不覚の仁情《アモル》

かおささ

第1話 不覚

どこか重い瞼をあけるとそこには―

僕の知らないボクがいた。


僕は一体、こんなところで何をしているのだろうか。見渡す限り、当たりには崩れたビルや家屋が広がっており、僕が寝ていた場所はコンクリート製の商業施設と思われる場所だった。そんなことを考えても、結論が出ない。なぜ?という感情が渦巻いている最中、突然、

『オマエハ、何者ダ?』と、声がした。

僕は僕だ。でも僕は…誰だっただろうか。僕が何者か、明確に思い出せない。名前は、住所は、生年月日は、と続けざまに思考するが、何も出てこない。僕は自分に絶望した。その瞬間、僕は夢を見た。


妙に現実味のある夢だった。実際に体験しているかのような、あるいは映画のワンシーンのような、不思議な感じだった。目の前には血に飢えた狼のような化け物。そして僕の右手には黒光りする短剣。そして感じた。背筋が凍るような明確な殺気を。僕はなすすべもなく、狼の鋭い牙で噛み潰される。痛い。痛い。痛い。

『ソレガ、記憶ダ。記憶ハ、イツダッテ、魂ガ受肉した体トイウ名の器ニ、染ミツイテイル。』

記憶、か。誰の記憶なんだ?

『ソレハオマエガ、人トノ関ワリ合イで見ツケルベキモノダ。アア…ソロソロ起キル時間ダ。』

おい、まだ聞きたいことが山ほど…

―しっかりやれよ、二番目の僕。

と、そんな声を聞いた気がした。


雄…ん 一は…

「雄一はん!?」

そんな声で目が覚めた。目の前には色黒の関西弁の男、その隣には三歳くらいの子供が丸椅子にちょこんと座っている。

「雄一はん…あんた生きてはったんやな!ほんと心配したでぇ!」

まるで、僕を知っているかのような口ぶりだ。だが、僕はこの人を知らない。

「すごく言いずらいんだけど…僕は、あんたの名前を忘れてしまったみたいなんだ。あんたは…誰だ?」

関西弁の男の目には、疑問が浮かんでいた。

「わしのことを覚えておらんのや…?洋介や!洋介!加原洋介!」

「すまない…本当に覚えていないんだ。」

「じゃあ翔子はんは!?翔子はんのことは覚えてるんやろな!?」

「ごめん…そんな人は…」

知らない。その言葉が今の僕や洋介と名乗る人にとって、どれだけ苦痛か。その辛さは、生涯忘れることはないだろう。

「そんな冗談…いや、すまん…わしは一回帰るわ。また話、聞かせてや。頭の整理がついてからでいいいからな。楓も、帰るで。」

「ああ…ありがとう。」

簡単な言葉しか返せずに、加原さんと女の子の背中を見送った。

記憶を失う前の僕を返してくれと訴える加原さんの目が、今もなお、頭にこびりついている。

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不覚の仁情《アモル》 かおささ @yumasasaoka

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