第2話

 日曜日、朝早く目が覚めていつものようにコーヒーを飲みながら、落ち着かない数時間を過ごしていた。こんな時は、妙に時間がゆっくりと進む。


 待ち合わせ場所にだいぶ早く到着してしまい、近くのコンビニでタバコを吸っていると、雨宮が歩いている。


 水色シャツをゆるく着こなして、黒のパンツとスニーカーというラフな格好。


 初めて見る私服姿を目で追ってしまう。


 急いで車に乗り込んで、雨宮とピッタリのタイミングで待ち合わせ場所に到着した。


 「お疲れ様です」


 今日は、リラックスして助手席に腰をおろした。


 「これ、雨宮の」


 さっきコンビニで買ったコーヒーを指さす。

「ブラックで良かったよね」


 「ありがとうございます」


 今日はリラックスして、コーヒーを飲みながら外を眺めている。


 少しの無言の時間。この時間が、たまらなく愛おしい。


 「部長の私服姿、初めてで緊張します」


 「部長はちょっと(苦笑)。桜井でも貴哉(タカヤ)でも、どっちでもいいから名前がいいな…。敬語もいらないよ」


 「あ、はい。うん…。ハードル高いな。そして、なんだかこんな感覚新鮮です(笑)」


 目的地までは1時間以上かかる距離。一年近く一緒の職場にいても、何も知らないもんだな。他愛もない話をしながらの車中は、あっという間に過ぎていく。


 海鮮市場に到着。

 お目当ての海鮮丼の前に、新鮮な牡蠣に目を奪われている雨宮。


 「食べようか。ビール飲んでもいいよ」と言うと


 「じゃーお言葉に甘えて!」と元気な声で即答。

 はしゃいでいる雨宮に、俺も引っ張られる。


 海鮮丼も、予想を裏切らない美味しさだった。雨宮が楽しんでいるのが伝わってきて、意味もなく涙が流れそうだった。


 浜辺まで車を走らせて、海岸沿いの堤防で腰をおろす。


 「晴れて良かった。秋風も気持ちいい」

 少し寝そべってみたら、空と雨宮が一緒に見えた。


 自然と雨宮の手の上に自分の手を重ねていた。


 「ずっと好きだった」


 体を起こして、雨宮を見つめる。


 「俺とのこと、考えてみてくれないかな」


 「雨宮にとっては、急だったよな。ごめん…帰りの車、気まずくさせちゃったかもな」


抑えられない気持ちで衝動的に行動してしまった自分を悔やむ。


 「いえ、ありがとうございます。今すぐなんて答えていいか…。気持ちがついていかなくて」


「答えは急がないよ。もう、そんな歳でもないしね。長く生きているから、しがらみやいろいろな経験が行動を慎重にさせてしまう。どんな答えでも、やり辛いとか思わないでいい。全部俺のせいにして、いつも通りの雨宮でいてくれ」


 「ありがとうございます」


 優しく切ない雨宮のはにかんだ笑顔。

 俺の個人的な思いが、負担にならなきゃいいが…。


 「さ、暗くなる前に帰ろうか」


 行きとは、打って変わって静寂が漂う車内。それでも、居心地の悪さは感じていなかった。


 「部長はいつから…その、私を?」


 「最後まで、名前を呼んでくれなかったな(笑)」


 「結構、いつ言おうかって考えてましたよ…」


 照れて苦笑いをしている雨宮をチラッと確認できた。


 「いつだろうな…。これといって心当たりがないんだよ。気がついたらいつも見ていた」


 「面接の時も、私のことじっと見てましたよね。他の人は顔すらあげないで質問してたのに。あまりにもじっと見るから、私も目を逸らしたら負ける!と思ってた。たくさん、返答を用意してたんですよ。でも、部長の…タカヤさんの目が、私を見透かしてると感じて。本心を言わされました」


 「名前、嬉しいよ。そうか。そんな最初から見てたんだな俺。無意識だったよ。負けるって(笑)まあ、それがあったから今があるのか。運命の歯車は面白いな」


 また、静寂が車内を包む。その、静寂が俺をそっと後押しした。


 「ユキ。もっとお互いのことを話していきたいと思ってる。俺のことも、ユキのことも。無言でいる時間が落ち着く人って大切な人だと思うんだ」


 「うん」


 ユキの優しい顔に、懐かしさに似た心地よさを感じていた。


 それから、3ヶ月。俺たちは、一緒にいる時間が増えていった。

 

 俺の家に来ることも少なくない。一緒にお酒を飲んだり、2人でご飯を作ったり、寄り添いながらテレビを見たり。


 でも、体の関係になることは、なんとなく避けていた。


 SEXまではしていないけれど、手を繋いだり抱きしめたり…。

 唇から伝わる柔らかい感覚とか。それだけで、とても満たされた気持ちになる。


 世間でいう“普通”の価値観が通用しない。


 体に入れてしまいたいくらい、ユキと一つになりたいと思うけど、もう少し大事に愛でていたいという気持ちになる。


 そしてユキも、それ以上を求めてくることはなかった。


 「ユキは、どうして離婚したの?今でも、元旦那さんと仲良くやってる?」


「私は、あっちの親と同居してて。元旦那は、全て親の言いなり。でも、それが当たり前だと思っていたから、ニコニコと嫁をやっていたんだけど。価値観を……」

 「私ね。同居する時、自分をなくそうって思ったの。今でもはっきりその時の気持ち覚えてる。離婚を切り出した時も、私じゃなく嫁としてでしか見られてなかったっていうことが次々とわかって苦しかったし悔しかったな。だから、元旦那とは全然仲良くないよ。“住まわせてやってたのに、苦しんで生きれば”って言われて、養育費だって貰ってないしね。だから、本当に今の会社のお給料に助かってる(笑)」

