゴオオオオッ
頬を平手で打つような勢いで風が吹きつける。
そのまま、竿をぽいと投げ捨てて、操舵室に入った。
ブオォォォォォン
魚群探知機に、魚影はまだ映らない。
歯を食いしばり、何かの首を絞めるつもりで、ロープをぎゅっと括り付ける。
――あいつの、供え物でも買いに行くか。
ポケットの中に手を突っ込んで、指先の感覚で小銭を確認する。
――供え物と、ちょっと早いが酒場に行くくらいの余裕はあるな。
と。
ピタン……
鼻先に、何かが当たった。
「おい……」
顎を上げた、まさにそこにまた、水滴が落ちた。
ピチャ、ピチャ、ピチャ
濁った海に、波紋がいくつも広がっていく。
「ホンマ、ふざけとるやろ」
地面に吐くつもりだった唾は、何を間違えたか、靴下の中に浸み込んでいった。
マウンテンパーカーを半袖の上に羽織って、寒さと風雨をしのぐ。
普段通り、左に曲がろうとして、脚が止まった。
――「ホンマにそれでいい父親演じてるつもり? そんなんなら一生、あの子は帰ってこないわ!」
苦悩が、この雨風に乗って押し寄せた。
足元の水溜まりには、眉間に少し、皺の寄った顔が映っている。
――これやったら、まだ許されんわな。
俺は、左足の向きを直して、真っすぐ歩き出した。
ザザアアアアアアア
海に注ぐ雨の音が、にわかに大きくなった気がした。
その道は、コンクリートで舗装されている箇所は、人一人通るのがやっとの幅で、右手側に砂浜、左手側に森が広がっている。
――そういえば、ここの森で昔、真須美とカブトムシ取りに行ったな。
太陽のような眩しい笑みを浮かべた真須美が蘇ると、俺の心は水を吸ったスポンジみたいに重くなる。
雨に濡れた落ち葉を音も無く踏みしめながら歩いている、と。
サクッ
突然、目の前で落ち葉が舞い、人が飛んだ気配がした。
右前を見ると、黒シャツに黒ブルゾン、黒パンツとシックな装いをした男がいた。
男は、コンクリートと砂浜で段差はあるが、俺とすれ違う。
――ん?
脳の一箇所がピクリと反応した。
――て、何だあれ。
前の落ち葉の上には、一冊の本が落ちていた。
「万物事始書紀……末信仰者同志、編」
筆文字で書かれたその書物は、水濡れのせいか表紙がウェーブしており、中も茶色くなっているところや切れ目が入っているところがいくらかある。
表紙は、灰色の背景に、骸骨が右を指さしている、というもの。中のページは、漢字ばかりの文章が気持ち悪くなるほどにページを埋め尽くしており、時々、筆で描かれた、顔の無い男がマンモスを狩ったりしている図などが出てくる。
――さっきのやつが落としたんか。
振り返ると、先程の男は随分向こうまで進んでいた。
「おうい! なんか落としとんぞ!」
俺はその本をマウンテンパーカーの中に入れて抱え、バタバタと走りだした。
「おうい! おうい!」
真須美にあれだけ睨まれた、この大声にも男は振り返らない。
首が落ちているのを見ると、どうやらスマートフォンを触っているようだ。
「やっと追いついたわ。なあ」
砂浜に降り、男の肩をポンと叩く。
彼はこちらを振り向き、初めてこちらの存在を認識したような訝しげな表情をした。
「ん……?」
俺はその時、胸の中で光が弾けたような感覚に襲われた。
途端に脳みそがフル回転しだす。
彼は俺の手元に視線を落とし、切れ長の目を派ッと見開いた。
ツヤのあるやや長めの黒髪は片目に少しかかっており、白い頬も、ガサガサな俺の肌とは全く見た目が違う。
つんと通った鼻に、尖った顎。小さめの顔に、それぞれのパーツが実にバランスよく配置されている。
――この顔、なんか知っとるぞ。
そう思いながらも、俺は口角を上げて、喉に力を込めていった。
「これ、落ちとったんや。あんたのちゃうか?」
「……ああ、ありがとうございます」
若干掠れて、それでいて心地よく耳に入る声だ。
「あっ」
その本を、細長い指に手渡してから、脳がパッと光った。
「ひょっとして、sevenの……」
真須美がその御姿を見てはキャアキャア奇声を上げるアイドルグループの名前を出した。
「あ、違うんです。よく言われるんですけど」
ここまで、白い紙のように表情が無かった彼が、少し顔を和らげた。
「そうか。ちゃうんか。いやあ、よう似とんなぁと思って」
しかし、白い歯を出していても、脳の信号、胸の微かな違和感はまだ拭えなかった。
――いや、ちゃうんよな、なんかある……。
と、彼は踵を返して、また歩き出そうとした。
俺は慌ててその肩を持った。
「はい?」
「あ、一個聞き忘れてたんやけど、ほら、な、その本ってなんの本なん? 見たこと無い感じやったからさあ」
その時、切れ長の瞳の端が鋭くなった。
髪に隠れていても、額に皺が寄ったことがはっきり分かる。
「あ、すま……」
「これは、知らなくていいことです。死っていいことはありません」
掠れた声が、強く発音される。
「では」
そう言って、彼は今度こそ踵を返し、反対側へ歩いてゆく。
黒いブルゾンに当たった光が、まごつくこちらを牽制していた。
――なんなんや、あいつ。
違和感は、やがて胸のざわめきに変わった。
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