 「子供に会えたのは嬉しいけど、好きじゃない人と結婚しちゃいけないね」


 さっき一瞬言葉を飲み込んでいたように感じた。でも、いつも元気に見せているユキの新しい一面を俺の前で見せてくれている。それが嬉しくもあったが、まだ、俺にも心を開いていないところがある。当たり障りのないところで収めようとしている感じ。


 ケンカをしたことない、麻美との関係が一瞬頭をよぎる。

 そんな時は、ユキに対していつもイライラとした感情があった。


「タカヤは?良い旦那さんだったんじゃないかって思うんだけど」


「俺は、そんなたいそうな理由はないんだ……。ケンカもしたことなかったし、転勤も多かったからほとんど離れて暮らしてたしね。どうして結婚したんだろうっていうくらいだから、離婚したんじゃないかな。今でも離婚前と変わらないかもしれない。連絡も来ないし、結婚している時と同じ額を入れているしね」


「変わらないなら、離婚する意味がわからないよ。これまでのままで居られたってことでしょう?」


 「俺さ、母子家庭で育ってるんだけど、母親が帰ってきたり来なかったりでさ。年の離れた姉貴もいたんだけど、姉貴も家に寄り付かなくなった。だからかな、会社で出世したいとかよりも、温かな家庭の方に憧れてるって気がするんだ。つまらない男かもな(笑)」


 ユキに話を聞いてもらううちに、どんどん自分のモヤモヤしたものが晴れていく。


 これまでにない感覚。ユキには、自分のありのままを愛して欲しい。


「俺…今まで、ちゃんと好きだって思った人がいなかった気がする。嫌いじゃないという感じなだけ。それでも、これまで全然疑問になんて思わないまま生きてこれたんだよね。好きじゃないから、期待がないんだよ。期待がないから、温かな家庭を築こうっていう努力もできなかった。それでも、世間的には普通の温かい家庭みたいなものを続けることはできる。一歩引いて、お互いぶつからないようにはできるからね……。何もないままでも人生は等しく終わりを迎えられる。そんなのは、嫌だってどっかで思ったのかもな」


 ユキが、トリガーだったとは言えない。重たく感じられても嫌だった。俺もどこか良く見せようとしている。


「私も、温かい家庭にすごく憧れがある。気持ちわかるよ。お互いに苦手を補い合いながら、辛いことは半分こ。幸せは2倍。人生の最後はそんな人と一緒が良いって思うもの」


「ユキには、両親もいて、子供の頃は温かい家庭だったんじゃないの?」


「うーん。離婚前までは、私の両親は理想の夫婦だって思っていたんだけど……。多分そうじゃないんだと思う。記憶がポツポツと欠落していて。実際、私にとっては小さい頃から家は落ち着かないところだった。でも、漠然とって感じ。私だけじゃなく、みんなも家は落ち着かないところなんだと思ってた。何十年もね」


「でも離婚した後、次の仕事が決まるまで少し家にいたんだけど、全然違って見えた。モラハラな父親と言い返せない母親……。そんな関係に気が付いちゃった。あーこれが、私のこれまでの価値観だったんだなって」


 ユキは、涙を流して続ける。


「なに不自由なく育ててもらった。母親はいつも手作り料理をだしてくれたし、お金に困ったこともない。離婚の時も親が資金援助してくれた。でも、生きづらかった。真綿で首を絞められるような……。暴力を振るわれたりした方がよっぽどわかりやすくていいじゃないかと思っちゃうくらい。自分がこんな考えだからダメなのかなって。自立しなくちゃ。一人で幸せを感じられなきゃ。でも、寂しい。助けてって弱くなっちゃう。いつも自分に矛先が向いて苦しいというか……」


 根っこは俺と一緒なのかもしれない。

 だから、俺はユキに惹かれたのかな。


 愛を知らない。愛に飢えている二人。


 俺もユキも、愛され方を知らないで育ってきた。安心して愛されてこなかったから…。


 テレビや、公園で見る温かな家庭に憧れてしまう。


 家庭は、異性との関係を持つ最初のコミュニティーだ。


 俺の父親は物心ついた時からいなかった。母親は、高校の頃に他界している。それも、男の家からの帰り道で…。


 俺は欠陥だらけの家庭だったが、ユキには世間的には“普通に見える”家庭があったのに、同じ傷を抱えてるなんて。


 ユキを守ってあげたい。これ以上誰にも攻撃されないように。


 いつも元気に見せているユキは、とても弱く、そして気丈だ。

 ただただ愛おしい。


「今日は、ずっと一緒にいたい」

 子供が待っているから、無理だとはわかっていても気持ちを言葉にせずにはいられなかった。


「そうしたいけど、もう帰らなくちゃ…」


 結婚したら、ずっと一緒に居られるのに。


 家庭を手放して、家庭を持ちたいなんて。


 何にも期待していなかったこれまでとは違い、ユキがどこかに行ってしまわないようにしてしまいたかった。

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